29.気付いたその想い
考えていた。背中の怪我は治療が必要なほどのものではなくなり、もはや不自由なく生活できるまで回復している。エルバートは傷が残ることを心配していたが、それも目立たなくなった。綺麗になくなることはないだろうが、それは仕方がないだろう。
それにレティシアは思い出してしまった。知り合った人が王城に出入りするような人だったことを。
身分を引け目に思ってはいない。そもそも引け目に感じるようなこともないのだから。ただエルバートは軍人で国のために働く人である。レティシアと一緒に過ごしていたのは不測の事態で、問題が解消された今、一緒に居る必要はないのではないか、と思ったのだ。
下町が懐かしかった。決して楽な暮らしではなかったけど、あったかくて困ったときにはたくさんの手が差し伸べられた。
エルバートの居る場所が悪いわけではない。ただ、言うとするならば。
居心地が悪いような気がしたのだ。自分はここに居るべき人間ではない、というような……。
「レティシアちゃん?」
気遣うようなオーウェンの声にレティシアはハッと顔を上げる。すると心配そうなオーウェンと、なぜか強張った表情で固まるエルバートと目が合った。
「あ……?」
「大丈夫? ぼうっとしてたけど?」
「大丈夫です……」
安心させるように微笑んだレティシアに、エルバートの顔はますます強張った。その変化の理由が分からないレティシアはただ首を傾げる。
「エルバート?」
「……いや、なんでもない」
視線を逸らすエルバートにオーウェンは小さく苦笑した。どうやらレティシアの言葉はエルバートに思いがけずダメージを与えたらしい。本人が一番驚いているようだが。
レティシアは不自然な態度のエルバートには構わず、オーウェンの方へと向き直った。
「帰りたいんですけど、ここから私が居たところって遠いですか?」
「まぁ、それなりに……。でも急になんで?」
そう。それはエルバートも気になったところだ。思わず息を詰めてレティシアの言葉を待つ。レティシアは迷うように視線をさまよわせた。
「怪我も治りましたし、傷も目立たなくなりました。これ以上甘えているのも嫌だし、お店も無断欠勤が続いているので……」
「あ、定食屋のことなら大丈夫。あの後部下を向かわせて諸事情で休む、って話しておいたから」
初耳だったレティシアはオーウェンの言葉に目を丸くした。それから少し安堵する。
良かった。何も言わずに姿を消してしまったから、きっと心配をかけていると思っていたのだ。オーウェンの気遣いに、内心で感謝するレティシアだったりする。
これなら戻ってもそんなに大きな混乱は招かないだろうな、と思ったレティシアは気兼ねなくお願いすることにした。
「そろそろ戻ります。今までお世話になりました。送ってくれますよね?」
「あぁ、それはもちろん……」
そこでオーウェンは反応のないエルバートを振り返った。
――果たしてエルバートは未だに衝撃から立ち直っていなかった。
忘れていたが、レティシアは無理やり連れて来たので帰りたがるのは当たり前のことである。なぜそのことが頭から抜け落ちていたのか、エルバートは自分で自分が不思議だった。
レティシアと一緒に暮らした時間は短いのに、それは本当に穏やかで。ともすればあの留学時代を思い出させるような穏やかな生活だった。
あまりにも一緒に居るのが普通だった。だからつい、この先もそうあるのだと漠然と考えた。――そんなことあるはずがないのに。
レティシアとエルバートは赤の他人だ。オーランド国の奇襲がなければ出会うはずもなかった二人。そしてここでエルバートが手を離せば、きっと二度と会うことはないだろう。少なくともレティシアから会いに来ることはない。
別に問題なんてないのだ。一時を共に過ごした。いずれは他の思い出と紛れて曖昧な記憶になってしまう出来事。
なのにどうしてだろう。――それを惜しいと思っているのは。
「――エルバート?」
反応のないエルバートを不思議に思ったのか、扉の近くに居たレティシアがいつの間にかエルバートの顔色を覗える場所まで来ていた。その心配そうな表情をぼんやりと眺める。
レティシアが帰る。それはエルバートのそばから姿を消すということだ。居ないことが日常となり、煩雑とした毎日に、その存在も思い出さなくなるだろう。
――本当に? エルバートは心の中で己に問いかける。
無理やりここに連れて来たのは、自分が「一緒に居たい」と思ってしまったからだ。離れがたかったから、もっともらしい理由をつけて。
離れがたいと思ったのはなぜだっけ。側に居たいと望んだのは。……いや、手放したくなかったのだ。自分のそばに置いておきたかったのだ。目の届くところに、温もりを感じるほど近くにレティシアを置いておきたかった。
それは紛れもない独占欲。
自分の中で出た結論に、エルバートはらしくなく驚いた。呆然と己の心の内を探るが、一度出た答えは引っ込まなかった。
レティシアが帰ると言ったとき、無性に腹立たしかった。離れることが嫌だった。そばに居ないと不安だった。……手の届かない場所に行って欲しくなかった。
目の届く範囲に居て欲しい。手の届く場所に居て欲しい。話しかければ応えられるところに居て欲しい。……こっちを見ていて欲しい。
気がついてしまえば想いは溢れる一方で、そのことにエルバートは戸惑う。
自分の中にこんなに大きな想いがあったのかとそのことに驚いた。
「――バ-ト? エルバート? ねぇ、聞いてる?」
「っえ?」
「良いでしょ?」
「あ、うん。……え?」
顔を上げたら目の前には真剣な表情のレティシア。そのことに動揺したエルバートは思わず頷いた。その瞬間、レティシアの顔が嬉しそうに輝いた。
何を話していたのだろうか。困惑したエルバートはそっとオーウェンを見やり、彼が天を仰いでいることに首を傾げた。
「ありがとう!」
「うん……?」
「これで安心して帰れるよ!」
「…………ん?」
今、帰ると言ったのか? エルバートにはレティシアが喜ぶ意味が分からなかった。だがそれもすぐレティシアが教えてくれた。
「魔術で町まで送ってくれるのよね? 一日で着くし安心した」
「っ!?」
思わずオーウェンを見るが、彼は肩をすくめて首を横に振った。
どうやらエルバートの思考が他所へ飛んでいる間、レティシアは自分が帰る話をしていたらしい。聞いていたのは魔術で家まで送ってくれるか、ということだったのだろう。
慌てて否定しようとしたが、あまりにも嬉しそうに微笑んでいるのでエルバートは何も言えなくなってしまった。そこにレティシアはさらに追い打ちをかける。
「ありがとう! 本当に感謝している。エルバートもお仕事、無理しちゃだめだからね。それじゃあお休みなさい」
「あぁ……」
軽やかな足取りでレティシアが出て行く。扉が閉まった瞬間、エルバートは椅子に項垂れた。
その様子にオーウェンが思いっきり溜め息をつく。
「…………バカめ」
今度ばかりは否定できなかった。