2.記憶を失った少年
レティシアが帰ってきてすぐにしたことは、ストーブに火を入れることだった。厚手のタオルで少年の濡れた体を拭うと、ありったけの毛布を家中からかき集めて、ぐったりとした少年の体を包む。
ストーブを寝台のそばまで持っていき、少年を毛布に包んだままその上に寝かせる。
冷え切った体は徐々に温かくなっていった。そのことに安堵しながら、レティシアは少年の右腕を持ち上げる。
そこには切り傷にも似た怪我があった。背中にも斜めに大きく傷が入っていた。
レティシアはそれらを消毒して、丁寧に包帯を巻いていく。
「とりあえずできることは全部やったわ・・・」
少年の呼吸は少し速いものの、寝顔は穏やかなものだった。どうやら怪我も命にかかわるほど大きなものではないらしい。
レティシアは少年の額に光る汗を拭い、枕元に引き寄せた椅子に座った。今夜は徹夜だろう。少年の容態も気になるし。
ベッドの下から大きめの箱を引っ張り出し、中から縫いかけの服と針を出す。ちょうどいいからこれを仕上げてしまおう。
レティシアは時々少年の汗を拭いながら、ずっと少年の傍らに付き添っていた。
誰かの動く気配でレティシアは目が覚めた。目の前には灰色の毛布。体を起こすと「うっ・・・」背骨がバキバキと音をたてた。
いつの間にか突っ伏した状態で寝てしまったらしい。そこでレティシアはやっと、昨日の晩に拾った少年のことを思い出した。看病のために起きていたはずなのに。
慌てて目の前の寝台の上を確認するも、そこは既にもぬけの空。触った毛布は冷たくなっていた。レティシアは椅子から立ち上がる。
広くない部屋だ。探せばすぐに見つかるはず。
そう思って部屋の中を見渡せば、少年の姿はすぐに見つかった。毛布を体に巻きつけ、窓辺に立って通りを見つめている。その少年らしからぬその姿に、レティシアは一瞬、声をかけるのを躊躇った。
やがて少年はレティシアが見ていることに気がついたのか、ゆっくりとこちらを振り返った。目が合って、レティシアの心臓が小さく跳ねた。
「あ・・・」
鮮やかな紫の瞳がレティシアに向けられる。その瞳に浮かぶのは疑念と困惑。それから少しの怯え。レティシアはそれを敏感に感じ取り、安心させるように微笑みかけた。
「大丈夫? どこか痛いところはない?」
もしかしたら無反応かも、と思ったが予想に反して少年は首を横に振った。とりあえず反応があったことにレティシアは安堵する。
「そっか。昨日のことだけど、覚えてる?」
少年は少し悩むように視線を彷徨わせてから、もう一度レティシアを見た。それから悩むように、あるいは苛立ったような様子で「・・・お前、誰?」と呟いた。
想像以上に不機嫌な声音に、レティシアの思考回路は固まる。答えないレティシアに、少年はよりいっそう不機嫌になったようだった。
少年はレティシアから視線を外すと、再び窓から外の様子を眺めた。顔はしかめ面のままだが。どうやら可愛らしい容貌に反して、なかなかいい性格をしているらしい。
レティシアは少年の後ろに立って、その後姿を観察する。怪我をしているってことは厄介なことに巻き込まれているのかと思ったがそうでもないようだ。もしそうだったら、こんな風に無防備に外に向かって姿を晒したりしないだろう。
「ここはどこだ」
「え?」
「・・・・・・俺は、誰なんだ」
聞こえた微かな呟き。隠しきれない同様を滲ませた言葉だった。顔を覗き込めば、思いがけず不安定に揺れる瞳と目が合う。
嫌な予感がレティシアの胸に過ぎった。
「君、名前は?」
「知らん」
「どこから来たの?」
「知らん」
「・・・どうして路地裏に倒れていたの?」
「知らん」
「・・・・・・何か覚えてることは?」
少年からの返事はなかったが、それが何よりの返事だった。レティシアは思わず天を仰いだ。そんな。まさか。
記憶喪失だなんて!!!
頭を抱えてしゃがみこむレティシアを、少年が不安そうな目で見下ろす。その姿にレティシアの胸が痛んだ。
「そうだよね・・・君のほうが不安だよね・・・」
昨日以前の記憶がないのだ。その不安は計り知れないものだろう。それなのに弱音も吐かず、なんて強い子なんだろう。レティシアは思わず泣きそうになった。
だけど泣いたらきっとこの子も不安になるだろう。レティシアは滲み出そうになった涙を引っ込め、少年に笑いかける。あたしまで不安になったら、この子がもっと不安になっちゃうものね!
レティシアは立ち上がると意識して顔に笑顔を浮かべた。少年はそんなレティシアはまじまじと見つめた。
「とりあえず君のことはあたしが面倒を見ます! どうせ一人暮らしだし、一人も二人も変わらないでしょ」
そうと決まればまずやるべきことは少年の服の調達だ。確か隣の家には少年と同じ年頃の男の子が居たはず。当座の服を借りてこなくては。
とにかくこの子が頼れるのはあたしだけなのだ。守ってあげなくては。そんな思いがレティシアの心に火をつけた。
俄然やる気を出したレティシアを黙って見ていた少年は、そっと近寄るとレティシアの服の裾を引っ張った。レティシアは少年と目を合わせるようにしゃがむ。
小首を傾げるレティシアに少年が一言。
「腹が空いた。飯にしろ」
「・・・・・・」
早くも心が折れそうになったレティシアなのだった。
* * *
レティシアは簡単なスープと硬い黒パンをテーブルに並べる。少年はそれを見て、顔をしかめた。ちょっと。食べられないって言うんじゃないでしょうね。
「これが飯か?」
「贅沢言わないの。これしか家にはありません」
少年は何か言いたそうにしていたが、結局黙ってそれらを口に運んだ。それを見届けてから、レティシアはひざの上に服を広げる。今のうちに借りてきた服のサイズ直しをしてしまおう。
食べるのを渋っていたわりには、少年は黙々とそれらを食べ続ける。昨日から何も食べていないのなら、お腹が空いていたのだろう。レティシアはスープを上品に飲む少年を見ながら、服の繕いを済ませた。
「ちょっとこっちに来て」
食べ終わるころを見計らって声をかけたら、少年は従順にも椅子から立ち上がってレティシアの方に来た。それに安堵しながら、少年の背中に服を当てた。
ちょっと大きいが、着れないこともないだろう。レティシアはそれを少年の手に渡す。
「着替えられるわよね?」
少年が頷く。良かった。着替えられないと言われたらどうしようかと思った。少年は服に袖を通して前のボタンを閉める。こっちを向いた姿にレティシアは驚いた。
容姿が整った少年だとは思っていた。金髪に灰がかった紫の瞳。服をまとったその姿は、なぜか貴公子の風格を伴っていた。
「っ、」
思わず息を呑む。少年らしからぬその気迫に、レティシアは気圧された。
「どうした?」
「え?」
黙りこむレティシアを見て、少年は不思議そうな顔をする。レティシアは自分がほうけていたことを悟り、慌てて首を横に振った。
びっくりした。なんだか少年が大きい存在に見えた。
ちょっと長い服の袖を折る少年に微笑みかけ、レティシアは重大なことを思い出した。
「あ・・・」
名前。少年の名前を決めなくちゃ。さすがに名無し君と呼ぶわけにはいかないし。
「ねぇ、名前どうしようか? 呼ぶときに困るもんね。当面の呼び名を決めよう?」
目を輝かせるレティシアに反して、少年は冷め切った表情。まったく興味ないのが見て分かる。
「・・・・・・なんでもいい」
「そう?」
レティシアは少年をじっと見つめる。さて、何がいいだろう?
「・・・・・・アッシュ」
「え?」
「アッシュにしよう。昔飼ってた犬の名前」
犬と同じ名前と聞いて少年――アッシュは不満そうだったが、レティシアの中では決定した。アッシュ。我ながらいい響きだ。
楽しそうに笑うレティシアに文句を言うことも諦めたのか、アッシュもそれ以上、何も言わなかった。