26.突然の闖入者
なぜか嬉しそうなエルバートのことは放置し、レティシアは部屋の中を見回す。
品の良い調度品で揃えられたそこは、どうやらエルバートの執務室のようだった。レティシアは改めてエルバートが「王国魔導軍軍帥」という地位に居ることを思い出した。
背後の机で仕事をするエルバートを見る。これが王国魔導軍軍帥。下町の定食屋でオムライスを食べていたアッシュと同一人物……。
「……ぷっ」
レティシアの脳裏に、軍服を着たエルバートがオムライスを口いっぱいに頬張っている映像が浮かんだ。似合わない、と思ったのは黙っていよう。
部屋を見回しながらにやにや笑うレティシアを、エルバートは不思議そうに見たが特に何も言わなかった。レティシアが楽しそうならそれでいいか、と少々疲れた頭が考えることを放棄する。
興味深そうに室内を見回す分には害はないだろう、と目の前の事務処理に没頭した。レティシアはそれを横目で見ながら窓辺へとこっそり寄る。
眼下に広がるのは広い馬場。奥にあるのは鍛錬場だろうか。馬場には雄々しい軍馬たちが悠々と闊歩していた。国境付近で戦闘を繰り広げた軍の本隊は未だ帰還を果たしていないらしく、軍舎はどこかがらんとした雰囲気を醸し出していた。
レティシアが手持無沙汰に窓の向こうを眺めれば、扉が軽くノックされる。そして返事をする前に、それは向こう側から開けられた。
「お茶なんかいかがですかー?」
「おい、入っていいとは言ってないぞ」
「細かいことは気にするなって。なに、押し倒そ……ぐふっ!」
扉の向こうに立っていたオーウェンは、ワゴンを片手に押しながら部屋の中に入ってくる。我が物顔で入ってきたオーウェンにエルバートは渋い顔をした。そんなエルバートの姿に、オーウェンはにやにやして何かを言いかける。途端にエルバートの右の拳がオーウェンの腹に思いっきりめり込んだ。
オーウェンが何を言ったのか分からなかったレティシアは首を傾げるが、エルバートはさらにオーウェンの首を軽く絞めて黙らせる。
「ちょっ……! 死んじゃう……!」
「うるさい。余計なことを言うな」
容赦なく首を締め上げるエルバートの腕を叩いて、オーウェンは音を上げた。それを見てエルバートは締め上げていた腕の力を緩める。咳き込むオーウェンをレティシアが不安そうに見つめた。
「大丈夫ですか?」
「これも愛情表現さ……!」
「お前、一度落ちとくか?」
鋭い一言に、オーウェンは猫のように跳ね起き、エルバートから距離を取った。その俊敏な動きにレティシアは目を丸くし、エルバートは喉を鳴らして笑う。
オーウェンはじっとりエルバートを見つめた。そんな彼には構わず、エルバートは事務処理を続ける。レティシアはそんな2人を不思議に思いながらも、オーウェンが持ってきたワゴンに近づく。
そこには一通りのお茶の用意がされていた。道具はレティシアが普段遣っているものよりも上等なものだが。
「オーウェンさん、これ淹れてもいいんですか?」
「おぅ。道具は揃ってるだろ?」
「はい」
一応確認を取ってからレティシアは三人分のお茶を用意した。茶葉からは芳醇な香りがする。それだけで高いものだろうことは予想できた。
レティシアは三人分淹れてそれぞれの前に茶器を置いてから、いそいそとカップの縁に口を付けた。途端に甘酸っぱい味が広がる。
「美味しい!」
「良かった。それな、セルヴィン国でも少ししか取れない希少なやつなんだって」
「そうなんですか!?」
「そっ。だからいっぱい飲んどけ」
そう言うオーウェンはもう茶器に入っていたお茶を飲み終わっている。レティシアは苦笑しながらオーウェンの差し出す茶器におかわりを注いだ。
「それで?」
「え?」
「うまく説明したんだろうな」
「あぁ……。うん、まぁ……」
歯切れの悪い返事をするオーウェンに、エルバートの目が剣呑に細められる。それを見たオーウェンは慌てて両手を前で大げさに振った。
「言った! 納得はしてくれた! でも殿下に見つかった!」
「殿下?」
「わかるだろ?」
困ったように顔色を窺うオーウェンに、エルバートは嘆息する。話の見えないレティシアはた
だ目を丸くするだけだ。
殿下、とオーウェンは言っていた。それはつまりセルヴィン国の王子のことを指しているのだろう。確かエルバートは第一王子だったから弟殿下の誰かかな、と思っていたら。
「……足音が近づいてきてるな」
「あぁ。しかも軽い。……これはひょっとすると、」
二人の視線がレティシアの方に向く。正確にはレティシアの背後にある扉になのだが。
オーウェンは困ったような顔で、エルバートはわずかに顔をしかめながら扉を注視する。見られているわけではないと分かっているのだが、レティシアは居心地が非常に悪かった。
場所を移動しようかな。そう思って腰を上げようとしたその時。
「あーにーうーえー!!!!!」
背後の扉が破壊されかねない勢いで開けられた。
思わず固まるレティシア。恐る恐る背後を振り返れば、明るい金色の髪が目に飛び込んできた。
扉を開けた男もレティシアの姿の目を丸くして固まる。嫌な沈黙が室内に満ちた。
「……お前、誰だ?」
レティシアは困ってエルバートを振り返る。エルバートも突然の闖入者の登場に、わずかに顔をしかめた。闖入者の方はエルバートの姿を見つけると駆け足で部屋へと入ってくる。
「兄上? 見知らぬ女がいるけど。新しい侍女でも雇うの?」
「雇わん。侍女じゃない」
「じゃあ掃除婦?」
次々と出てくる言葉に、レティシアは顔をしかめる。これはもしかしなくても馬鹿にされているんだろうか。いや、別に侍女や掃除婦が悪い職業だとは言わないが。少年の言動には悪意が感じられた。
思わずレティシアが少年を注視すれば、向こうははっきりと睨んできた。無言で火花を散らし合う二人に、オーウェンが苦笑する。
「ユーリ、勝手に軍舎に来ては駄目だろう」
「だって兄上がちっとも来てくれないから!」
「俺とお前では立場が違うことが分かるだろう?」
エルバートが優しく諭すが、少年は不満そうだ。
レティシアは2人をなんとなく見比べてみる。同じ金髪に紫の瞳。顔立ちもどことなく似通った点がある。それにさっきエルバートのことを兄上と呼んでいたような……。
「え、エルバートの弟?」
思わず呟いた言葉に少年が激しく反応した。目をはっきりと怒らせてレティシアを睨む。
「お前、不敬だろう! 兄上を呼び捨てにするなんて!」
「いい。俺が許してる」
エルバーートはいきり立つ少年を宥めようとして言ったのだが、むしろ逆効果だった。少年は目を見開いてエルバートを見つめる。
その顔をが微かに青ざめて見えるのは、レティシアの気のせいだろうか。少年は勢いよく振り返ると大股で詰め寄ってきた。その勢いに、レティシアは一歩下がる。
「兄上が誰か知ってるのか?」
「まぁ……」
「この国の王太子だぞ!」
「いや、継承権は放棄したから今はお前が王太子だ」
何気なく言われた一言。レティシアはその意味をぼんやりと考え、それから目を見開いた。
「兄上! 僕は王太子になることを了承した覚えはありません!」
「継承の順番で言えば弟のお前だろう」
「僕は王太子になるつもりはありません」
「じゃあお前も放棄しろ」
「僕は兄上に王太子になって欲しいのです!」
キャンキャン子犬のように吠える少年にエルバートは煩そうな顔をした。少年はちっともめげないが。
レティシアはそんな少年をじとっと見ながらエルバートの袖を引っ張った。エルバートはうるさい少年の頭を押さえると、レティシアの方に顔を寄せた。
「なに?」
「これ、エルバートの弟?」
「これとはなんだ! 無礼な奴め! 僕が誰かわからないのか?」
「まったく」
悪びれた様子のないレティシアに、少年は一瞬詰まった後、尊大に言い放った。
「僕はユリアン・オル=セルヴィン。兄上の実の弟だ。わかったら即刻この部屋から出て行け!」
少年――ユリアンの言葉にレティシアは茫然となる。エルバートはさっさと出て行けと言ったユリアンの頭を思いっきり叩くのだった。