24.忍び寄る罠
王宮の謁見の間は、かつてないほどの緊張感に満ちていた。
奥の一段高くなったところに据えられた玉座には誰も居らず、代わりに隣に据えられた一回り小さな王妃座に一人の女性が座っていた。
女性は口元を上品に扇で隠し、跪くエルバートを楽しそうに見下ろす。
「無事の帰還、喜ばしく思いますわ。あなたの活躍はわたくしの耳にもしっかり入ってきております」
「恐れ入ります」
慇懃に頭を下げるエルバートを王妃は目を細めて見つめる。輝く金髪は結い上げられ、髪飾りが微かな音をたてた。その音にエルバートが顔を上げれば、王妃と目が合う。
「……なんですか?」
「久々に会ったんですもの。そのような他人行儀はお止めなさい。人払いだってそのために済ませましたのよ」
その言葉にエルバートはわずかに顔をしかめ、それでも文句を言うことなくその場を立つ。それを見て王妃も立ち上がってエルバートの方に手を伸ばした。
「さぁ、こちらへおいでなさい。――母さまによくお顔を見せて」
優雅に微笑む王妃の手を取れば、顔を覗き込まれる。拒否すれば後でどんな目に会うか分からないので、エルバートは大人しくされるがままになった。
王妃は仏頂面で立つ自分の息子の顔を覗き込む。怪我がないことにホッとしながら、内心で新しく知った情報を反芻した。
全身で帰りたい、と言っているエルバートの腕を取り、王妃はにっこりほほ笑んだ。逃がすはずがなくってよ。心の中でエルバートに囁く。
「さぁ、久々に親子水入らずで話しましょうね」
エルバートは思いっきり嫌そうな顔をしながら、それでも大人しく王妃の言葉に従うのだった。
目の前には美味しそうなお菓子たち。温かな紅茶にはたっぷりの蜂蜜が入っている。レティシアが喜びそうだな、そんなことを何気なく思って、思わず顔をしかめた。
向かいに座るのは自分の母でもあるセルヴィン国の王妃。その白々しい笑顔に、内心で舌打ちしたくなった。
ここに報告に来た時点で、こうなることは予想済みだった。エルバートが王宮を飛び出して以来、この母は何かと用事を言いつけてはエルバートを王宮に呼び寄せる。
それも王子に戻れ、と言った説教のためではない。王都でエルバートがどのように暮らしているかを知るためなのだ。
つまり、自分の欲求を満たすためである。そして今回もきっと。
「生活に変わりはないの?」
ティーカップをソーサーに戻した王妃が開口一番、エルバートにそう訪ねてきた。内心でドキリとしながらも、表面上はなんでもない風を装ってエルバートは答える。
「えぇ。屋敷の者が留守をしっかり守ってくれていたので何も問題ありません」
「戦地で厄介な事態に巻き込まれた、と聞いたけど?」
「ご覧の通り、無事ですよ」
微笑みながら堪えれば、王妃もにっこり微笑み返す。エルバートは蜂蜜入りの紅茶を口に含みながら、心の中で盛大に舌打ちをした。
相変わらず耳が早い。エルバートが戦地で襲われたことは極秘だったはずだ。それなのにもう耳にしているとは。
王妃の情報網は甘く見れないな、と思いながら向かいに座る王妃を盗み見る。その瞬間、エルバートは鋭い瞳に射抜かれた。
「っ、」
「ところで、面白い話を聞いたのだけど?」
「……面白い話、ですか?」
「あなたが戦地から女性を連れて帰った、というものなんだけど」
来た、と思った。エルバートは向かいに座る王妃を見る。
王妃は微笑みを口元に浮かべたまま、目だけは鋭くエルバートを見ていた。その目はどんな嘘も見抜かんとしているかのようである。
「母上は私が女性を連れ帰ったと思っておられるんですか?」
「分からないからあなたに聞いているのよ」
「どこからそんな話が出たんですか?」
話の意味が分からないな、という表情で言えば、王妃の目がわずかに見開かれる。それから困惑といった顔でエルバートの顔を見返す。
「では事実ではない、と?」
「そうですね」
正確には戦地から連れ帰った子ではない。元の場所から戦地へと連れて来られ、再びエルバートに無理やりここに連れてこられた子だ。
心の中でそんな言い訳をしながら、エルバートは控えている侍女におかわりを頼む。落ち着いた様子でお茶を続けるエルバートを、王妃はつまらなそうに見た。
「そうですか。では無駄になってしまいましたわね……」
「なにがです?」
「あなたの屋敷に遣いをやったんですよ。事実ならぜひとも会いたいと思って。あなたが連れて帰ってくるなら未来の娘になるかもしれないでしょう?」
一瞬、エルバートは何を言われたのか分からなかった。右手にティーカップを持ったまま、目を見開いて王妃を見る。
固まるエルバートとは裏腹に、王妃は無邪気な笑顔を向けてエルバートを見た。
「わたくしったら早とちりでしたわ。遣いは無駄足になってしまいましたね」
「……遣いをやったんですか」
「えぇ。あなたがこちらの部屋に移ってすぐに」
「用事を思い出しました。これで失礼します」
ティーカップを乱暴にソーサーに戻すと、エルバートは挨拶もそこそこに席を立つ。後はわき目を振らずに部屋を出た。
王妃はそんなエルバートの背中を見送り、口元に笑みを浮かべる。それから少し冷めた紅茶を口に含んだ。
「そんなに慌てるなんて。会うのが楽しみになったわ」
楽しそうな王妃に小さな呟きは、部屋を出たエルバートには届かなかった。
* * *
レティシアは一人、エルバートの屋敷で暇を持て余していた。
エルバートは朝から王宮に出かけて行き、その際、絶対に屋敷からは出るなと厳命されている。したがって現在、レティシアは一人サンルームでティータイムを楽しんでいた。
「……暇だ」
することもなく、ひたすら紅茶を飲む。恐ろしいほどに暇だった。
下町に居たころは今ごろ、お昼で混んだ定食屋さんで忙しく働いていただろう。あの頃はもう少し自由な時間が欲しい、と思っていたが、いざ暇になるとすることがなくて困った。
「どこにも行くな、って言われたしなぁ」
本当はちょっと王都見学をしてみたかった。だが、土地勘のないレティシアが一人で王都に行っても迷子になるのが関の山だろう。そう思ったレティシアは大人しくエルバートの帰りを待っていた。
それにしても暇。何かすることないかな、と考えていたレティシアは、背後から聞こえた声にびっくりした。
「レティシアさま、」
「っ!」
驚いて振り返れば屋敷の執事が立っていた。かすかに顔を強張らせながら「どうしたんですか?」と尋ねる。
「レティシアさまにお客さまがいらっしゃっています」
「……わたしに? エルバートじゃなくて?」
「はい。レティシアさまに」
答える執事の声ははっきりとしている。レティシアは小さく首を傾げた。
ここにレティシアを尋ねるような人など居るだろうか。そもそも、ここにレティシアが居ると知っている人は少ない。いったい誰が……。
そんなことをつらつらと考えているうちに、執事が客人をサンルームへと通す。現れた人物に、レティシアは目を丸くした。
「オーウェンさん!」
「おう。元気そうだな」
知っている人の登場に、レティシアの顔は自然とほころんだ。そっか。オーウェンさんが居たんだっけ。
納得するレティシアの一方で、なぜかオーウェンの顔色は悪かった。それに気付いたレティシアが気遣わしげにオーウェンを見る。
「どうかしたんですか?」
「あ、いや……ちょっと付き合って欲しんだけど」
歯切れの悪いオーウェンは、レティシアと目を合わせないようにしてそんなことを言う。そんなオーウェンの姿に、レティシアは首を傾げた。
「付き合う? どこにですか?」
「あー……来れば分かる」
「でも私、ここから出ちゃいけないって言われてるんですよ」
「大丈夫。閣下も居るはずだから」
その言葉にレティシアは目を丸くした。どうやらオーウェンの目的地にはエルバートが居るらしい。
それなら行ってもいいかな、と思ったレティシアはオーウェンに行くことを承諾した。その瞬間、オーウェンは悲壮感たっぷりに溜め息をつく。
「俺、閣下に殺されるかも……」
悲しい呟きは、残念ながらレティシアには届かなかった。