23.つかの間の休息
エルバートのお屋敷で世話になってから、まずレティシアが驚いたのはその広さである。
一部屋がレティシアの家と同じくらいと言っても過言ではないのに、この屋敷には部屋数だけでも20はくだらないというのだ。しかもダイニングやリビング、応接室や書斎は別だという。
「そんなに部屋、いらないでしょ」
レティシアは呟いて溜め息をついた。この屋敷で暮らすのはエルバートだけだ。どう考えても部屋数は多すぎるだろう。それなのに使用人は、毎日全ての部屋も掃除しているのだから大変だ。そう言ったらエルバートに笑われた。
「気にしたことなかったな」
「それはあなたが生まれながら高貴な人間だからですよ。私だったらこんなに広いと逆に落ち着かない……」
エルバートの屋敷に滞在しているレティシア。すでに三日目になるというのに、未だにあの広すぎる部屋に慣れていなかったりする。
ベッドも大きすぎるし、なにより座れば身が沈むほどふかふかなのだ。レティシアは逆に身体が強張って、寝苦しい思いをしていたりする。
改めてエルバートとの違いを見せ付けられてしまった。どんなにエルバートがレティシアに気さくにしようとも、この状況がレティシアに現実を見せる。
相手は王族で生粋の貴族。自分は下町育ちの庶民だと。
「……元気がないな」
ソファーに座ったまま黙り込むレティシアを、エルバートは不思議そうに見る。
下町ではあんなに身体を動かしていたレティシアだが、ここに連れてこられてからはおとなしく過ごしていた。エルバートに安静にしていろといわれた事も関係しているが、少し様子がおかしいような気がする。
そう思ったエルバートはレティシアの顔をこっそり観察する。レティシアの顔色は良好で、怪我の影響もほとんどないと言っていいだろう。まぁ、ほぼ回復していたのをエルバートが無理やり連れてきたのだが。
「どうした? 体調が悪いならそう言ってくれ」
「そうじゃないの。そうじゃなくて……」
うまく説明できない。言うなれば少し居心地が悪かった。
自分はここに居るべき人間ではないと日々思い知らされている。レティシアの知らなかった世界がここにはあるのだ。今までとは明らかに違う世界が。
「本当に王子様だったんだね」
何度目かになる言葉をしみじみと呟けば、エルバートが困ったような顔をする。ここに来てからレティシアは気がつけばそればかり。エルバートもさすがに嫌になってきた。
記憶をなくしてレティシアの家で暮らしていた時、エルバートにとってそこは存外に居心地の良い空間だった。いまだって状況は変わらないのに、エルバートに記憶が戻りお互いの立場を自覚した途端、急にレティシアはよそよそしくなった。
エルバートにはそれが残念でならないのだ。
「自分の庶民具合が嫌になるわ……」
レティシアは青磁のカップを持ちながら、溜め息をこぼす。意味を測りかねてエルバートがレティシアを見れば、レティシアは顔をしかめながら自分の持っているカップを指差した。
「だって紅茶を飲むのにも気を使わなきゃなのよ。このカップだって安くはないんでしょう?」
「いや、そんなことはない思うが……」
「それはあなただからです。私からすれば口を付けるのも怖いくらいだわ。つくづく貧乏性が抜けないのね、私って」
そう言ってレティシアはカップをソーサーに戻す。それから人差し指の先でソーサーをテーブルの中心へと押しやった。
エルバートはその一部始終を黙って見ている。つまりレティシアは、この屋敷があまりにもお金がかかりすぎて落ち着かないと、そういうことを言っているのだろうか。
そう思ったらなんだか気が抜けて、エルバートは口の端を緩める。てっきりレティシアはエルバートの身分に遠慮しているのかと思った。まぁ、確かに遠慮しているのだろうが。
一人で楽しそうに笑っているエルバートを、レティシアは不思議そうに見つめる。
「なんですか?」
「いや、てっきり俺と一緒に過ごすのが嫌なのかと思ってた」
正直な気持ちを語れば、レティシアが居心地が悪そうにしている。少し拗ねたように見えるのは、図星を指されたからなのだろうか。
「貴族だろうな、とは思っていたからそこに関しては抵抗なかったんです。もちろん王族って聞いて驚きましたけど……」
「けど?」
「年下だと思ってたんです。なのに年上だったなんて!! 一緒のベッドとかで寝ちゃったんですよ……あまつさえ、着替えとか……」
恥ずかしい! と言ってうなだれるレティシアを見て、エルバートも過去を振り返る。
確かにレティシアと同じベッドで休んでいた。怪我をしていたときはレティシアに傷の手当をしてもらったり、着替えも手伝ってもらったりもした。
しかしエルバートにとって、着替えの手伝いなんかは日常茶飯事だ。今さら人に裸を見られたくらいで騒いだりしない。さすがに添い寝をしてもらう習慣はないが。
「まぁ、不可抗力と思えば……」
「そう思わなきゃ羞恥心で死ねます……」
どうやらレティシアのダメージは想像以上に大きいらしい。
レティシアにしてみれば、頭を抱えたい事実だ。知らなかったとはいえ、男の人と一緒に寝ていたとは。いや、あの時は子供だったんだし、問題ないのか?
だんだん思考がおかしな方向に流れていく。現実逃避をしていたレティシアは、エルバートが楽しそうに笑っているのを見て不満そうに唇を尖らせた。
「なんで笑うんですか」
「いや……元気ならそれでよかった」
未だに笑っているエルバートにレティシアは不満そうだったが、それ以上何も言わなかった。
エルバートは唇を尖らせながら紅茶を飲むレティシアを観察する。良かった。今までのレティシアと何も変わっていない。そのことにエルバートはなんだか安心した。
二人で紅茶を飲んでいるとドアをノックされた。
「入れ」
エルバートの短い言葉にドアがゆっくりと開く。そこには頭を下げた侍女が一人立っていた。
「どうした?」
「オーウェン・シディ副軍帥がお見えです」
「通せ」
侍女はすぐに脇に退いた。扉の影からオーウェンが顔を出す。
二人で優雅にお茶を音でいるのを見て、オーウェンは呆れたような顔をした。促されるまま、空いている席に座る。
「どうした?」
「報告に行くって言っただろ。それと忠告も」
「忠告?」
聞きなれない言葉に顔をしかめれば、オーウェンがにやりと笑った。
「陛下に戦況を報告していないだろ」
図星だったのか、エルバートは目を逸らして黙り込む。それを見てオーウェンはますます楽しそうに笑った。
「喜べ。お前が屋敷に女を連れ込んでいることが知られたぞ」
「……は?」
「明日の朝一番で報告に上がれとの命だ」
「陛下から?」
「王妃陛下から」
エルバートは思わず呻いた。厄介な人に知られた。
愉快そうなオーウェンと項垂れるエルバートを、レティシアは不思議そうに見つめる。
彼女は知らない。これから起こる受難の数々を――。