21.君が彼で、彼が君で。
あの戦闘以来、野営地には浮かれた空気が流れていた。負傷者はもちろん居たが、その数も今までの戦闘に比べれば圧倒的に少ない。
防衛線を国境に張り直したセルヴィン国軍は、交替の常駐兵を残し撤退を決めた。負傷者の回復を待って軍は帰還する。
もちろんエルバート率いる王立魔導軍も帰還が決まった。部隊は帰還準備に追われているはずだが、なぜか誰もが固唾を飲んで一つのテントの様子を窺っている。
彼らの絶対的君主であるエルバート・レストンがあのテントに入って半時。未だ彼は出てこない。
「どうしたんだろう……なんかあったのかな」
「レティシアちゃんが目覚めてないとか?」
「いや、さっきの叫び声を聞く限り、起きてるだろうな」
部下たちは一様にテントを見る。しかし、誰もその中へ入ろうとはしなかった。だって何があるか分からないから。
エルバートは部下がレティシアに構うのを嫌っている節がある。それなのにあの中に入ったら、きっと血を見ることになるだろう。過日の戦地での戦いぶりを見ている兵士たちは、全員がそう思った。
いったいどうなっているのだろうか。気になるが、見ることはできない。
果たして中では、レティシアが文字通り石のように固まっていた。
「ほら、薬だ。飲め」
無遠慮に差し出された薬湯を、レティシアはじっと見つめたまま受け取ろうとしない。そんなレティシアの様子に、エルバートは溜め息をこぼした。
「いつになったら慣れる? 前はこんなの、気にしてなかっただろ?」
「だってそれは……!」
思わず顔をあげて、エルバートと目が合う。その触れれば切れそうな美貌にレティシアは訳もなく戸惑った。
アッシュだったころのエルバートは記憶がなかったせいか、気安さがあった。おまけに見た目も子供で親しみが持てた。
だけど今のエルバートはレティシアの年上であり、見た目通りの大人の男なのだ。理性的な瞳に見つめられ、レティシアの身体は不自然に強張る。
「と、とにかく! 自分のことは自分でやるので!」
「できないから言ってるんだろ」
身に覚えがあるレティシアはうっ、と詰まる。
昨日滋養があると渡されたスープを受け取ったとき、手に力が入らなかったレティシアはそれを落としてしまったのだ。おかげでエルバートに過保護なまでに心配されることになってしまった。
エルバートが心配そうにレティシアの顔を覗き込む。レティシアは咄嗟に顔を隠す。
「…………おい」
「王子さまにこんなことさせられないよ」
レティシアの言葉にエルバートは不満そうに顔をしかめる。それからレティシアの頤を掴んでこちらを向かせた。
「っ、」
顔を逸らしたくても、エルバートがしっかり掴んでいるのでそれも出来ない。エルバートの紫紺の瞳がレティシアをまっすぐに射抜く。
「レティシア」
「……はい」
「俺は何も変わってない。お前に拾われたあの時も、姿が戻った今も」
エルバートは何度言ったか分からない言葉を、もう一度レティシアに告げた。レティシアは気まずげに目を逸らすだけ。
エルバートは何度も繰り返しそう言うが、やはりすぐには納得できない。やはり立場が違いすぎるから。
「とにかく。薬湯を飲め」
ずいっと差し出されるそれ。レティシアは断り切れず、それを受け取った。
一口飲んで顔をしかめる。苦い味が口いっぱいに広がった。
「ほら。水だ」
渡された水をレティシアは素直に受け取る。それを見てエルバートはなぜか満足そうだった。
その顔を見てレティシアは複雑な気持ちになる。一国の王子にこんなことしてもらっていいのかなぁ……。
レティシアはちょっと不安になりながらも、エルバートが満足そうだからいいかな、と自分を納得させることにした。
レティシアは水を飲みながら外の様子を窺う。テントの向こう側で人が動き回っているのを感じた。どうやら帰還準備が進んでいるらしい。
「ねぇ。いつここを発つの?」
「え? あぁ……一週間くらい後かな」
一週間か。じゃあそれまでに体調を直さないと。そこまで考えて、ふと思う。
「帰る前に私のこと、元の場所に戻してくれるよね?」
「え?」
「あれ?」
お互いに顔を見合わせる。レティシアは不思議そうに。エルバートは理解不能という顔で。その理由が分からないレティシアは、ただエルバートを見つめる。
エルバートは当然、という顔のレティシアを茫然と見た。レティシアの言っていることは当たり前だ。戦局は安定し、エルバートは記憶を取り戻した。
レティシアは巻き込まれてここに連れて来られた。しかし問題が解決した今、レティシアがここに残る理由はない。
「……帰る?」
「うん。……え、まさか自力で帰れと?」
ここから自力で帰る。それを考えて、レティシアは顔を歪ませた。ここがどこだかも分からないのに、どうやって帰ればいいのだろう。
レティシアは思わず顔を歪めた。エルバートもなぜか顔を歪めていた。
帰ろうというレティシアの言葉は当然だ。元々ここに居るのがおかしいのだから。だが、こんなにもあっさりと帰ると言われるとは思わなかった。
そしてあっさりと帰ると言ったレティシアに、不愉快さを感じた。
エルバートはしかめっ面を隠そうともせず、レティシアの方へと身を乗り出す。レティシアは上体をわずかに反らせた。
「怪我がまだ治ってない」
「えっと、でも一週間もあれば治るだろうし……」
「傷跡のことだって残ってる」
「残っちゃったら諦めるよ。治しようがないもの」
何を言ってもレティシアは帰る意思を曲げようとはしない。それがまた不自然にもエルバートを不快にさせた。
レティシアは何一つ変なことを言っていない。だからエルバートが不愉快に思うことは何もないのだ。
「……お前は。元の生活に戻れるのか? 何もなかったように」
気が付いたらエルバートの口からそんな言葉が出ていた。レティシアは意外なものを見るような目でエルバートを見返す。
少し悩んだ後、レティシアは。
「……たぶん」
至極あっさりとそう言った。その瞬間、エルバートの中で何かが弾けた。
寝台に乗りあがり、レティシアを包み込むように覆いかぶさる。いきなりのことにレティシアは固まった。そんなレティシアを見下ろし、エルバートは一言。
「――駄目だ」
レティシアが何が駄目なのかを聞き出す前に、エルバートが両腕をレティシアの膝裏と背中に添える。気がついたときにはレティシアの身体はエルバートに抱え上げられていた。
「ちょっと!? なんなの!」
「暴れるな。落とすぞ」
そう言うと、エルバートは本当に力を抜こうとしたので、慌ててレティシアは目の前にある首にしがみつく。それを確認したエルバートは出口の方に歩き出した。
まずい。本能でレティシアは理解した。
「お、降ろしてー!!!!」
外で帰還準備をしていた兵士たちは突然聞こえた叫び声にぎょっと手を止めた。全員が声の聞こえた方へと振り返る。それはオーウェンも同じだった。
全員が振り返ったところにある野営テント。そこの入口から巨大な影が出てくる。それは王立魔導軍の軍帥だった。その腕には華奢な女の子が抱えられている。
見慣れないその光景に、全員が唖然と固まった。その中をエルバートは悠然と歩いていく。
「ちょっと! 降ろしてよ!」
「怪我に障る」
「とっくにふさがっているわよ! それよりどこに連れていく気?」
エルバートはこれには答えず、辺りを見回す。その視線がオーウェンを捉えた時、口の端がわずかに持ち上がったのをオーウェンは見逃さなかった。
エルバートはレティシアを抱えたまま、オーウェンを見る。突如として、エルバートの足元に複雑な魔方陣が展開され始めた。
「閣下?」
「悪いが先に戻る」
「は?」
「私は行かないわよ!?」
腕の中で暴れるレティシアを軽々と抑え、エルバートはオーウェンの返事を待った。オーウェンはエルバートが本気だと分かると説得するのを諦める。
言ったところで聞かないことは十分に分かっている。どうせ後はエルバートが居ても居なくてもあまり変わらないのだ。
「どうぞ。後日、そっちに伺うので」
「悪いな」
それだけ言ってエルバートは魔術を展開する。次の瞬間には二人の姿はその場からかき消えていた。後には茫然とする兵士たちばかり。
オーウェンは二人の居なくなった場所を見つめ、やれやれというように肩を竦めた。
「まったく……。閣下は困ったものだな」
その呟きは二人にはもちろん、誰にも聞こえなかった。
第一章、これにて完結です。次回、ついに始める王都編です。
物語もやっと大々的に動き始めます。恋愛もきっと起こるはず……!
これからも良ければお付き合いください。