1.厄介な拾い物
その日は朝から雨が降っていた。
草原の向こう側に見えるであろう敵軍は、昨日の晩から出てきた靄によって確認はできなかった。
黒馬に乗った濃い金髪の青年は、目の前の光景に小さく舌打ちをした。
「閣下、ここはいったん戻りましょう」
馬を寄せてきた男の言葉に頷くと、閣下と呼ばれた青年は馬首を返した。そのまま靄の広がる森の中を走っていく。
森を抜けた先には自軍が野営をしているはずだ。だからなのか、青年はすっかり気を抜いていた。この靄の中では敵軍も迂闊に動いたりしないだろう、と。
――それは突然起こった。
青年の目の前で赤い閃光が走った。それと同時に、隣を走っていた男が馬から落ちる。咄嗟に馬の背に伏せたのは、条件反射と訓練の賜物だろう。
あちこちで閃光が走る。それを見て攻撃されていると、青年はようやく悟った。
「閣下!」
「俺にかまうな! 後ろを振り返らずに行け!」
青年を守ろうと動く男たちを視線で黙らせ、体勢を低く構えた。馬の腹を思いっきり蹴り、森の中を疾走する。
奇襲ならば人数は多くないはず。自軍まで戻ってしまえば敵も追ってこないだろう。そう思った青年は、ただひたすら馬を走らせた。
敵に背を向けるのは軍人として恥ずべきことだが、部下を失うわけにはいかない。
やがて森の終わりが見えたころ、部下の焦った声が青年の鼓膜を揺らした。
「危ない! 閣下!」
聞こえた瞬間、背中に強い衝撃。攻撃を受けた、と思った時には馬から体が落ちそうになっていた。
必死に体勢を立て直すも、腕に二度目の攻撃を受ける。闇の奥で青年を狙う男の姿を見つけた。
――殺られる。
敵が青年に止めを刺そうと腕を振り上げる。その瞬間、青年の口から一つの呪文が放たれた。
攻撃のためには使われないそれは、青年の本能で発せられたものだった。この場から逃れなくてはいけない。その一心で。
遠くなる意識の中で、独特の浮遊感が青年を襲う。再び放たれた赤い閃光が青年の体を貫く寸前、青年の姿はその場から一瞬にして消えたのだった。
* * *
その日は朝から雨が降っていた。
朝から降り続いた雨のせいで、舗装されていない道は水溜りだらけだ。舗装された道ももちろん存在するが、それは川を越えた貴族や商人たちが住むところだけだ。
下町にはそんな場所はないので、雨が降るとあっという間に道は水に沈む。
レティシアは服の裾に泥が跳ねないように細心の注意を払いながら、雨の中を進んでいく。しょっちゅう水溜りに浸かってしまった靴はびしょ濡れだ。
「あぁ・・・明日までに乾くかな、これ・・・」
靴が一足しかないレティシアにとって、深刻な問題である。歩くたびに「びちゃ、びちゃ」と音をたてる靴に顔をしかめながら、レティシアは角を曲がった。
「・・・あれ?」
何かが倒れている。黒の塊であるそれは、遠くからでは何か分からなかった。レティシアは恐る恐るそれに近づく。
近づいてみるとそれは、ぶかぶかの服に埋まった少年だった。怪我をしているのか、少年が倒れている水溜りは真っ赤に染まっている。
「大変!」
レティシアは急いで助けようと手を伸ばし――少年に触れる前にその手を引っ込めた。
血の気の失せた少年の顔を見ながら、知らずレティシアは唸る。
これは間違いなく厄介ごとだろう。見たところ、この近所の子供ではなさそうだし。もし何かの事件に巻き込まれて怪我をしたのならば、助けた自分にも被害が及ぶ可能性がある。
「・・・・・・」
しばらく悩んだ末、レティシアは引っ込めた手を再び少年に伸ばした。ぐったりと力のない体を何とか抱えあげる。
見捨てることなどできなかった。生きていると分かっているならなおさら。
レティシアは小さな体を抱え上げ、泥が跳ねるのも気にせずに走って家へと向かった。
―――これが厄介ごとの始まりとも知らずに。