17.閣下は不機嫌です。
いつの間のか、レティシアの周りは男の人がたくさん居た。洗濯物の山は男の人たちの手に渡り、あちこちで洗われている。
レティシアも洗濯物を洗いながら、あちこちからされる質問に曖昧に答えていた。
「ね、レティシアちゃんって呼んでもいい?」
「はぁ……」
「レティシアちゃんっていくつ?」
「18歳ですけど……」
「どこに住んでるの?」
「えっと……」
ひっきりなしにされる質問に、レティシアは困っていた。だからといってこの場を離れることもできず。
まさに万事休す。誰か助けてくれ。――そんなことを思っていたら。
「わっ!?」
突然の浮遊感。レティシアは背後から誰かに抱え上げられた。咄嗟のことにレティシアは身を固まらせる。
レティシアはびっくりして背後を振り返り――そこに居た人物に目を丸くした。
「……アッシュ?」
そこには不機嫌そうな顔をしたアッシュが居た。眉間にしわを刻んだアッシュの姿にレティシアは首を傾げる。
一方、不機嫌な閣下の登場に一部の兵士は固まり、残りは不思議そうに二人を見た。閣下が不機嫌な理由が分からない者たちは、一様にレティシアとアッシュの様子を窺っている。
アッシュはレティシアを抱えたまま周りの兵士たちを見まわす。その瞳の奥に不穏に揺らめく光を見つけて、兵士たちは息を呑んだ。
目が合ったら何かされる。そう思った彼らは懸命にも視線を逸らした。ここに来て、ようやくこの場に居るほとんどの人間が、閣下の不機嫌を悟った。
――レティシア以外は。
「アッシュ? なんかあったの?」
抱えられている居心地の悪さに身をよじらせながら、アッシュの顔を覗き込む。そんなレティシアの姿にアッシュはため息がこぼれた。それからまるで小さい子供を抱えるようにレティシアの身体を抱き上げ、その場を去ろうとする。
そんなアッシュの行動に、抱えられたレティシアは慌てた。
「ちょっと! 洗濯が残ってるってば!」
「そんなもの、あいつらにやらせとけ」
低く唸るように言われた言葉。その声音にレティシアは驚く。
ここに来て、ようやくレティシアもアッシュが不機嫌であることを理解した。ただし、その理由までは分からなかったが。
レティシアは抱きあげられた格好のままアッシュを見下ろすと、その眉間に人差し指を当てる。そのまま刻まれたしわを解すようにぐりぐりとした。
「……何してる?」
「いや、跡になりそうだな、と」
言いながらレティシアはぐりぐりし続ける。アッシュはされるがままだ。
その様子を見た兵士とオーウェンは口をあんぐりと開けて、その様子を見守った。
あの閣下が大人しくされるがままだなんて。というか閣下にあんなことができるなんて!!
兵士たちは戦々恐々と二人を見守る。今は閣下の格好はレティシアと変わらないように見えるが、兵士たちは普段の閣下を知っている。知っているからこそ、レティシアの行動には度肝を抜かれた。
今でこそエルバート殿下が創設した「王立魔導軍」は規律と統率のとれた軍として名声を上げているが、創設当時はひどいものだった。
閣下は出自にこだわらず、才能ある若者を多く募集した。魔力のある者、腕に自信のある者は閣下に認められればだれでも入隊できたのだ。
だが、規律や統率をまとめるのは生半可なことではなかった。庶民や荒くれ者、傭兵上がりなども入っていたので、喧嘩は日常茶飯事だった。それを一カ月足らずでまとめあげたのがエルバートだ。
後に王立魔導軍に所属する者たちは語る。俺たちは地獄を見た。あれに比べれば戦場など、恐れるものではない、と。
二人は周りの目など気にした様子もなく見つめ合うがその様子にすこしも艶っぽい様子などなく。レティシアは年下の男の子のように閣下を扱う。それがまた兵士たちには奇妙に映った。
「彼女、何者なんだ?」
「さぁ……。ただ言えることは、」
「彼女に変なことをしたら……」
全員がお互いの顔を見まわして、喉をごくりと鳴らした。今、同じことを考えているだろう。つまり、自分たちは間違いなく消し炭になるだろう、と。
そんな周囲の思惑には気づかず、レティシアはアッシュを叱りつける。
「せっかく手伝ってくれてたのに、どうしてそんなこと言うのよ」
「……手伝ってたのか? あれは」
「それにこの仕事はあたしがやりたいって言ったの。邪魔するならあっちに行ってて」
兵士たちはアッシュを子供のように叱るレティシアに驚き、それを受けてアッシュがどこか拗ねたような表情になったことに唖然となった。
なんてことだ。閣下の症状は思ったよりも深刻だったらしい。閣下の様子がいつもと変わらないように思えたので、あまり深く考えていなかったことを、兵士たちは悔やんだ。
それと同時にレティシアに対しても、今までとは違う見方をし始める。閣下を叱ることができる人間なんて、この軍ではオーウェンしか居なかった。それでもほとんどの場合が閣下に無視されていたのだ。
自分たちの心労を取り除くためにも、閣下には早急に元に戻っていただこう。兵士たちは心に誓った。
そんな兵士たちはお構いなしに、レティシアとアッシュは無言で睨み合う。
そもそもレティシアには不機嫌の理由がさっぱり分からなかった。そして肝心のアッシュにも明確に理解してなかった。
とにかく気に入らなかったのだ。男たちがレティシアと話してるのも、レティシアがそれに答えているのも。不愉快だったから取り上げたのだ。それ以上の理由はない。
だがそんなことは言えないので、アッシュは黙るしかない。そんなアッシュの様子に、レティシアはため息をついた。
「とにかく。邪魔しないで」
「…………」
アッシュの目は雄弁に「嫌だ」と語っている。レティシアの目は雄弁に「降ろせ」と語っていた。
しばらく睨み合ったのに、アッシュはレティシアを地面に降ろした。渋々、といった様子で。降ろしてもらえたレティシアは満面の笑みでアッシュを見上げた。
「ありがとう。終わったら戻るから」
それに無言で頷いてアッシュは来た道を戻る。それを兵士たちは信じられないものを見るような目で見送った。
あの閣下が引き下がった。レティシアは洗濯をするためにさっきまで居た河原に戻る。それを兵士たちは無言で見守る。
王立魔導軍最強の存在である閣下。それを黙らせ、あまつさえ従わせる少女。
この日、一つの伝説が生まれた――。
アッシュは野営テントに戻ると、奥に据えられている椅子に座った。そして胸の内で暴れる苛立ちを押さえるように深く呼吸する。
遅れてテントに戻ったオーウェンはそんなアッシュの姿に苦笑を漏らした。
「うまく丸めこまれたな」
「ほっとけ」
にやにや笑うオーウェンを視界から追い出すように、アッシュは目を閉じる。胸の中に巣食く苛立ちを抑えると、アッシュは記憶を探ることにした。
レティシアのことが気になるが邪魔をするな、と言われた手前戻るわけにもいかない。それに気になる理由もはっきりしないことが嫌だったのだ。
さっきと同じように思考の奥深く、闇の底まで自分の意識を落としていく。不思議なことに、さっきよりも簡単に記憶の扉は開いた。
アッシュはすぐに自分の記憶の海へと飛び込んだ。
* * *
目の前に広がるのは複雑怪奇な魔方陣。自分の右手にはチョークが握られ、アッシュはそれが自分が描いたものだと悟った。
周りはどこかの裏庭。どうやら『お師匠』の家らしい。アッシュは自分が描いた魔方陣を見下ろした。
それは見覚えのないものだった。記憶の鍵が解かれてから、アッシュの中には様々な魔術の知識が戻ってきていた。それをさらってみても、目の前に広がる魔方陣は識らない魔術式だった。
アッシュはすぐにそれが、自分が造った魔術展開式だと気づいた。
――そうだ、あの日。俺は確か古文書で見つけた魔法式を元に、一つの魔術を行おうとして……。
自分の心臓が嫌な音を立てた。思い出したくない。頭の中で警鐘が鳴り響く。それでも記憶の中の映像は止まることがなかった。
やがてアッシュは魔方陣の前に腕を突き出し、呼気を整える。それから抑揚のある声でゆっくりと詠唱を始めた。
独特の空気がその場に満ちる。魔力を持った風がアッシュの周りを取り囲み、精霊たちが活発に動き出す。そして目の前に魔方陣が鈍く輝き始めた。
それを見て、アッシュは成功したと思った。――だが。
『っ!?』
唐突に魔方陣が爆発的な光を放つ。咄嗟にアッシュは両腕で己の目を庇った。それからすぐに熱風がアッシュの肌を焼く。
目を開ければそこは一面の『紅』だった。
炎がその場を埋め尽くしている。それらはまるで意思を持っているかのように動き回り、時々火柱を噴き上げる。延焼を防いでいるのは、お師匠が家に施している結界のおかげだった。
だがそれも間もなく崩壊するだろう。アッシュの目には結界にところどころひびが入っているのが分かった。まもなくガラスのようにそれらが砕けてしまうだろう。
炎は猛威を奮い、アッシュに迫りくる。咄嗟に結界術を展開させるが、持たないことは火を見るよりも明らかだった。
――死ぬ。
迫りくる炎の壁を見ながらアッシュはそう思った。だが仕方ないとも思っていた。自分が失敗した魔術だ。自分一人の命で済むのなら安いのかもしれない。
師匠は常々言っていた。決して自分の力を驕ってはいけない、と。その油断が必ず自分の命を危険にさらす、とも。
これは報いだ。アッシュは過信していた。自分の力を。その才能を。
炎がアッシュの身体を焼こうと迫り来る。アッシュは覚悟を決めた。
『――エルバート!!』
突然響いた、悲痛な叫び声。アッシュは突き飛ばされると同時に、何かが焼ける匂いを強く感じた。
* * *
アッシュは飛び起き、咄嗟に目の前にあるモノに抱きついた。それは柔らかく、暖かいものだった。
抱きつかれたモノは驚いたのか、身をよじって暴れる。アッシュは手放すまい、とそれを力強く抱きこんだ。
やがてそれは暴れるのを止め、ゆっくりとアッシュの背中に腕を回す。それから宥めるように優しくアッシュの背中を撫でた。
自分の心臓が穏やかに収まっていくのを、アッシュは感じた。それと同時に、懐かしい香りが鼻腔をくすぐっていることにも。
「……大丈夫?」
レティシアの声が聞こえて顔を上げれば、彼女はアッシュの腕の中で心配そうな顔をしていた。
アッシュは腕の中の存在を確かめるように強く抱きしめ、安堵の息を漏らす。常とは違うアッシュの様子に、レティシアは黙ってされるがままでいた。
「………で」
「え?」
「もう少し、このままで……」
まるで幼い子供のようにレティシアに抱きつくアッシュ。レティシアは黙ってアッシュの背中を撫で続けた。
アッシュはレティシアの首筋に顔をうずめる。そうしてやっと、早鐘のようだった心臓が落ち着くのを感じた。
目を閉じれば視界いっぱいの「紅」
それを振り切るように、アッシュはレティシアを抱きしめる腕に力を込めた。