16.記憶の修復
結論から言って、アッシュの記憶の修復は容易ではなかった。
アッシュには「エルバート」のときの記憶はほぼ皆無といって等しく、戻っている記憶も散逸したもので統一性がないらしい。
エルバートとしての自覚が薄いので記憶の手がかりもなかなか掴めないようなのだ。
――おまけに。
「魔力で記憶封じ?」
聞きなれない単語にレティシアは眉を寄せる。オーウェンも困ったというように大げさに肩をすくめた。
説明を求めてアッシュの前に座る男の人を見つめた。
「つまり、閣下自身が記憶に『鍵』をしてしまったんです」
簡単に言うと、不測の事態に驚いたアッシュが、咄嗟に自己防衛のために記憶に鍵を施してしまったらしい。その時に中途半端に魔力も封じてしまい、暴走したそれがアッシュの身体に変化をもたらしたとか。
「……難しい」
「まったくだ」
理解の範疇を超えたそれに、レティシアもオーウェンも難しい顔をして黙りこむ。アッシュは自分の身体を見下ろしながらため息をついた。
「どうすれば元に戻れる?」
「閣下が記憶を取り戻せば、自然と身体の影響は解消されると思います」
その説明にアッシュは鼻を鳴らした。どうやら曖昧な記憶をどうにかすることが一番の近道らしい。
不満そうなアッシュの姿に男の人は苦笑すると、アッシュを椅子に座るように促した。アッシュは素直にそれに従う。
「手助けはします。しかし思い出すのは閣下が自力で行ってください」
「手助け?」
「深層心理まで誘導することはできます。そこからは閣下が」
「なぜだ?」
「誰でも知られたくないことがあります。それが暴かれたとき、人が取る行動は限られてますよ」
謎めいたその言葉。アッシュはその意味が分かったのか、それ以上は問わなかった。
部下に促されるまま、アッシュは目を閉じて呼吸を整える。すぐにゆっくりと闇の中へと落ちる感覚がアッシュを襲った。抵抗せずに、アッシュはそれに従う。
深い闇の底で何かが弾ける。光の中に浮かぶのは、失った記憶たちだろうか。
アッシュは闇に広がる光景に身を任せた。
アッシュが記憶を取り戻すのを見守っていたレティシアは、ゆっくりと野営テントから出た。
話を聞いたとき、レティシアはまだ半信半疑だった。アッシュが王子だなんてやっぱり信じられなかった。
だけどこうやって部下の人たちに囲まれているアッシュを見ると、思った以上に彼らに馴染んでいることに気がついた。
やっぱりアッシュはここに居るべき人だったのだ。
「王子様だったのか……」
アッシュの身元が分かって良かった。本当に心からそう思っている。
だけどどこかで「寂しい」と思っている自分も居て。そんな見当違いなことを思う自分に愕然とした。
アッシュとの奇妙な同居生活は、自分で思っている以上に居心地が良かったらしい。
母親を失ってからレティシアは一人で生きてきた。もちろん周りの優しい人たちの手助けがあったから一人でも生きていけた。それでも家の中はいつも一人だった。
そんなときにレティシアはアッシュを拾った。
訳ありだと気づいていた。厄介なことに巻き込まれるかもしれないとも思っていた。
それでも拾ったのは、レティシアが寂しいと思っていたからかもしれない。
「変なの。一人でも全然大丈夫だったのに」
今まで変わらない。そう思うのに、レティシアの心が奇妙に軋んだ。
そんな自分の心から目を背けるように、レティシアは野営テントの裏に回る。そこに山と積まれた洗濯物を見つけ、それを両手で抱えた。
ここに連れてこられたとき、オーウェンは自由に過ごしていいと言ってくれたが、元来、人に何かをしてもらうということが少なかったレティシアは、タダでみんなのお世話になるのが嫌だった。
そう言ったらオーウェンがここの雑用をお願いしてきたのだ。ここは軍の野営地。当然居るのは男ばかりだ。掃除や食事に気が回らない人間ばかりで、仕事はたくさんある。
レティシアは洗濯物を抱えて教えられた川に洗濯に向かった。
冷たい川に両手を突っ込み、勢いよく洗っていく。基本的に働くことが嫌いではないレティシアは、一心不乱に洗った。まるで嫌な現実から目を逸らすように。
「――手伝おうか?」
「っ!」
レティシアは無我夢中で洗っていたので、人が近づいてくることに気がつかなかった。聞いたことのない声に驚いて振り返れば、若い兵士たちが何人かこちらの様子を窺っていた。
急に声をかけられて、レティシアは戸惑う。そんなレティシアを安心させるように、彼らは柔らかい笑みを浮かべた。
「急に声をかけてごめん。驚かせたよね?」
「えっと……大丈夫です。どうかしましたか?」
「それ、俺たちの洗濯物でしょ? だから手伝おうと思って」
思いがけない一言に目を丸くすれば、他の二人も肯定するように大きく頷く。レティシアは自分の背後に積まれた洗濯物を振り返った。
確かに量は多い。男手があったほうが楽なのも事実で。
もう一度彼らを見れば、期待に満ちた目でレティシアを見返してきた。
「それじゃあ……頼もうかな」
言った瞬間の彼らの顔は、今日一番の輝きだった。
* * *
目を開けた時、感じたのは強い倦怠感だった。肩が重い気がするのは知らないうちに身体が緊張していたからか。
鈍く痛む頭を軽く押さえながら深呼吸すれば、期待に満ちた目を向けるオーウェンと目が合った。
「閣下?」
オーウェンが何を聞きたいのかは分かる。だが、オーウェンの期待には応えられないのが現状だ。
「自分が王族の人間で、グラシアス国に居たことは思い出した」
「他には?」
「グラシアス国で足繁く通っていた屋敷があったこと。……あぁ、あと弟が居ることも思いだしたぞ」
アッシュの応えに、オーウェンは深いため息をついた。どうやら彼を満足させるだけの結果は出せなかったらしい。あからさまに残念がる視線を向けられ、アッシュは少し苛立った。
「悪いな。手伝ってもらったのに思い出せなくて」
アッシュが目の前に座る部下に声をかければ、彼はゆっくり首を横に振った。
「一回でできるとは思っていませんから。それより今回ので記憶の蓋は開いたはずです。あとは閣下が思い出す努力をすれば、全て思い出すと思います」
「そうなのか?」
「私は閣下がかけた『鍵』を外す手助けをしました。あとは閣下が中に入っていた記憶を手繰り寄せるだけですよ」
分かるような、分からないような。そんな微妙な顔をするアッシュに苦笑を漏らし、部下は野営テントから出て行った。
アッシュは立ち上がりながら、凝り固まった筋肉をほぐす。そしてテントの中に見慣れた姿がないことに気がついた。
「レティシアは?」
テントを見まわしながら尋ねるアッシュに、オーウェンは肩をすくめる。
「仕事はないかって聞くから雑用を頼んだ。彼女、いい子だな」
オーウェンの言葉の後半部分を軽く聞き流しながら、アッシュはレティシアの気配を探る。記憶が少しずつ戻ってきているせいか、以前よりも楽に魔術を使える。
魔術を扱う知識も、記憶とともに徐々に戻ってきた。前は身体が瞬間的に反応して行っていた部分もあったが、今はちゃんと頭に魔術の展開理論が思い浮かんでいる。
以前と同じようにレティシアを探れば、近くの川に居るのを感知した。そのことに安堵し、その近くにいくつかの気配を感じて、アッシュの眉間にしわが寄る。
「閣下?」
急に不機嫌になったアッシュに、オーウェンは不思議そうな顔をしたが、アッシュはそれには構わず野営テントを出た。足は迷わず川へと向かう。
やがて川のせせらぎが聞こえて来たころ、はしゃぐような声も聞こえきた。
レティシアが川岸で洗濯をしている。その周りで何人かの男たちが、明らかに浮かれた顔で洗濯を手伝っていた。
アッシュの纏うオーラが一気にドス黒くなる。
「あーぁ……」
部下たちのその姿に、オーウェンは合掌したくなった。
だから手を出すなって言ったのに。
明らかに不機嫌と書かれているアッシュの顔を見て、オーウェンは深々とため息をついた。