13.閣下の帰還
たどり着いたのは開けた台地に設けられた野営地。たくさんの篝火が焚かれ、辺りは昼間のように明るかった。
レティシアはアッシュに抱えられたまま、見知らぬ土地を見回す。オーウェンはというと手馴れた様子で野営地の中へと入っていった。
「ここどこ…」
「さぁ。だいぶ飛んだ感覚はあったけど」
聞き慣れない単語が聞こえたが、レティシアは懸命にも聞かなかったフリをした。説明されても分かるとは思えなかったので。
アッシュはレティシアを抱えたまま、オーウェンについていく。その足取りはしっかりしたもので、意外にも筋肉があることに気がついた。
さっきまで恥ずかしがっていたレティシアだったが、見知らぬ土地ではアッシュと離れることのほうが不安だったので、そのまましがみついていることにする。
オーウェンは野営地の中でも少し離れたテントのところへと向かった。アッシュはそんなオーウェンの後を追いかける。
そこはオーウェンの所属する部隊の野営地だった。オーウェンの帰還を感じたらしい部下たちは次々とテントから姿を見せ、アッシュの姿に目を丸くさせる。
「……あれ?」
「もしかして……」
「閣下!?」
まったく予想していなかった人物の登場に、最初は戸惑っていた部下たちも、すぐに顔に喜色を浮かべた。感極まった部下たちがアッシュに向かって走り出し「っ!」見えない何かに激突する。
顔面を強打した部下たちは次々と地面に倒れた。レティシアはその怪現象に目を丸くしてアッシュを見る。
「どうしたの? この人たち」
「突っ込んでくるから空気で壁を作った」
「……そんなことできるの?」
「……できた」
すごいな、と思ってアッシュを見ればアッシュ自身も感心しているようだった。どうやら無意識に身体が動いたらしい。
突然出現した見えない壁に激突した部下たちのことを心配したレティシアだったが、彼らが「やっぱり閣下だ!」「すげぇ! わかんなかった」と鼻血を出しながら騒ぐのを見て、何も言わないことに決めた。アッシュにいたっては明らかに面倒だ、と思っているのが分かる表情だ。
はしゃぐ部下たちに苦笑を漏らすオーウェンは、アッシュたちを手招きする。オーウェンが一番奥に設置されたテントに入ったのを見て、アッシュもレティシアを抱えたままテントに入った。
テントの中は思っていたよりも広く、清潔だ。オーウェンは部屋の奥に設置された簡易キッチンの前に立っている。アッシュは手前にあった椅子にレティシアを降ろすと、そのままオーウェンの方へと歩み寄った。
オーウェンはコーヒーを淹れると、アッシュたちを振り返る。
「飲むか? 口に合うかは分からないけど」
「いや。……レティシアは?」
後ろを振り返って確認するアッシュに、レティシアは小さく「欲しい」と言った。すぐにオーウェンがコーヒーの入ったマグカップを渡す。
わけが分からないまま争いに巻き込まれ、ここに連れてこられた。心身ともに疲れきっていたレティシアは、苦いコーヒーを一気に飲み干した。
コーヒーを飲んで人心地ついたレティシアを見ていたアッシュは、鋭い目つきでオーウェンを睨んだ。オーウェンはそのことを予想していたのだろう。特に慌てる様子もなくアッシュを見返す。
「聞きたいことがある」
「なんでもどうぞ? 閣下の聞きたいことなら分かる範囲で答えよう」
「閣下」と呼ばれたアッシュは不快そうに顔をしかめる。それでも何も言わなかった。それよりも気になることがあったので。
「ここはどこだ?」
「セルヴィン王国軍の防衛線に近い野営地だ」
「……なに?」
「軍の野営地だ」
オーウェンは分かりやすく短くまとめてみたが、アッシュの頭の中は混乱したままだった。
自分が軍人であることはほぼ間違いない。もしかしたら記憶を失う前、この軍に所属していたのかもしれない。だからオーウェンはここにつれてきたのかもしれなかった。可能性は無限にある。――だが、しかし。
「安全な場所に連れて行くと聞いたから来たのだが」
思わず低くなる声で聞けば、オーウェンが肩を竦めた。
こいつ、たばかったのか?
アッシュは背後で物珍しげに辺りを見回すレティシアの姿を視界に収めながら、こらえ切れなかったため息を吐き出す。安全という言葉に釣られて来てしまったが、見込み違いだったか。
敵の素性が分からない故に、下手なところには逃げられないと思った。何よりレティシアの存在があったから。何が原因は分からないが、彼女を争いに巻き込むのは不本意だった。
不機嫌になっていくアッシュの姿に、オーウェンは持っていたマグカップを置く。アッシュはオーウェンの纏う気配が変わったことを、敏感に感じ取っていた。
「ここが安全な場所なのか?」
「少なくともあの場よりは。ここだったら奴らも来ることはできない」
「まるであいつらが何なのか、分かっているような口ぶりだな」
その言葉に、オーウェンが薄く笑った。そのことにアッシュは眉を寄せる。
妙に自信がある顔。それが鼻につくのは、この状況をアッシュがまだ理解しきれていないからだろう。
「……あいつらはなんだ?」
「推測だが、オーランド国の刺客たちだろう」
予想外の答えにアッシュも、離れた場所で話を聞いていたレティシアも目を丸くして固まった。
刺客? それは要人なんかを暗殺するために放たれる殺し屋みたいなもので……。
レティシアの頭の中に、本で読んだ刺客像が浮かんでくる。それはアッシュも同じだったのだろう。奇妙な顔をしながら、アッシュも首を傾げていた。
「なんでオーランド国の人間が俺を狙う?」
「それは閣下が彼らにとって都合の悪い人間だからだよ」
飄々と答えるオーウェン。アッシュは返ってきた答えに顔をいっそう、しかめた。
今ほど記憶がないことを歯痒く思ったことはないだろう。記憶さえあれば、今の状況を打破することは造作もないことだと分かるから、アッシュはどうしようもなく苛立だった。
アッシュは目の前に立つ男を見る。おそらく、アッシュが知りたいであろう答えの大部分を持っているこの男を。
「……聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「俺は何者だ?」
オーウェンにいたってもこれは予想できた質問だったのだろう。薄く笑って、持っていたマグカップをテーブルに置いた。
レティシアもオーウェンの行動を固唾を呑んで見守る。
思えば、アッシュを拾ってから奇妙なことばかりが起こった。その最たるものがアッシュという存在なのだが。
人より圧倒的な速さで成長し、子供にはない落ち着きを持つアッシュ。おそらく軍人であろう、とレティシアもアッシュも考えているのだが。
そんな二人の心情をよそに、オーウェンはあっさりと、非常に軽く衝撃的な一言を言った。
「あなたは王立魔導軍の軍帥、エルバート・レストン閣下だ」
二人の動きが止まる。レティシアは驚愕の、アッシュは困惑の表情のままで。
先に我に返ったのはアッシュの方だった。
「王立魔導軍? 軍帥だと?」
「俺はオーウェン・シディ。王立魔導軍の副軍帥で閣下の副官を務めている」
軍帥。それは軍の一番偉い人間のことで。王立魔導軍? 聞いたこともないな。
アッシュはよく分からない、という顔のまま首を傾げる。レティシアはそんなアッシュを見ながら、呆然としてしまった。
「王立魔導軍、軍帥? まさかエルバート殿下……?」
「殿下?」
聞き慣れない言葉に、またしてもアッシュが首を傾げる。しかし、レティシアはそんなアッシュのことなど目に入らなかった。
思わずまじまじとアッシュを見つめてしまう。頭の中は文字通り真っ白だ。
レティシアは頭が痛くなってきた。知らなかったこととはいえ、自分はとんでもないものを拾ってしまったらしい。
まさか、この国の王子さま拾っていたなんて。