12.闇夜の攻防 後編
浅い眠りから目が覚めたのは、身体の中に不思議な力の「揺らぎ」を感じたからだ。
アッシュが目を開けると、真っ暗なままの部屋が目に入る。部屋には誰の気配も無い。どうやらレティシアはまだ帰ってないようだ。
日はすっかり落ち、部屋は真っ暗だ。アッシュは灯りを点けようと立ち上がり、眩暈を感じてたたらを踏む。
「なんだ…?」
頭がくらくらする。身体の中心が奇妙に熱い。どこか懐かしい熱さ。――あの、炎を操ったときのように。
自分の中に今まで感じたことの無い「力」を確かに感じる。そこまで考えて、アッシュは微かに眉を寄せた。
――感じたことが無い?
いや、感じたことがある。常にこの力を、自分は掌中に治めていた。
何も覚えていないけれど、アッシュの本能が叫ぶ。『危険が迫っている』と。
どうしようもない焦燥感。ある意味で飢餓感にも似たそれは、しきりにアッシュの心を急き立てた。
このままではいけない。理由は分からないけれど、強くそう思った。
「…くそっ!」
アッシュは理由の分からない苛立ちに、追い立てられるようにして家を飛び出した。路地に出てすぐに集中する。
目を閉じて呼吸を整える。真っ暗に染まった視界の中で、アッシュは自分の意識があらゆる方向へと飛ぶのが分かった。
記憶は無い。でも身体が覚えている。この感覚を、この熱を。
視界は漆黒の闇に染まり、いくつもの光の軌跡が浮かんで見える。その中で唯一つの気配を探した。
(どこだ…どこに居る?)
ここ何日かで慣れ親しんだ気配を探す。意識は次第にその範囲を広げ、アッシュは街を俯瞰で見下ろすかのような感覚に包まれる。
アッシュはレティシアを探していた。しかし、その気配を見つけることができない。というよりも、複数の奇妙な気配がレティシアの気配をかき消すのだ。
「なんだ…?」
あと少しで捉えられそうなのに、何かがそれの邪魔をする。歯痒さに、アッシュは唇を噛んだ。
もう少し。あと少しなんだ。
必死に意識を集中させ、なんとかレティシアの気配を捉えようとする。そうすれば、すぐにでも駆けつけられると、本能が叫ぶままに。
――たすけて…
「っ!」
消えそうなその声が聞こえた瞬間、アッシュの姿は路地から消えていた。
* * *
今にも振り下ろされそうな鉤爪をレティシアは見下ろす。
動くことができない。目を逸らすことも、目を閉じることもできなかった。
死ぬ。レティシアは確実にそう思った。――だけど。
『吹き飛べ』
響いた声は確かな力を持ってその場に放たれた。鉤爪を振りかぶっていた男は見えない「何か」によって路地の奥まで吹き飛んでいく。
目の前で起こった信じられない出来事に、レティシアは目を丸くして固まった。男は脳震盪でも起こしたのか、動く気配は無い。
背中に不自然な温もりを感じる。腰元を這う力強い二本の腕の感触も。
抱きしめられていると分かったのは、耳元に自分ではない誰かの吐息を感じたから。首をひねってその人物を見上げて、レティシアは目を見開いた。
思いがけない人物の登場に、レティシアは何も言えなくなる。レティシアを抱きしめている人物はというと、目を鋭くさせながら辺りの様子を窺っていた。
「…アッシュ?」
「なに」
何と言われても。聞きたいのはこっちなのだが。
しかしアッシュの斬れそうな剣幕に口を閉じてしまう。
「あいつら、なに?」
アッシュはレティシアが微妙な顔をしていることに気づかないのか、通りの奥を睨みながら聞いてくる。レティシアは「分からない」と首を振った。
レティシアにとって最重要事項は、この腕から逃れることだった。アッシュだって事は分かっているが、恥ずかしくてたまらない。
おまけにアッシュは今やレティシアより少し大きいくらいまでに成長していた。歳の近い男の人とこんな近くで触れ合ったことの無いレティシアは、どうしたらいいのか分からなくなる。
さて、どうしたものか。
レティシアがアッシュの腕の中で悩み始めたとき、通りの反対側から何かが飛んできた。それはアッシュたちの前に降り立つと、両手をこちらに突き出す。
本能的に危険を察知したアッシュは身を強張らせてレティシアを強く引き寄せた。そんな二人の前に現れるもう一つの影。
それは二人を庇うように間に滑り込むと、横薙ぎに剣を払った。
男はすぐさまその場を飛んで回避する。間に滑り込んだ影――オーウェンは後ろを振り返り、目を見開いた。
「閣下…」
オーウェンは目の前に突然現れた君主に目を驚いて固まり、放たれた火球を避けるために慌てて物陰に飛び込む。ちなみにアッシュは防護結界を築いて難を逃れた。
「いつここに?」
「…誰だ?」
馴れ馴れしく話しかけるオーウェンに顔をしかめれば、オーウェンががっかりしたように肩を落とす。
やはり記憶は戻っていないのか…。分かってはいても、オーウェンは落ち込んだ。というか、途方に暮れた。
アッシュは目の前で火球を放った男を睨みつける。アッシュの目には男を包むように広がる紅の光が映っていた。
「魔術師か…」
知らないはずなのに、識っている自分が居る。だが、今さらそんなことでは驚かなかった。
レティシアの声を聞き、ここまで飛んできた。守るために結界を築いた。それは全てアッシュが行ったこと。
記憶は失われた。――だが身体ははっきりと覚えていた。
この熱情を。この、戦いを。
「俺も、魔術師か…」
それはもはや、疑いようも無い事実。自分が見る夢が、身体に刻み込まれた記憶が、アッシュに現実を見せた。
身体に刻み込まれた戦いの記憶。そして何より、この場においてアッシュの心は怯えるどころか、高揚しているのだ。
戦えることに。力を扱うことに。
「離れてろ」
しがみつくレティシアの手を引き剥がし、自分の後ろに庇う。もはや不安など、ひとつもなかった。
この場において、自分が絶対的な力を有することをアッシュは知ってしまったから。
「おい!」
アッシュは通りの先で件を振るうオーウェンに声をかける。オーウェンは目線だけをこちらに寄こした。
「一気にやる。隙を作れ」
有無を言わさない命令。それでもオーウェンは笑った。
まるで在りし日の、閣下が戻ってきたようだと思いながら。
「仰せのままに」
それだけ言ってオーウェンは剣を構え直し、敵へと一直線に突っ込んでいった。魔術師へ目にも留まらぬ速さで剣を振るう。魔術師は防戦一方で術を繰り出すことができなかった。
その間にアッシュは呼吸を整える。身の内で暴れる魔力をなんとかコントロールする。
正直、アッシュにはどうやって自分が魔術を行っているのか、分かっていなかった。それでも不安はない。
「離れろ!」
その言葉にオーウェンが通りから飛び退いた。それを確認してアッシュは魔術を発動する。それは強大な炎と烈風になって敵へと襲い掛かった。
魔術師は咄嗟に防護結界を展開するが、防ぎきれなかったのだろう。肉の焼ける嫌な臭いが通りに満ちた。その臭いにレティシアが顔をしかめる。
アッシュはそんなレティシアに近づくと軽々と身体を抱え上げた。レティシアはいきなりのことに驚く。アッシュは気にせず歩いていたが。
「アッシュ!?」
「あいつ、仲間を呼んだ。人が来る前に逃げるぞ」
「…どこに?」
レティシアに恐る恐る尋ねられ、アッシュも足を止める。
どこにだろう。
そんな二人の様子を見ていたオーウェンは苦笑しながら近づいた。闇夜に煌いていた剣は、今は鞘に収められている。
「なんならとっておきの場所を教えましょうか?」
胡散臭い提案にアッシュが顔をしかめる。オーウェンにとって、それは想定の範囲内だったのか、めげずに続けた。
「奴らが簡単に入り込めない場所ですし、身の安全は保障しますよ?」
「…本当に?」
「誓って」
自信満々に言い切るオーウェンをアッシュは不振そうに見つめていたが、やがて諦めたのかオーウェンに向き直った。
どうせアッシュには記憶が無い。そんな自分がレティシアをつれて逃げても、すぐに敵に捕まるだろう。それだったら、オーウェンの助けを借りたほうがいい。
素直に従うアッシュに苦笑を漏らしながらも、オーウェンは懐から袋を取り出した。それをひっくり返す。中からは灰がかった粉が出てきた。
「それは?」
「部下が作ったものです。怪しいものではないのでご安心を」
不思議そうな顔をするレティシアにそう説明すると、オーウェンは粉を満遍なく地面に広げた。それから二人――正確にはレティシアを抱えたアッシュ――を粉の中に招きよせる。
二人がちゃんと粉の広がる範囲内に入ったのを確認して、オーウェンは小刀で自分の手のひらを切った。血が雫となって粉へと落ちていく。
それが粉に降り注いだ瞬間、地面が蒼く光った。
次の瞬間、三人の姿は通りから跡形も無く消えているのだった。