10.記憶の蓋
アッシュは床に座り込みながら、やりきれない思いを持て余していた。
明かりのない部屋は薄暗かったが、灯りを点ける気にはなれない。アッシュは窓から漏れる月明かりに浮かぶ部屋をぼんやりと眺めながら、意識を思考の海へと沈めた。
アッシュが今までに分かったこと。
自分はセルヴィン国の出身で、どこか大きな屋敷に身を寄せていた。子供の頃は「師匠」と呼び慕う男の家で修行していたらしい。しかし不思議なことに、記憶の中の自分は今よりも大きかったりする。
そこがいまいち自分の記憶を信じきれないところでもあるのだが。
とにかく少しずつではあるが、記憶は戻ってきている。何か大きなきっかけがあればすぐにでも戻りそうなくらいに。
「俺は、たぶん…」
戻ってきた記憶の中に、帯剣した己の姿を見つけた。軍服に似た服を身に纏い、隊列を組んだ兵士たちと共に歩いている。
それだけで十分だった。――己が軍人だと理解するには。
だが、そうなるとやはり気になることが一つ。
「俺はなんで小さくなっている…?」
記憶の中のアッシュは今の姿よりもずっと大きかった。おそらく成人していると思われる。それなのに今の姿はレティシアと変わらないくらいなのだ。
かけた記憶の中にこの答えがあるとするならば、一刻も早くその答えを得たいと思う。分からない、とうのは気持ちが悪かった。
それに問題はそれだけではない。
アッシュは暗闇の部屋の中で、自分の右手を見下ろした。身の内を廻る「何か」を捉えようと、意識を集中していく。
やがて右手の手のひらに煌々と燃える炎が浮かび上がった。
「っ!」
それが大きくなる前にアッシュは右手をぎゅっと握り締めた。微かに焦げた臭いを残し、炎は消えた。
普通ではありえない現象。それでもアッシュはこれの正体を、なんとなく理解していた。
「俺は……」
強く拳を握り締めたので、爪が手のひらに喰い込む。それでもアッシュはその手を緩めようとはしなかった。
* * *
レティシアは店の掃除を済ませると、アニーにお休みの挨拶を交わして裏口から出る。
冷え込んだ空気に身をすくませれば、近づいてくる気配に身体を強張らせた。
「あ…」
「おつかれ」
路地の奥から現れたのはオーウェンだった。黒い外套が闇に沈み込んで、まるで生首が宙に浮いているかのようだ。
オーウェンの姿を見つけた瞬間、レティシアの身体から力が抜ける。思わず恨みが増し浮くオーウェンのことを睨みつけた。
「ちょっと。驚かさないでよ」
「悪かったよ」
まったく悪びれた様子のないオーウェンの謝罪に釈然としないながらも、レティシアはそれ以上何も言わなかった。
通いなれた路地を歩き出せば、オーウェンも黙ってその後をついてくる。最初こそ無言だったが、やがてオーウェンが小さく口を開いた。
「一つ聞いてもいいか?」
「……なに?」
「護身術、誰に習ったのだ?」
「母よ。ちょっと自己流なところもあるけど」
それがなに? というような視線を向けるレティシアに小さく首を振り、オーウェンは考え込む。
護身術自体は珍しいものではない。下町に住む人間が身に着ける必要があるかどうかはともかく。
しかし、どうしても気になることが一つ。
(どこかで見たんだよなぁ…)
レティシアが仕掛けた技は即撃必殺の技だ。力の弱い女・子供でも相手の力を利用し、簡単に使えるもの。だがその根幹には、何かの武術の基礎がある。それが何なのか、まったく思い出せないのだが。
「家族は? 母親と暮らしてるのか?」
「質問は一つじゃないの?」
鋭い突っ込みにオーウェンが苦笑した。なかなか頭が切れるらしい。
レティシアはそんなオーウェンに肩を竦めると、端的に「亡くなったわ。流行り病で」と答えた。その言葉にオーウェンは一瞬、何も言えなくなる。
「悪い…」
「いいの。それにあたしだけじゃない」
下町の流行り病は当たり前のことだ。下町の人間は天災として諦める習慣が身についている。だからといって悲しまない人間なんていないのだが。
レティシアは父親の顔を知らない。母によれば、争いを好まない心優しい人だったらしい。そんな母は父にベタ惚れで、一人身になっても決して他の誰かと一緒になろうとはしなかった。
母はなんと言っても豪快な人だった。一児の母とは思えないほど綺麗な人で、色々な人に言い寄られていたことを覚えている。全員拳でぶっ飛ばしていたが。
たくさんの愛情とあらゆる知識を与えてくれた。……護身術など、普通なら教えないようなことまで教えてくれたが。
「ご母堂はどういった方だったんだ?」
「別に普通よ? ちょっと元気がありまくってたけど…」
毎日元気に働き、酒場で飲み比べ勝負をしたり、喧嘩の仲裁をしたり…。
過去の母親の所業の数々を思い返し、遠い目をするレティシアとは反対に、オーウェンは厳しい顔をして黙り込んだ。
護身術は普通、一般人がならうものではない。その上軍人であるオーウェンが見たことがあるということは、それは軍で使われている可能性のあるものだということだ。残念ながら、護身術に詳しくないオーウェンには分かりかねることなのだが。
(この娘……)
初めて見たときから気になっていた。広い視野を持ち、どんな状況でも頭を冷静に働かせることができる。それはただの下町の人間には難しいはずだ。
オーウェンは少し先を歩くレティシアの横顔を見つめる。その横顔が見知った誰かに見えたのは、果たして気のせいだったのか。