9.出会い
レティシアは金糸雀の歌声の店内で、何度目かのため息をついた。思い出すのは数日前のアッシュの姿。
――アッシュは軍人なの?
信じられない思いでつぶやいた言葉に、アッシュが身を強張らせた。瞳が不安そうに揺らぐのが分かる。
アッシュは否定しなかった。もちろん、記憶がないから否定することができなかったのかもしれない。それでも、レティシアには他に理由があるように思えた。
アッシュは何かを隠している。レティシアは確信していた。
拾った頃は右も左も分からないような男の子だったのに、今は男の子というのも憚られるような青年になってしまった。
「っていうか、なんで成長するんだろう…?」
普通に考えればおかしいだろう。アッシュは人の何倍もの速度で成長している。まるで一年の成長を一日に詰め込んでいるみたいだ。
しかし成長するアッシュは、だんだんと本来の姿へと戻っていっているように思えた。子供の姿の時には奇異に見えた仕種も、身体の成長とともになんだか似合ってるように見えるから不思議だ。
「レティ! 入ってきたお客様を案内して!」
「はーい!」
アニーの言葉に入り口の方を振り向いて――レティシアは目を丸くして固まった。
黒い外套を羽織った褐色の青年が扉を開けたまま固まっている。どうやら向こうも、レティシアの登場に驚いたらしい。
レティシアは扉の側に立つ男の人をまじまじと見た。間違いない。あの日、アッシュを誘拐しようとした軍人だ。
一方、褐色の青年――オーウェンのレティシアのことにはすぐに気がついた。なんとなく手刀を受けた首筋が痛いような気がしてくる。
変な沈黙が二人を包み込んだ。
「レティシア? 何してんの?」
固まるレティシアを見て、アニーが変な顔をした。それでようやく、レティシアは金縛りから解ける。慌ててオーウェンから目を逸らし「こちらへどうぞ」と店内へと案内した。
オーウェンは言われるままに席に座ると、手早く注文をした。レティシアはそれを聞いてすぐにそばを離れる。
びっくりした。まさかこのお店に来るなんて。とっくにどっか行ってると思っていたのに。
レティシアはこっそり背後の様子を探り、鋭い視線を感じてカウンターの下にしゃがみこんだ。
怖い…! 殺気立ってる! なんで!?
とにかく身を隠していよう、とレティシアはカウンターの下にうずくまる。アニーの呼ぶ声が聞こえるが、この際無視だ。
なんとか脱出方法を考えていると、カウンターが優しく叩かれた。その音に惹かれて、思わず顔を上げる。
「ひっ!」
「よぉ」
そこにはニヤリと笑ったオーウェンの姿があった。
しばし睨み合う二人。動いたのはオーウェンが先だった。勝手にカウンターの内側に入るとレティシアの腕を取って立たせる。そのまま自分の席の方へと引っ張っていった。
「ちょっと…!」
「話がある」
「困ります! 仕事中なんですから!」
腕を振り払おうとしたけど、オーウェンの腕ががっちりと掴んでいて離れなかった。くそう、馬鹿力め。足を踏ん張って抵抗するも、レティシアの身体は引きずられていく。
やがてオーウェンの席まで連れてこられると、レティシアは椅子に座らされた。オーウェンもその向かいに座る。
しかめ面が目の前にやってきて、レティシアは思わず顔を背けた。その際、カウンターに立っていたアニーと目が合う。すがるような目で彼女を見つめるが、なぜかニヤリと笑って目を逸らされた。
完全にこの状況を楽しんでいる。レティシアは泣きたくなった。
「ここで働いていたんだな」
オーウェンはアニーがサービスで置いていったビールを飲みながら、目の前に座るレティシアを観察する。
歳の頃は十代後半。発育が悪いようにも見えるが、それくらいだろう。身体能力もたぶん平均的だろう。それなのに防御することもできなかったなんて。オーウェンは自分の不甲斐なさをもう一度嘆いた。
オーウェンがレティシアを観察している間、レティシアもまた、オーウェンのことを観察していた。
身長は高い。レティシアが見た中でもダントツだ。服の上からでも分かるくらい均整の取れた体躯。褐色の肌はこの辺では見ないものだ。確か、異大陸に彼と同じ肌の人間が居ると聞いた気がする。
「気が済んだか?」
聞こえた声にオーウェンの顔を見れば、苦笑しながらビールを煽っていた。気付かれてたのか、とレティシアは恥ずかしくなる。少しあからさま過ぎたかな、と反省する。
少し落ち込んだようなレティシアの様子に、オーウェンは少し意外な気がした。容赦なく護身術を繰り出したところを考えると、勝気な性格だと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
「俺はオーウェン・シディ。この間はどうも」
「…レティシアです。この前は失礼しました」
嫌味ったらしく付け足された一言に、思わずムッとなったレティシアが小さく言えば、オーウェンも口の端を持ち上げた。
少なくとも性格は引っ込み思案というわけではないらしい。オーウェンはそんなことを思いながら、本題をどう切り出そうか考えていた。
レティシアが閣下のことに関っているのは間違いない。一緒に居るのをこの目で見たのだから。だが、この特殊な状況を、どこまで理解してるかが謎だった。
オーウェンはレティシアを凝視する。レティシアは必死にオーウェンから目を逸らしていた。
再び、沈黙が二人を包み込む。
「…話ってなんですか」
沈黙に負けたのはレティシアだった。控えめに尋ねてみれば、オーウェンが軽く目を見開く。堅く閉ざされた口は何も発さないように思えたが、結局オーウェンは気になっていたことを聞くことにした。
「君と一緒に居る…男の子のことを聞きたい」
「アッシュのことですか?」
「アッシュ、か…」
聞きなれないその名前。それだけ聞けば、知らない人のことを話しているような気になる。それでも、あの姿を見てしまったオーウェンには、彼が探し人以外の何者にも見えないのだった。
オーウェンはまっすぐにレティシアを見る。何もかもを見透かされそうなその視線に、レティシアの心臓が不自然に跳ねた。
「単刀直入に言おう。俺を彼の元に連れて行って欲しい」
「…どうして」
「俺が探している人かもしれないからだ。…いや、たぶん間違いなく彼だと思うが」
その言葉にレティシアは驚いた。目の前に居る人がアッシュのことを探していた? それは彼がアッシュのことを知っているということで。
やっと掴んだ手がかりなのに、レティシアはなんだか釈然としなかった。その理由はただ一つ。
「軍人と何の関係があるんですか?」
アッシュは――色々不思議なところがあるが――普通の男の子だ。軍人と何かしらの関係があるようには思えない。素直なレティシアの言葉に、オーウェンが苦笑する。
どうやら頭は悪くないらしい。これが普通の女の子だったら、掴んだ手がかりに安堵することだろう。
「だが、悪くはないな…」
穿った考え方をする子だな、だと思った。だけど嫌いじゃないな、とも思う。むしろ好ましいくらいだ。
他人を無条件で信じる人間ほど、愚かなことはないと思っているから。
どこか遠くを見ているオーウェンに、レティシアは首を傾げる。その様子をぼんやりと見て、オーウェンは口の端を持ち上げた。
「彼は俺にとって大事な人だ。俺は行方不明になってしまったあの人を探していた」
「……」
「あいにく彼との関係を証明することはできないが…。だが彼に会えばすぐに分かってもらえるだろう」
自信満々にそう言うオーウェンに、レティシアは曖昧な顔をした。
確かにオーウェンがアッシュの知り合いであるならば、彼を一目見ればアッシュはすぐに分かるだろう。――記憶があるならば。
生憎、アッシュは記憶を失っている。自分のことも含めたあらゆることを。これではアッシュがオーウェンの知り合いだったとしても、彼は首を傾げるかもしれない。
レティシアはこれを伝えるべきか、すごく迷った。それでも結局は話すことにした。彼がアッシュの知り合いだったならば、知る権利があるだろうと思うからだ。
「あの、ですね…連れて行くのは構わないんですが…」
「うん? 別に無理やり連れて行かせるようなことはしないよ?」
「そうじゃないんです。…記憶がないんです」
「…………なんだって?」
「記憶喪失なんです。アッシュは」
一瞬、オーウェンには何を言われたのか分からなかった。申し訳なさそうにするレティシアの姿を見て、ようやく事態を把握する。
そして思いっきり机に突っ伏した。
閣下が記憶喪失。幼児退行(仮)だけでも厄介な事態なのに。オーウェンは泣きたくなった。
だが同時に納得もした。避難したのになかった連絡。再会を果たしたのに、何の反応もなかった。それは全て、記憶がなかったからなのだ。
閣下を取り巻く環境を理解すると、改めて目の雨の少女に感謝の気持ちがこみ上げてきた。
見知らぬ子を保護するだけでも大変だっただろう。それなのにその子が記憶喪失だったなんて。きっと苦労がたえなかったはずだ。
「色々と、世話をかけたみたいだな。ありがとう」
「そんな、あたしは別に…」
頭を下げるオーウェンに、レティシアは慌てて首を横に振った。
苦労もあったけれど、楽しいことの方が遥かに多かったとレティシアは思い返す。母をなくしてからずっと一人で生きてきた。もちろん、アニーのように助けてくれる人も居たが、家の中はいつも寂しかった気がする。わずかな間でも、アッシュと暮らせてレティシアは楽しかった。
(そっか。アッシュ居なくなっちゃうんだ…)
もしアッシュがオーウェンの探している人だったら。アッシュは間違いなくオーウェンとともに行くだろう。そうなれば、レティシアはまた一人の生活に戻る。
それに気づいた瞬間、レティシアの心のどこかが、変な音をたてた。
そんな当たり前のことにも気がつかないほど、レティシアにとってアッシュは身近な存在となっていたのだ。
仕方がない。元を辿れば、アッシュは何の関係もない赤の他人で。出会うことなんてなかったはずなのだ。
「仕事終わるの、待ってくれますか?」
「え?」
「家に案内します」
レティシアの言葉に、オーウェンの顔が輝く。
その顔を見ながら、どこか寂しい気がするのを、レティシアは気づかないふりをした。