もう二度と会うことはない
「風太……くん……」
「なんだ? 美晴」
二瀬家の前に立っている、戸木田美晴。
奥歯をグッと噛み締め、両手をギュッと握り締め、美晴は風太に向かってハッキリと言い放った。
「その身体……わたしに返してっ……!!!」
わたしに「返して」。まるで、それが自分のものであったかのような物言いだった。
風太は鼻でフッと笑うと、ヒステリックになっている美晴に臆することなく、一歩前へと進んだ。
「返す? おれが、お前に?」
「わたしのもの……なのっ……! その身体は……わたしが……使ってたのっ……! 『風太』として……の……新しい人生を……送るために……その身体は……わたしに必要なのっ……! 勝手に……持っていったり……しないでっ……!!」
「おれが奪ったことになってるのか。お前の中では」
「奪った……でしょ……!? とぼけないでよっ……! 風太くん……“あの日”……言ったよね……!? もう……元に……戻れなくてもいいって……!」
「何を言ってるんだ? “あの日”って、いつのことだよ」
「わたしの……望んだように……生きるって……!! 独りぼっちに……ならないように……、わたしと……一緒に……生きていくって……決めた……“あの日”っ……!!!」
「ああ、やっと分かった。“あの日”って、決戦の日のことか」
「決戦の日……?」
ペンダントの効果が発動し、入れ替わっていた二人が元に戻った日。風太が男の身体に、美晴が女の身体に戻った、あの日だ。
「美晴は、決戦の日のことをよく覚えてるんだな。正直……おれは、あんまり覚えてないんだ。ペンダントを発動させることに必死でさ」
「ペンダント……?」
「ああ。おれの首にある、この青いペンダントと……。お前も持ってるだろ? もう一つのペンダント」
「こ、これ……? これが……何だって言うのっ……!?」
美晴は、ピンク色の宝石がついた『入れ替わりペンダント』を、スカートのポケットから取り出すと、くしゃくしゃに丸めて風太に投げつけた。 風太はそれをキャッチしようとせず、自分にぶつかって地面に落ちるのを待った。
(美晴がピンク色のペンダントをハズしても、おれの首に青いペンダントがある限り、元には戻らないみたいだな)
特に問題はない。自分の首にさえペンダントがあれば良いのだ。
風太は軽くため息をついてしゃがみ、落ちているピンク色のペンダントを拾った。そして、もう一度立ち上がるついでに、美晴の全身を下から上までじっくりと見た。二瀬風太の視点から、戸木田美晴を感じるために。
(美晴って、こんなに小さかったんだな……)
身長や体格は、あの春日井雪乃とそれほど変わらない。
真っ黒なロングヘアで、前髪は瞳すら覆い隠そうとしている。
腕や脚には、健康的な筋肉さえなく、運動不足であることが窺える。
すべての印象を一言で言い表すなら、美晴は“幽霊”だ。そんな幽霊が、白いブラウスと紺色の吊りスカートという「女子トイレの怪談」コーデに仕上がっている。幽霊+怪談で、夜中には絶対会いたくないタイプの少女が、美晴なのだ。
……と、ここまではいつも通り。
(いつもの美晴……じゃないな。心の中が荒れてる。今までずっと『美晴』だったから、おれには分かる)
鏡に映る姿を何度も見ていた風太は、現在の美晴の些細な変化にも気づくことができた。
ヘアブラシでキレイに整えられていた黒髪が、乱れ始めていること。
ブラウスやスカートが、以前よりほんの少しだけ汚れていること。
微熱でもあるのか、全身の肌がほんのり赤っぽくなっていること。
……どれも、あまり良い変化とは言えない。
(原因は、きっとおれへの怒りや憎しみ……。メチャクチャな逆恨みだけど、美晴らしいと言えば美晴らしいかな)
美晴という女がどういう奴なのかを知っているからこそ、風太はあまり動揺しなかった。美晴がこうして喚き散らすことさえ、風太にとっては想定内なのだ。
「なんですか……? わたしの……こと……ジロジロ……見て……!」
「別に。やっぱり、お前にはその姿が似合ってると思ってさ」
「なっ……!? そ、そんな……わけ……ないっ……! それで……、二つのペンダントが……何なの……!? 話してっ……!!」
「青色のペンダントと、お前が今投げたピンク色のペンダント。これは二つで一組のアイテムで、『入れ替わりペンダント』なんだ」
「い……入れ替わり……?」
「お前が100ノートで身体を入れ替えたように、おれもこのペンダントを使って身体を入れ替えたのさ。おれとお前は、2回入れ替わって、元の身体に帰ってきたんだ」
「そんな……信じられない……。本当……なの……?」
「本当かどうかは、この現実を見れば分かるだろ。今おれの前にいるのは美晴で、今お前の前にいるのは間違いなく風太だ。これ以上、何がウソだって言うんだよ」
「そ、それは……そう……ですけど……」
「まあ、元に戻るのも簡単じゃなかったけどな。失敗する可能性もあったし、いろんな覚悟も決めた。だからおれは、元の身体に戻れたあの日を、『決戦の日』って呼んでるんだ」
「決戦……? それは……わたしと……戦うって……意味の……?」
「そうだ。おれはもう、お前に何があっても、かわいそうだと思わない」
「……!」
美晴は目を見開き、風太を見つめた。
風太は目をそらさず、正面からしっかりと、美晴の瞳の奥を見据えた。
「ま、待って……。風太くん……、待って……ください……」
「どうかしたか?」
「わたし……わ、分からなくてっ……! ふ、風太くん……は……『あの日』……わたしに……言いましたよね……? お人形と……マスターで……、二人で一緒に……生きていくって……」
「そうか」
「えっ……? 言いました……よね……?」
「忘れてくれていい」
「わ、忘れて……くれて……いい……?」
「それはウソだからな。お前をだました」
「なっ……!?」
「お前にはウソをついた。この身体を取り返すために。バカみたいに信じ込んでくれてありがとう、美晴」
「……!!」
美晴は、ひどく痛む胸をきゅっと押さえた。しかし痛みをこらえきれず、瞳が潤んでしまっている。
「お前がマヌケだったおかげで、おれは元に戻れた。今度、他の誰かと入れ替わる時は、もっと頭を使ったほうがいいぞ」
「でもっ……! でも……風太くんはっ……!」
「ん?」
「あの時……最後に……言ってくれました……よね……? わたしの……こと……好きだって……! わたし……それだけは……信じてて……!! 風太くんの……こと……わたしも……好」
「全部ウソだから、信じなくていいって。だいたいお前、おれに好かれるようなことを、何か一つでもしてくれたのか?」
「え……」
「お前みたいな自分勝手なクズを……誰が好きになるって言うんだよ。みんなから嫌われてるから、お前はいじめられっ子なんだろうが」
「……!!」
風太の鋭い言葉は、美晴の胸を突き刺し、そして深く抉った。
美晴はハッと息を飲み、「あうぅ……」と言葉にならない呟きを口から漏らし、大きな涙の粒をひとつ、またひとつと、目尻からほっぺたへと流した。
「ううぅ……!! 痛いっ、痛いよぅ……!! 風太くん……やめてっ……」
「もう帰れよ。おれの言葉を聞くな」
「胸が……苦しいっ……! ううぅっ……うううぅぅ……!!」
「おい、そこにしゃがむなよ。立て。早く立て」
風太の声を無視し、美晴は道路の真ん中でしゃがみこんでしまった。そして、手のひらで顔を覆って、本降りになる雨みたいにわんわんと泣き出した。
風太はイライラしながら溜め息をつき、この障害物をどうやったら除けることができるかを模索した。
「めんどくさいヤツ。泣いてどうなるって言うんだ」
「うわあああぁん……! うああああぁぁんっ……!!」
「うるさいな。男はそんな簡単に泣かないんだぞ。お前は、どうあがいたって女なんだよ」
「ひぐっ……! だ、だって……風太くん……が……! ぐずっ……うぅっ……うわあああああぁんっ……!!」
「話もできないのか。じゃあ、もう消えろよ。お前がここにいると迷惑だ」
美晴は呼吸を整え、なんとか会話を続けようと努力した。
「ううぅっ……う゛ううぅっ……! どう……して……? 風゛太くん……は……ぐすんっ……。風太くんは……どうして……そんなっ、ふう……に……なっちゃった……の……? ひぐっ……!」
「は? どういう意味だよ? 言ってみろ」
「い、言うけど……。お……怒らない……?」
「怒らないから」
「ぐすっ……! あ、あのね……? 風太くん……が……そんなに……ひどいこと……言うなんて……おかしい……の……。人を……き、傷つける……ような……こと……言う人じゃない……のに……。今の……風太くんは……なんだか……別人みたい……で……」
「だから? 何が言いたいんだ」
「安樹ちゃん……って……子……! あ、あの子……と……一緒にいる……から……、風太くん……は……その……お、おかしく、なっちゃった……のかも……って……思ったの……!」
そう言うと、美晴は恐る恐る風太の反応をうかがった。
安樹という謎の女が、風太に良くないことを吹き込んでいるのかもしれない……という、雪乃と同じ思考に、美晴も至ったのだ。突然現れた正体不明の存在に、疑念を抱くのは、雪乃であろうと美晴であろうと同じである。
美晴は震える手で涙を拭い、風太の顔をチラリと見た。
本人は「怒らないから」と言ったものの、今の発言で風太が怒ったりしないか、やはり気にかかる。
「安樹のせいで、おれがおかしくなった……って言いたいんだな?」
「せ、せいで……って……わけじゃない……けど……。原因は……そう……かなって……思うだけ……で……」
そのセリフが終わらないうちに、風太は美晴の二の腕を容赦なく掴み、グイグイと自宅の玄関の前まで引っ張った後、そこでパッと手を放した。
眼前には風太、背後には玄関の扉で、美晴は逃げ場を失っている。
「風太……くん……?」
「何が分かるんだよ」
「あっ……!?」
美晴は、恐怖が混じった驚きの声をあげた。
風太の血走った瞳が、自分の姿を捉えているのだ。
「お前に何が分かるんだよ!!! 美晴なんかが、安樹の何を分かってるっていうんだ!!!!」
案の定、風太を怒らせてしまった。
美晴は身を縮こまらせて、ぶるぶると震えながらギュッと目をつぶった。
「ご、ごめんなさいっ……!」
「お前、いい加減にしろよ!!! 安樹のこと何も知らないくせに、ワケの分からないこと言いやがって!!!」
「うぅっ……! うううぅっ……!!」
「おれをこんな風に変えたのは、安樹じゃないっ!! お前だよ!!! 何もかも、お前のせいだろうが!!!!」
ドンッ!!
風太の左手の拳は、怯える美晴の顔の横を通過し、玄関の扉に思い切りぶつかった。その大きな音に「ひぃっ……!」とびっくりして、美晴はまたボロボロと涙の粒をこぼし始めた。
「うぅっ……うわあああぁんっ……」
「何度でも言ってやる!!! 美晴との出会いは、最悪だった!!! だから、お前のことはもう忘れたいんだよ!!! もう二度とおれの前に現れるなっ!!!」
「うぅっ、ぐすんっ……! ふ、風太……くんっ……!」
「名前も呼ぶな!!!! 今後、絶対におれの名前を呼ぶなよっ!!! お前の声とか、しゃべり方とか、全部、ムカつくんだ!!!」
「そ、そんな、ことっ……。ひぐっ……うっ、うわあああぁあぁんっ……!! うああああぁぁんっ……!!!」
「はぁ、はぁ……好きなだけ泣いてろ。でも、安樹は本当に何も関係ない。おれを恨むのは勝手だけど、おれの大切な友達まで恨むつもりなら、おれはここでお前を殴るからな」
「ひうっ……!?」
「ボコボコにして、二度と学校に来られなくしてやるからなっ!!」
その言葉は、美晴の心臓をグチャっと握り潰した。
「ああ……あ……。あ……ああ……あ……」
恐れ、傷つき、悲しみ。負の感情を涙として溢れ出させることで、美晴の心は辛うじて耐え続けていたが、ついにその許容量を超えてしまった。つまり、風太の最後の言葉により、美晴の心はバラバラと壊れてしまったのだ。
悲しみの涙を通り越した状態。それが、今の美晴である。
「ああ……あ……あ……」
目はギョロリとまん丸に開き、口はパクパクと動いて意味不明な呟きを吐き出し、全身の筋肉は活動をやめてダラリとした脱力状態に入った。まるで、糸が切れた操り人形のようだ。
しかし、そんな状態になった美晴に対しても、風太は相変わらず無情だった。
「どうした。腰が抜けたか?」
「あ……ああ……あ……」
「話せないのか? それなら、もう終わりだな。おれは家に入るよ」
「……」
「悪いけど、そこどいてくれるか? お前の後ろにあるのは、ウチの玄関の扉なんだ」
「立……て……なぃ……」
「そっか。じゃあ、無理やり入る」
風太は美晴を軽く押しのけ、玄関の扉を開けた。
あと一歩で我が家。念願の帰宅である。扉を閉めて、カギさえかけてしまえば、もう二度と美晴に会うことは……。
「ま、待って……!!!」
放心モードからハッと我に返った美晴は、家の中に入ってしまおうとする風太のTシャツの裾を、咄嗟に掴んだ。
「わっ!? 服を掴むなっ!!」
「た、立ちたいのに……立てないのっ……!」
「知るかよっ! 手を放せって言ってるだろ!」
「ちょ、ちょっと……待って……!」
「待たないっ! 話はもういいだろ!」
「い、いや……! まだ、まだ……!」
風太の服を右手で掴み、左手で掴み、さらに右手で掴み、よじ登るかのようにして、美晴は立ち上がろうとした。
しかし当然、風太はTシャツごと身体を下に引っ張られている。
「なんだお前っ! ゾンビかよっ!」
「こ、この服……! わたしも……着たことある……!」
「はあ!? そんなこと、今はどうでもいいだろ!? 頭がおかしくなったのか!?」
「この……ズボンも……! 男の子の……服……! わたし……着てたのっ……!」
「入れ替わってた時の話だろうが! それはもう終わったんだよ! 本当に大丈夫か、お前っ!」
「この……ペンダントもっ……! 青い……宝石が……キレイ……って……思って……! ずっと……つけてた……!」
「!!?」
狂った目をした美晴は、風太の身体にすがるように絡み付きながら、襟元のペンダントのヒモにまで触れた。絶対にハズしてはいけない、絶対に壊してはいけない、大事な大事なペンダントに、気安くベタベタと。
「うわぁっ!? 入れ替わりペンダントに触るなっ!!」
「入れ替わり……? そ、そっか……! これのせいで……元に……戻っちゃったんだから……、このヒモを……ちぎれば……もう一度……入れ替わること……が……」
「やめろっ!!」
ペンダントを守るため、風太は腕にグッと力を込めて、美晴を押した。
すると、美晴の華奢な身体は、想像よりも遥か遠くまで吹っ飛んだ。
「はぁっ、はぁっ……! クソっ!!」
美晴の安否を気遣っているヒマはない。
風太は急いで玄関の扉を閉め、ガチャンとカギをかけ、家の中に逃げ込んだ。
「ぺ、ペンダントは!? 無事か……! よ、良かった……」
幸い、ペンダントはちゃんと風太の首元にあった。まだまだ効力が続いているらしく、魔法が解けたりはしていない。とりあえず、一安心。
風太はホッと胸を撫で下ろし、大きな溜め息をついた。
「ふぅ……。忘れよう。美晴のことは」
*
翌日。
月野内小学校の保健室。
「へぇー。それで、キミたちの入れ替わり物語は、おしまい?」
「おしまい」
風太は、昨日の美晴との一部始終を、安樹に語った。そして、話の最後に、これでもう美晴と関わることはないと、言い切った。
「なんか、あっけないね。男女の別れ話としては」
「あのなぁ……。決着の話だぞ? おれと美晴との間に、決着をつけたんだ」
「それで、美晴ちゃんを男のパワーで突き飛ばして、本当に全部おしまい?」
「ああ、終わりだ。もうアイツと会うこともないしな」
「へぇ……。でも、美晴ちゃんは大丈夫かな?」
「何が?」
「キミに突き飛ばされて、ケガとかしてないかなって思ってさ。あと、ショックで不登校になっちゃってるかも」
「それなら大丈夫だ。今朝、美晴が登校してるのを見た。見た感じ、いつもと変わりない様子だったぞ」
「ふ~ん。美晴ちゃんの様子を、わざわざ、見に行ったんだ~?」
安樹はイタズラっぽくニヤニヤと笑った。
「な、何かおかしいか?」
「いやあ、『美晴のことなんかもう忘れる!』と言った割には、まだ随分と気になってるみたいだなぁと思ってさ。ムジュンしてない?」
「そっ、それは……たまたま見かけただけだっ! ケガをさせる気はなかったし! とにかく美晴のことは、これからゆっくり時間をかけて忘れていくんだよ!」
「そうなんだ。ま、せいぜい頑張ってよ。ちゃんと彼女のことを忘れられるといいね」
「おう! これから楽しい思い出をいっぱい作って、嫌な記憶を全部上書きしてやる!」
風太は意気込み、左手でガッツポーズをした。
今の風太の言葉に、ウソはない……と、思いながらも、安樹はそっと窓の方を向いて、小さな声でボソッと、独り言をつぶやいた。
「あーあ。ボク、なんとなく分かっちゃった。風太にとって、美晴がどういう存在なのか」
少しだけ、哀しい目をして。
風太には絶対聞こえないような声で。
「ん? 何か言ったか、安樹?」
「べーつにっ。何も言ってないよ。ボクもそろそろ行動しなきゃ置いてかれるなって、思っただけ」
「行動? どこかに行くのか?」
「どこか、ねぇ……。あっ、そうだ! 良いこと思いついた!」
「おっ、なんだ? 良いこと?」
「今日の放課後、デートしようよ♪」




