雪乃vs安樹
安樹と雪乃。
二人が出会った。
「キミは太陽で、ボクは月。闇の中にいる人間を明るく照らせるのは、夜の世界で生きているボクしかいない」
「え? い、いきなり何っ?」
「フッ、気にしなくていいよ。今のはボクなりのあいさつさ」
「うーん、難しくてよく分かんない……。こんばんは、って意味でいいのかな? じゃあ、わたしからも、こんばんはー」
独特なしゃべり方の安樹と、思考が追いつかない雪乃。
本来なら決して出会うことのない二人が、出会ってしまった。
「フフ、やはりキミが雪乃か。いやあ、まさかこんなタイミングで会えるなんてね」
「うんっ、わたしは春日井雪乃! ……えーっと、あなたのお名前は?」
「おっと、自己紹介が遅れたね。ボクは安樹。6年3組の菊水安樹だ」
「ん? アンジュ……くん? アンジュ……ちゃん?」
「ああ、性別は女だよ。こんな格好してるから、よく男の子に間違えられるけどね」
「安樹ちゃん、かぁ。初めまして、だよね? よろしくねっ!」
「そうだね。よろしく、雪乃。こうして会うのは初めてかな」
最初は不審がっていた雪乃だったが、会話を続けると、徐々にいつもの調子に戻っていった。初対面の相手でも、自分のペースをすぐに取り戻すことができる、雪乃のコミュニケーション能力。それは、初対面の相手だと緊張して上手く話せなくなってしまう美晴の能力とは、真逆のものだ。
雪乃は安樹のそばにある机を見て、尋ねた。
「ところで、安樹ちゃんはここで何をやってるの?」
「……!」
「わたしと同じで、忘れ物を取りに来たの?」
「フフッ、ここは6年1組の教室だろう? 忘れ物をしたなら、まず6年3組の教室に行くさ」
「あっ、そっか。そうだよね。えへへ」
雪乃は照れくさそうに、にっこりと笑った。
「うん、キミはいい顔で笑うね」
「えっ? い、いい顔? わたしの顔が?」
「そうだ。見る者を魅了するような、明るい笑顔だよ」
「そ、そんなこと初めて言われたよーっ! 嬉しいなぁ……! えへへ、えへへへ……」
「ふーん。彼の前でも、いつもそういう笑顔を振り撒いてるんだろうね」
「うん? 彼って?」
「いや、気にしないで。あっ、でも一つ聞いてもいいかな?」
「うんっ! なぁに?」
「キミの席は、この教室のどこにあるの?」
「そこ! 安樹ちゃんが立ってる場所の、その隣の席っ! わたし、その机の中にある国語のノートを取りに来たのっ!」
雪乃はぴょんっと跳ね、安樹の隣の机を指差した。
(風太の隣……! これは随分、距離が近いじゃないか)
安樹はその机を見て、クールにフッと笑った。
「雪乃」という名前が、風太の口からよく出る女の名前だと、安樹は知っていた。「美晴」以外に、風太の周りにはもう一人女がいると、安樹は知っていた。
そして今、そいつが目の前にいる。
「……」
機は熟した。牽制も充分にした。流れはできた。
まずは一発ぶちかましてやろうと決め、安樹は小さく息を吸った。
「ボクがここにいる理由、だっけ? キミの質問は」
「うんっ! 何してるのかなーって。あっ! 別に、悪い意味じゃないよっ!?」
「フフッ、分かってるさ。キミは、彼と同じくらい純粋だし」
「えっ? また、彼……?」
「プレゼントをこっそり渡そうと思って。キミの隣の、『風太くん』にね」
「ふ、風太くんに、プレゼント!? ちょっ、ちょっと待って!!」
「なんだい?」
「安樹ちゃんは、風太くんのこと知ってるの!? 風太くんのお友達なのっ!?」
「ボクは風太のことが好きだ」
「……!!」
窓の外の景色だけが、その場に残った。
月と星の輝きだけを残して、すべての時間は止まった。
*
「だからサプライズとして、風太の机の中にプレゼントを仕込みに来たのさ」
「ちょっと待ってっ」
「……」
雪乃の一声で再び会話は止まったが、今度は時間までは止まらなかった。
「目を丸くする」とはこのことだと、安樹は目の前にいる少女を見て思っていた。
「あ、あのっ」
「なんだい? 雪乃」
「その、す、好きって、いうのは、どういう、こと……?」
「フフッ、そうだね。恋愛感情があるって意味かな」
「安樹ちゃんは、ふ、風太くんのこと、恋愛として、好きって、こと……?」
「うん。ボクは風太が欲しい。他の誰にも渡したくない」
「……!!」
二発目。その言葉も、雪乃にはクリーンヒットした。
安樹は帽子をとって髪をかき上げ、不敵に微笑んだ。
(フフッ。キミにとって、最も聞きたくない言葉だろう。さあ、どうする? 雪乃……!)
しかし雪乃は、まだ落ち着いていた。必死に自分のペースを取り戻し、体勢を立て直そうとしている。
「だ、だって、風太くんだよ!? 本当に風太くんでいいの!?」
「ん? 風太がどうかしたのかい?」
「幼稚園の時なんて、ヘビにびっくりしてお漏らししてるし、ハチに刺された時も男子のくせに大騒ぎして、か、カッコわるいしっ! 海でクラゲに刺された時も、溺れそうになってたし……!」
「そうなんだ。雪乃は風太のこと、ダサいと思ってるんだね」
「えっ……!? あ、いや、そ、そういう意味じゃなくてっ!」
「ボクはカッコいいと思うけどなぁ。だって、風太がヘビやハチやクラゲに立ち向かったのは、きっと、その後ろに守りたい人がいたからでしょ? 誰を守ろうとしたのかは、知らないけどさ」
「あっ……!」
「でも、無茶をするんだよね、彼は。だから、守られる人は後ろで風太を支えてあげなければいけない。風太が倒れてしまわないように、優しく寄り添ってあげるんだ」
「うん、うん……。そうだね……」
「ボクならきっと、それができる。ボクなら彼とお互いに助け合って、生きていける。というか、今もやってるしね」
「えっ!? 今も、って……」
「おや、知らないみたいだね。今、風太の身に何が起こっているのかを」
「……!」
三発目。「キミの知らない風太をボクは知っているぞ」という意味の、二人の立場を決定づけるような言葉。雪乃の胸には、安樹の三本の槍が突き刺さった。一瞬だけ、雪乃の呼吸は完全に止まっていた。
耐え難い激痛。雪乃は苦しそうに自らの胸をぎゅっと掴み、少しかすれた声で、言葉を絞り出した。
「ご、ごめんっ。わたし、もう帰るねっ」
「いや、まだだよ」
しかし、安樹は雪乃を逃さなかった。振り返って教室から逃げ出そうとする雪乃の腕をがっしりと捕まえ、それ以上一歩たりとも進ませようとはしなかった。
「もっといっぱい話そうよ。ボクの風太について」
「……!!」
窓の外は雲一つない夜空。月は、一層まばゆい光で、二人を照らしている。
*
「……」
「……」
雪乃は安樹に背を向けたまま、振り向こうとしない。
安樹は雪乃の腕を掴んだまま、その背中に話しかけた。
「ボクと風太が出会ってから、流れた時間は10日ほど。それでも、ボクたち二人にとっては濃密な時間だった」
「……」
「彼はまだ、ボクの気持ちに気付かず、友達だと思っている。ちょっぴり残念だけど、友達という関係も悪くない。そういう関係でしかできないこともあるしね」
「……」
「悩ましいのは、引鉄を引くタイミングだよ。この恋だけは絶対に失敗したくないから、ボクは慎重になってるんだ。だから今は、大好きな彼のことをよく知ろうとしてる」
「……」
「フフッ。さて、今度はキミの番だよ。キミにとっての二瀬風太を教えてほしいな」
「……」
しかし安樹は、しゃべりすぎた。
月の光のせいか、それとも風太への想いのせいか。それにしても、しゃべりすぎた。
それは安樹本人も自覚していたが、周囲の異変を察知する力が鈍くなっていることまでは、まだ気が付いていなかった。
(どうするつもりだ、雪乃。「安樹ちゃんがんばってね。応援してるよ」と、大人しく諦めるか? それとも、「わたしの風太くんを取らないで!」と、見苦しく喚くのか? どちらを選んだとしても、ボクは次の手を……ん?)
空気。
(なんだ? これは……)
とても重い空気。
(うっ……! なんなんだ、この空気はっ! 息が、詰まるっ……!)
月の光は、人を狂気へと誘う。
今夜、誘われたのは、安樹だけではなかった。
「安樹ちゃん……」
「……!」
「安樹ちゃん……?」
「ゆ、雪乃っ……!」
雪乃はついに振り返り、安樹を見つめた。
喚いたりせず、大人しく諦めもせず、そしてこの教室に漂う重い空気に苦しむことすらせずに、ただまっすぐに立ち、正面にいる安樹を見ている。
ビリビリとした空気を感じながら、安樹も雪乃を見つめ返した。
(恐ろしいほどの、重圧……! これは、雪乃が放つプレッシャーなのか……!?)
「安樹ちゃんの気持ち、分かるよ」
(いや、違う……! もっと適した言葉が……)
「もし相手が風太くんじゃなかったら、わたしはきっと安樹ちゃんの恋愛を応援したと思う」
(“威圧感”……!!)
「でもね、退けないんだ。ここだけは」
教室の窓はガタガタと揺れ、木造の机や教壇はミシミシと音を立てている。
しかし雪乃は、物音に少しも怯んでいない。
「わたしが風太くんと出会ってから、流れた時間は7年ほど。それはとっても濃密な時間だった。けど……」
「け、けど……?」
「足りない」
「えっ?」
「全然足りないの。10年後も、100年後でも、ずっとわたしと一緒にいてほしい」
「……!!」
雪乃の言葉と共に、空気はまた一段と重くなった。
ずっしりとした空気は、そのまま安樹を押し潰そうとしている。
「フ、フフッ! 100年か……! ボク、そういうハッタリは嫌いじゃないよっ……!」
「ハッタリ? うーん?」
「でも、ボクだってここで引くわけにはいかない……!」
「安樹ちゃんは、風太くんとどうなりたいの?」
「かっ、カフェオレ……! ドロドロに溶けて、混ざり合って……!」
「うん? どうなりたいの?」
表現が難解すぎて、雪乃には伝わらない。
「か、彼氏であり、彼女であり、だ! ボクと風太は……」
「わたしはね、結婚したいって思ってる」
「はあ!? 結婚って、それは……気が早すぎるだろ!?」
「だって、100年後でも一緒にいる方法って、それしかないでしょ? わたしと風太くんなら、結婚しても大丈夫だと思うし」
「じょ、冗談じゃ……」
「ううん。本気。例えば、風太くんと他の女の子が付き合ったとするでしょ? そしたら、性格が合わなくて、すぐ別れちゃうと思うの。1ヶ月ぐらいで」
「は……? なぜ、そう言い切れる……?」
「絶対にそうなるの。風太くんの性格をちゃんと理解していないと、長続きしないんだよ。風太くんはカッコつけだから、変な理由で突然別れたりするの」
「キミが勝手に、そう決め付けてるだけだろう……!?」
「ううん、絶対にそうなるよ。風太くんのことを分かってないとダメなの。つまらないことでケンカして、ムダに傷つけ合うだけ」
「そ、それを言うなら、キミだって……!!」
「でも、わたしなら大丈夫。7年間一緒にいて分かったの。これからわたしと風太くんは、いっぱいケンカもするけど、絶対に離れることはない。だって、わたしのために風太くんがいて、風太くんのためにわたしがいるんだから……!!」
「は……。は、ははは……」
誰も自分と風太の間には入れないと、雪乃は本気で言っている。ただの行き過ぎた妄想にすぎないが、雪乃の中では確定事項となっているようだった。
安樹は、渇いた笑いを見せた。
(さっきとはまるで別人だな。この子も相当、まともじゃない生き方をしてるぞ。その歪んだ愛情で、今までずっと風太に自分以外の女の子を寄せ付けなかった、というわけか……!)
安樹は冷や汗を垂らしながら、笑みを浮かべた。
雪乃は全く退き下がらない。誰が向かって来ても、おそらくこの怨恨にも近い情念で、捻り潰すつもりだろう。恋愛という戦場において、その女は確かに「強敵」だった。
安樹はノックアウト寸前のところで踏みとどまり、『美晴』にひざまくらをしてもらった時の記憶を思い出して、自分の傷を癒やした。
「……分かった。キミの風太への想いは、充分に伝わった」
「まだまだ。風太くんのことなら、誰よりも話せるよ」
「いや、今日のところは、これくらいにしよう。もう時間も遅いし」
「あっ! あの、その……ごめんねっ! わたし、安樹ちゃんにすっごく失礼なこと言っちゃったよね?」
「いいさ。本当の気持ちをぶつけ合うのは、嫌いじゃない。お互いに譲れない場所なら、そうなるのも仕方ないさ」
「あ、あのっ! もしよかったら、またわたしとお話してくれる……? 安樹ちゃんとは、お友達になりたいのっ」
「フフッ、いいね。友達っていうのはいいもんだよ。キミとボクと風太は、みんな友達。今はまだ、そういうことにしておこう」
「うんっ! ありがとうっ!」
雪乃と安樹はガッチリと握手をして、お互いの健闘を賛え合った。教室に漂っていた重苦しい空気は、その握手と同時くらいに、スッと静かに消えていった。
「じゃあ、ボクはそろそろ帰るね。……キミには負けないよ」
「うんっ! わたしも、安樹ちゃんには負けないからねっ!」
「じゃあね。雪乃」
「バイバイ、安樹ちゃんっ」
雪乃は教室の前の扉から、安樹は教室の後ろの扉から。それぞれ6年1組を出たあとは、互いに反対の方向へと向かって歩き出した。
安樹は一度だけ振り返り、去り行く雪乃の背中を見ながら、小さな声で呟いた。
「太陽と月。あとは戸木田美晴という存在が、ボクたち二人にどう影響するのか、だね……」
*
その日の晩。雪乃の部屋。
「ぎゃあ゛あ゛ーーーーーっ!!!!!」
雪乃の悲鳴(?)が、部屋に響いている。
「言っちゃったぁーーーっ!!!!! 恥ずかしいこと言っちゃったよぉーーーーっ!!!!! あわぁーーーーーーっ!!!」
雪乃は、ベッドの上にいた。
カエル型のクッションを抱きしめながら、足をバタバタさせたり左右に転がったりしている。
「取り消したいぃーーーーーっ!!! なかったことにしたいぃーーーーーっ!!! わたしが言ったこと、忘れてくれないかなぁーーーー!!!!」
安樹に告白した日の夜の『美晴』と、全く同じ行動をしている。
「きゃあぁーーーーっ!!! あんなこと言わなきゃよかったぁーーーっ!!!! 恥ずかしーーーよぉーーーーーーっ!!!」
あまりにも大きく響く声。とても近所迷惑だ。
数秒後、ママが鬼の形相で部屋に乗り込んで来るのだが、そうとも知らずに、雪乃はベッドでドスンドスンと暴れ続けた。




