女子更衣室には入れない
五時間目。
『風太』が所属するクラス、6年1組の教科は書写。毛筆の授業だ。
授業内で創られた子どもたちの習字作品「希望の光」は、教室の後ろの壁に展示される。
「できた……!」
『風太』は、美しく整った「希望の光」を、左腕一本でなんとか創り上げ、先生に提出し終えた。あとこの時間にすべきことは、運動場のそばの手洗い場で筆と墨池を洗い、使用した習字セットの片付けをするだけだ。
『風太』が手洗い場に出ると、そこにはすでに道具の水洗いをしている健也がいた。
「お、風太か。その骨折した右腕は、まだ安静中なのか?」
「うん。ちょっと時間がかかるみたい。ペンやフォークは持てるようになったんだけど」
「日常生活さえも大変なんだな。うーん……おれに何か手伝えることはないかな?」
「ふふっ、今でも充分助けられてるよ。みんなが優しくしてくれるおかげで、体育以外の授業は普通に受けられてるの」
「そうか、あとは体育だけか……。早く治して、またドッジとかサッカーとか、一緒にやろうぜ」
「うんっ! わたし、また1組のみんなとサッカーやりたいっ!」
「お、出たな。『わたし風太』」
「きゃっ! い、いい、今のはナシ!」
「あははっ、面白いやつだな。お前は相変わらず」
「うぅ……。『わたし』って言っちゃうクセ、早く直さなきゃ……」
「面白いから直さなくていいよ。おれも風太と……それから“あいつ”とも一緒に、サッカーやりたいって思ってるし」
「うん? “あいつ”って、誰のこと?」
「へっへっへ、まだヒミツだ。でも、お前とは絶対に仲良くなれると思う。今度“あいつ”と出会ったら、みんなの前で紹介してやるから、楽しみにしておけ」
「よく分からないけど、新しい友達ってこと?」
「ああ。見たら絶対びっくりするぜ。だからまだヒミツだ」
「そ、そう……? まぁ、友達が増えるなら嬉しいけど……」
健也はワクワクした気持ちで、あの「幽霊みたいな少女」のことを、頭に思い浮かべていた。
そうとも知らずに、健也の隣で墨池を洗っている「元幽霊少女」は、分かりやすく喜びの感情を顔に出す健也を見て、クスッと笑った。
そして、健也は自分の道具を洗い終わり、蛇口の水を止めた。
「よし、そろそろ教室に戻るか。お前はまだ洗うのか?」
「うん。もう少しだけね」
「そっか。おれは着替えもあるし、先に行くぞ」
「えっ? 着替え?」
「次の授業、体育だからな。お前は見学だから、着替えなくてもいいのかもしれないけど」
「あっ、そういえばそうだったね。体操服に着替えて、グラウンドに集合だっけ」
「たぶん、今日は長距離走だろうなー。お前と勝負したかったぜ」
「あ、あはは……。ごめんね」
「しかし、給食のあとの長距離はきっついんだよな。……ほら、見ろよ。他のクラスのやつらも、すごくキツそうだ」
健也と『風太』が今いる場所は、屋外にある手洗い場。ここから少し背伸びをすると、グラウンドの様子を見ることができる。
グラウンドでは、ちょうど長距離走を終えた他のクラスの男子たちが、ズキズキと痛む脇腹を押さえながら歩いて、呼吸を整えていた。
「えっ!? あそこにいるのは……!」
「あれは6年2組だな。じゃあ、おれ着替えてくる」
「う、うん……!」
6年2組。元々の、美晴が所属していたクラスだ。
あそこで歩いている男子生徒も、木の下に座って休んでいる男子生徒も、グラウンドに大の字で寝ている男子生徒も、美晴はみんな知っている。
(今、男子の長距離が終わったってことは、おそらく次は……)
『風太』はきょろきょろと辺りを見回し、健也が近くにいないことを確認すると、こそこそと隠れながら、グラウンドがさらに見やすくなる位置へと移動した。
*
長距離走。男子の次は、女子の番となる。
スタートラインに集まっていた体操服姿の6年2組女子たちは、陣野先生の「よーい、はいスタート」の声で一斉に走り出した。
短距離走ではないので、全員まずはペース配分を考えて、軽くジョギングしている。
「はぁ、はぁっ……はぁっ……!」
グラウンドを二周ほど走ったところで、先頭を含む足速い子グループ、続いて真ん中の普通な子グループ、さらに後ろに体育苦手な子グループと、女子の走者集団が三つできた。
『美晴』は、その体育苦手な子グループの最後尾にいた。息はすでに上がり、脚がふらつき始めている。
(くそっ、もう苦しくなってきた……! まだ二周目なのにっ……!)
本来ならば6年生の中でもトップクラスの走力を持つ風太でも、『美晴』の肉体に閉じ込められていては、これほどまでに残念な結果となる。辛うじて、精神が風太であるおかげか、ぶっちぎりの最下位だけは免れている、という状態だ。
(身体が、前に進まない……。美晴には筋肉がないから、足が上がらないんだ)
ただでさえ小さい歩幅は、体力の限界が近づくにつれて、一層小さくなってくる。
『美晴』は、今の自分の身体を、さらに冷静に分析した。
(腕は振れない、地面も蹴れない。フォームは崩れて、自分の体の重さが、ずっしりと伝わってくる……)
「体の重さ」とは、主に前方に二つ突き出した胸のことだが、それ以外にも、太ももや尻の辺りも重く感じていた。発育が良い少女の身体は、今の風太にとってはデメリットでしかなかった。
(長い髪は邪魔だし、首が絞まるから上手く呼吸もできない……! 美晴の身体は、何もかもが運動に向いてないっ……!)
へろへろになりながら、なんとか最後まで走りきった。
「はぁー……、はぁー……。はぁっ、げほげほっ……!!」
手足には根性以外の動力がなく、心臓のバクバクは収まらない。
しかし、こんなに死にものぐるいで一生懸命走っても、結果は最下位。他の女子たちはとっくにゴールし、『美晴』の必死すぎてキモい走り方を、陰で笑いながら見ていた。
(どうしておれが、あんな奴らに笑われなきゃいけないんだ……)
『美晴』は、とても惨めな気持ちになった。
*
「風太くん……」
『美晴』は長距離走を終え、今は木陰で独りで休んでいる。
それを間近で観察できる場所。屋外体育倉庫の裏に、『風太』はそっと身を隠していた。
(早く風太くんと仲直りして、100日後に消えちゃうことを伝えないと……! 行くなら今……だけど、この右腕を見せたら、仲直りどころか余計に怒らせてしまうかも……。ううぅ、どうしよう……)
あと一歩が踏み出せずにいて、『風太』は『美晴』を凝視していた。
一方の『美晴』はというと、誰かに見られているなんて考えもせず、タオルと水筒をそばに置いて、静かにそよ風を感じている。
(きっと、うまく走れなかったからショックを受けてるんだ……。本当の風太くんは、もっと速いもん……)
だから、今『美晴』の前に姿を現すのは得策ではない、と『風太』は結論づけた。火に油を注ぐことになるだけだ、と。
そしてまた、しばらく観察を続けた。
(わたしのせいだ……。わたしのせいで、こんなことになって……。今も、わたしを恨んで……あれ?)
自己嫌悪に陥ろうとしたところで、ふと、『風太』は自分の身体に違和感を覚えた。
「はぁっ、はぁっ……。なんで……わたし、こんなにドキドキしてるの……?」
じっと、『風太』を見ていたからだ。じっくりと『美晴』の全身を見ていたせいで、男としての本能が刺激されてしまった。
『風太』はゴクンと生唾を飲み込み、おそるおそる自分の身体を見下ろした。
(興奮してる……!)
意志に、従ってくれない。
「あそこにいるのは、風太くんなのにっ……! 美晴デビルだと、勘違いしてっ……」
悪夢が、現実にも影響を及ぼしている。
「はぁ、はぁ……。わたし、最低すぎる……。落ち込んでる風太くんを見て……自分の身体を見て、興奮してるなんて……。でも……うぅっ、気持ちが抑えきれないっ……!」
目の色が、変わろうとしている。
『風太』の精神が、漆黒の闇に染まろうとしている。
(あぁ……。風太くんが、お茶を飲んでる……。風太くんが、わたしの水筒に、唇をつけて、お茶を……飲んでるだけ、なのにっ……)
理性の崩壊。そのギリギリのところで、『風太』は踏みとどまっている。
今、少しでも気を緩めると、『風太』は雪乃への想いを忘れて、『美晴』のことを好きになってしまう。
「あっ! 風太くん、どこかに行っちゃう……」
お茶を飲み終えた『美晴』は、もうすぐ五時間目終了のチャイムが鳴ろうというタイミングで、立ち上がった。そして、水筒とタオルを拾うと、校舎がある方へと向かって、歩き出した。
「……!」
『風太』は『美晴』に気付かれないように、その後を追った。
*
『美晴』が向かった先は、プールにある女子トイレだった。
本来、水泳の授業でしか使われない場所なので、プール内やプール用更衣室にはカギがかかっていて入れないが、トイレだけはいつでも自由に使うことができる。とはいえ、グラウンドからはもちろん、校舎からも少し離れた場所にある辺境のトイレなので、日常的にこのトイレを使う女子はいない。
「……」
女子トイレに着くと、『美晴』は一番奥の個室に入り、カギを閉めた。
その後を追っていた『風太』は、現在は一応男子なので、女子トイレ内には入れない。
(トイレなら、他の場所にもあるのに……。どうして風太くんは、わざわざこんなところまで来たのかな……?)
『風太』は女子トイレの入り口でしゃがみ込み、トイレ内の音を静かに聞いていた。
(いや、おかしいのはわたしの方だよね……! こんな女子トイレまでついてきて、聞き耳を立てるなんて……)
まるで変態だった。万が一、この光景を誰かに見られたら、『風太』のニックネームは「変態ストーカー」になってしまうだろう。
さすがにこの行為はマズいと『風太』は冷静になり、ストーカーごっこはやめて、静かにこの場を去ろうとした。しかし、数歩進んだところで、女子トイレ内の奇妙な音を聞き、ピタリと足を止めた。
ガサ……ゴソ……。
(あれ? 水の音がしない……。風太くんは、女子トイレで何を……?)
聞こえてくるのは、衣服が擦れる音だけ。おそらくだが、『美晴』は便器に座っていない。
『風太』は少し考え、そしてハッと気付いた。
(あっ! ここで、体操服を着替えてるんだ……! みんなと同じ女子更衣室では、着替えられないから……)
その推察は正解だった。
ブラウスがチョークの粉で汚された先日の事件と、『美晴』の身体に残っている凄惨な火傷痕。この二つのことを踏まえ、『美晴』は他のみんなが使う女子更衣室を避け、この女子トイレで服を着替えることにしたのだ。臭くて汚く、着替えに適した場所ではないが、仕方ないことだと割り切っていた。
(女の子なのに、女子更衣室で着替えられないなんて、そんな……)
見ていられなくなって、『風太』は一言もしゃべらずに、その場を立ち去った。
そして『風太』が去った後、『美晴』はバタンと扉を開け、個室から出てきた。
「よし……! 着替え……終わり……! スカート……だけど……ズボンみたいな生地だから……、いつもの……ヒラヒラしたやつ……よりも……恥ずかしくない……な……」
今日の私服、デニムのスカートのことだ。それでも充分ガーリッシュなのだが、『美晴』は手洗い場の鏡の前で、満足げな顔をして立っていた。
「ん……? 誰か……いるのか……?」
何かの気配に気付き、『美晴』はチラリと女子トイレの外を見たが、そこにはもう誰もいなかった。
*
五時間目が終わり、六時間目も終わった。
現在は放課後。保健室のベッドには、昼休みの時と同じように、『美晴』と安樹の二人がいる。
「キミは、スウィートなミルク」
「……」
「ボクは、ブラックビターなコーヒー」
「……」
「とっても気持ちよく混ざりあったら、何になると思う?」
「コーヒー……牛乳……?」
「ブブー、残念。答えはカフェオレでしたー」
「は……? なんだよ……そのクイズ……。カフェオレと……コーヒー牛乳は……どう違うんだ……」
「あっ、でもボクはエスプレッソだから、答えはカフェラテかな?」
「あー……もうっ! 邪魔だ……!! どけっ……!!」
「ひゃっ!? あふっ……」
安樹の頭は、『美晴』の膝枕の上からゴロンと落ちた。
「もう……いいだろ……!? ひざまくらは……終わりだ……! 早く……ペンダントの……話を……してくれよ……!」
「やだ。まだあと15分残ってるし。ほら、もう一度ボクをひざまくらに乗せて」
「だいたい……何が面白いんだよ……これ……! ずーっと……おれの……ひざの上で……意味が分からない……クイズ……してる……だけ……じゃないか……!」
「ボクにとっては、それが面白いのー。……ねぇ、ボクはちゃんとペンダントを持ってきたし、使い方についても調べておいたんだよ? キミにとって友達というのは、命令を聞くだけの都合の良い存在なの?」
「なっ……!? それは……違うっ……! 友達っていうのは……お互いに助け合って……」
「そうだよね。だったら……分かるよね? ボク、キミの友達だよねぇ?」
「ゔっ……! ほ、ほら……ひざまくら……してやるから……早く……来いよ……」
「わーいっ! 風太の低反発ひざまくら大好きー♡」
「こ、こらっ……! うつ伏せで……寝るのは……やめろっ……!」
いつものキリリとしたイケメン顔をふにゃふにゃにして、安樹は子猫のように『美晴』のスカートにほっぺたを擦り付けて甘えた。
『美晴』は「このスカート、一時間ほど女子トイレに置いてあったんだけどなぁ……」と思ったが、あえてそれを伝えなかった。
「ふぅ。さて、ここからは真面目な話なんだけどさ」
「うん……?」
「入れ替わりペンダント。その効果を発動する条件っていうのが、なかなか難しいみたいでね。風太は、本当にペンダントを使いたいの?」
「ああ……。元の体に……戻るため……なら、なんだって……する……覚悟はある……!」
「ふーん。じゃあ、一つ確認してもいい?」
「なんだ……? 確認って……」
「キミには……『風太』と愛し合う覚悟がある?」




