ボクだけの白百合
恍惚の表情を見せる安樹の足元に、洋服が散らばっている。白いシャツ、紐タイ、薄手のベストにスキニーパンツ。足りないものは、下着だけ。
「安樹……? 今の音は……」
「ううん、気にしなくていいよ。目を閉じたまま、何も考えずに、全身の力を抜いてね」
「お、おう……」
安樹は、自身が被っていたキャスケット帽を机の上に除けると、気持ちを落ち着けるために一度軽く深呼吸をしてから、『美晴』が寝ているベッドの上に乗った。
「ギシ……」と、二人の体重により、ベッドが軋む。
「まずは、キミの柔らかい太もも。ゆっくり、マッサージしていくよ」
「く……くすぐったい……。でも……、気持ち……いい……」
「そう? それならよかった。存分に癒やされてね。さぁ、とても静かに、夢の中へ行こう……」
「ああぁ……たしかに……眠ってしまい……そうだ……。頭が……ぼーっと……してきた……」
「ふふふ。もみ、もみ……」
「うぅ~ん……。むにゃむにゃ……」
本日分の疲労と、それをほぐしてくれる心地よい安樹の指圧。
暖かい癒やしに包まれた『美晴』は、考えることを少しずつやめていき、ついには自分の素肌に触れる安樹の手の感覚すら、フッと消した。
「……」
「ねぇ、風太? まだ起きてる?」
「……」
「あはは、ずいぶん疲れてたんだね、風太。入れ替わりの苦労はボクには分からないけど、今までいっぱい頑張ってきたんだね」
「……」
「よし、そろそろいいかな」
安樹はマッサージする手を止め、気持ちよさそうに眠っている『美晴』の布団をめくった。そして、『美晴』の服装を軽く整えると、自身の身体をその隣に寝かせ、もう一度布団を被り直した。
「こんなチャンス、この先のボクの人生には、もう二度と来ないと思うんだ。だから……許してね」
*
真っ暗な部屋。二人の少女が、一つのベッドで寝ている。
髪の長い少女は静かに眠り、髪の短い少女はその子に添い寝をしている。二人の距離は、およそ20cm。
「あのね、風太」
「……」
返事はない。
「えへへ。眠っているキミに……言うね?」
「……」
「ボクは、キミが好きだ。友達じゃなくて、それ以上の『好き』で、キミが好き……」
安樹は、内緒の話をするみたいに、『美晴』の耳元で囁いた。
「キミは……ボクのこと、好き?」
「……」
「いや、分かってるさ。ボクが望めば、きっと好きって言ってくれるだろうね。でも、それは……友達としての、好き」
「……」
「美晴とか、雪乃とか……キミの周りには、女の子がいっぱいいるんだね。その人たちも、みんなキミの友達? それとも……フフッ」
「……」
「ふぅ……」
奥歯をぎゅっと噛みしめ、安樹は胸の苦しみに耐えた。
「ただ……ボクは普通の女の子とは違う。彼女たちにないものを、ボクは持ってる。それはね、性別に囚われず人を好きになれる能力さ」
「……」
「『同化』してもいい。例えキミが、一生元に戻れなくても、ボクからの愛は変わらない。他の女の子にはできないことが、ボクにはできるんだ」
「……」
「フフッ……こんなことを言ったら、キミは怒るだろうけど。もしもキミが完全に『同化』したら、ボクはキミを独占できるのかな」
「……」
「元に戻ってほしくない。ずっとその姿のままでいてよ、風太」
安樹は、眠っている『美晴』のあごに優しく手を添え、自分がいる方へとそっと向かせた。『美晴』はそれに逆らうどころか、身体と首が同じ方を向くように、寝返りを打った。
「ああ、なんてキレイなんだろう。まるで白百合みたいだ」
「……」
「フフッ……何を言ってるんだろうね、ボクは。寝てるキミにだから、なんでも言えちゃうけど」
「……」
「理想は……そうだなぁ、彼氏と彼女みたいな関係になることかな。キミが望むなら、ボクは彼氏にも彼女にもなるよ。恋愛小説よりも甘い恋愛をしよう」
「……!」
「あ、少しまぶたが動いた。眠り姫様は、もうお目覚めかな。この時間が終わっちゃうの、嫌だな……」
「……?」
「最後に……良い想い出を作らせてくれる? 今日という日のことを、一生忘れないように」
「ん……?」
甘い吐息が顔にかかり、『美晴』はぱちりと目を覚ました。
しかし、瞳の奥に「♡」を宿した安樹は、もう止まらない。
「そのまま、じっとしててね……」
「え……?」
目覚めの『美晴』に、紅い唇。
「んっ……」
「うわあぁっ!!? なんだっ!?」
突然の迫りくる愛に対し、『美晴』は咄嗟に顔を横に向けた。
安樹の唇が触れたのは、残念ながら『美晴』の右のほっぺたになった。
「あ……。失敗しちゃった」
「はぁっ……はぁっ……! なんだよ……いきなりっ……! なんで……ほっぺたに……キスした……!?」
「え? うーん……。ほっぺだから、感謝のキスかな。ボクなりの、お礼の気持ちってことで」
「お礼の……気持ち……? あっ……!」
『美晴』は即座に思いだした。
5歳児の藤丸にも同じようにキスされたことを。
「言葉で……伝えろよ……そういうのは……! おれが……起きてる時に……な……! 何を考えてるんだ……お前は……!」
「キミのことだけを考えてる。だから、キミもボクのことだけを考えてほしい」
「ちょっと……待てっ……! なんで……服を……脱いでるんだ……お前……!?」
「あつかったからね。すごく、あつかったよ。さっきまでは。……あれ? 叩かないの?」
「叩く……? おれが……お前を……?」
「いつもなら、ボクがふざけたことをしたら、叩いたり蹴ったりしてるでしょ? でも今はそうしなかった。なんで?」
「そりゃあ……だって……。お前……今……泣いてるから……」
自分でも気付かないうちに。
「え……。あっ……」
瞳の下が、少しだけ濡れていた。
「あはっ、あはははっ! なんで泣いてるの? ボク」
「知るかよ……。女は……すぐ泣くなぁ……本当……」
「ねぇ、風太。今ので、ボクのこと嫌いになった? もう友達やめる?」
「バカ……。つまらないこと……聞くな……。安樹は……もう何も……怖がらなくていいんだ……」
「そんなこと言うと、ボクはキミから離れられなくなっちゃうよ。あぁ、このままチョコレートみたいにドロドロに溶けて、二人仲良く混ざり合えたらいいのにね……」
「いちいち……表現が……難しいんだよ……。恋愛小説の……読みすぎだ……お前は……」
「……」
少しそっけない『美晴』の言葉に、安樹は目を細めた。
(そういえば……美晴とはくっついたりしてるんだよね、風太は。『おれは女子なんかに興味ない』って態度を取ってるクセにさ)
硬派を気取るそいつに、安樹はちょっとだけムカついた。
(『共鳴』って言ってたっけ。たしか、おデコを……)
もちろん、『美晴』と安樹がくっついても、その現象は起きない。
それは分かっていたが、安樹は自分も他の子と同じことをしたいと思い、『美晴』のおデコにそっと触れた。
「安樹っ……!? お、おい……そこは……ダメだっ……!」
「なんで……? ここは、美晴専用?」
「違うっ……! おデコに……触ったら……」
「うん……?」
『美晴』は安樹の手を止めようとしたが、反応が少し遅かった。
安樹は「ハサ……」と静かに前髪をかき分け、『美晴』のおデコを露出させてしまった。
「え……。何これ……」
そこには、深い傷痕がある。
風太と美晴しか知らない、邪悪な傷痕が。
「あぁ……見たのか……」
「酷い傷……。痛そうだね」
「痛かった……だろうな……」
「風太も知らないってことは、美晴の傷?」
「そうだ……」
「前髪で隠してあるということは、見られたくないものなの? これがどういう傷か、キミは知ってるの?」
「うん……」
「今、その傷についての話を、聞いてもいい……?」
「……」
『美晴』は唇を少し噛み、じっと安樹を見つめて考え込んだ。
安樹は見つめ返しながら、『美晴』の次の言葉を待っている。
「この傷は……」
「うん」
「今は……聞かないでくれるか……? 機会が来たら……必ず……話す……。お前は……おれを……助けようとしてくれる……友達だから……」
「そっか……。分かった。キミには、まだたくさんのヒミツがあるんだね。引鉄を引くには、もっとキミを知らないといけないな」
その後、どちらとも言葉を話そうとしない、とても静かな時間が、しばらく続いた。
*
「ありがとう。風太」
「ん……? 何が……?」
「今日のこと。園ちゃんのこと」
「ああ……。別に……お礼なんて……いらないよ……。っていうか……さっきもらったし……」
「ボクね、2年前のボクに会ったら、今日あったことを教えてあげようと思うんだ」
「2年前の……ボク……?」
「うん。夢の中でいつも会える、2年前のボク。右手にカッターナイフを持って、独りでずっと泣いてるの。どうしよう、どうしようって、不安で、ずっと。体に刺す勇気もなくて」
「安樹……」
「『あと2年、生きてみて』って。『そしたら、キミにとっての希望に出会えるから』って、あの子に言ってあげるよ。……えっと、風太のこと、あの子に『親友』って紹介するのは、ダメかな?」
「ううん……。おれからも……その子に……『2年後で待ってる』って……伝言を……伝えてくれ……」
「フフッ、また伝言かぁ」
「はは……。任せた……ぞ……」
「……」
「ボク、風太が好きだ。大好きな……親友だ」
「おれも……安樹が好きだ……。大好きな……親友だ……」
*
そして、安樹が帰った後。
夜の遅い時間。
「ただいま。美晴」
「おかえり……。お母さん……」
戸木田家のお母さんが、玄関に着いた。
奥の部屋から、パジャマ姿の娘が現れ、それを出迎えている。
「あら、美晴……。今日は何か良いことでもあったの?」
「えっ……? どうして……?」
お母さんは、娘のささいな変化を見逃さなかった。
「ふふっ、私も嬉しくなっちゃうわ。あなたのその笑顔が、久しぶりに見られて」




