汚れたブラウス
しゃがんで、元々は純白だったであろうブラウスを拾い上げる。
赤、黄色、緑などのカラフルな粉によって、乱雑に着色されている。よく見ると、上履きの足跡やホコリも付いていて、明らかに人為的な被害だと分かる。
「なんで……こんな……こと……」
わざわざどこかの教室からチョークの粉を持ち出して、ここまでのことをした人間がいる。
イタズラにしては、度が過ぎている。風太も男子同士でイタズラをしたりされたりはするが、さすがにここまではしない。
(恨み、か……? おれ以外にも、誰かに迷惑をかけたのかな。あいつ)
美晴は自分勝手で、ウソつきで、すごく嫌なやつだ。だから、風太以外にも、美晴のことを恨んでいるやつがいてもおかしくはない。
犯行現場が女子更衣室なので、おそらく犯人は6年生の女子だ。女子同士で、何かイザコザがあったのだろう。
(女子のケンカって、これが普通なのかな? 女の世界のことは、よく分からないけど)
男子のように直接殴り合ったりはしない代わりに、精神的にダメージを与える。陰湿だが、それが女子のケンカの流儀なのだろうと、風太は納得しかけていた。
しかし風太は、ふと、胸ぐらを掴まれた美晴の哀しい目を思い出した。
「もしかして……、ケンカ……とは……違うのか……?」
風太が思う「ケンカ」とは、1vs1でぶつかり合うこと。あの時の美晴は、1vs1のぶつかり合いを望んでいる人間の目をしていなかった。
(ケンカじゃないなら、なんなんだ……?)
殴ったら殴り返されるという世界で生きてきた若い少年は、まだ知らなかった。集団から一方的に虐げられるだけの存在がいることを。
考えても分からないので、風太は考えを打ち切った。
(まあ、いいや。あいつの事情なんて、どうでもいい。身体さえ元に戻ったら、美晴なんかとは二度と関わらないだろうしな)
『美晴』は、「戸木田」と書かれたピンク色の体操服袋を見つけ出すと、美晴のブラウスやスカートをその中へ押し込み、女子更衣室を後にした。
*
月野内小学校に、間もなく夜が訪れる。
『美晴』は、美晴のランドセルを持って帰るために、6年2組の教室へとやってきた。
(そういえば、2組の教室には、ほとんど入ったことないな。どんなクラスなんだろう)
月野内小学校のクラス替えは、二年に一度。これは昔の名残で、一つの学年にたくさんクラスがある小学校は、このパターンになることが多かったらしい。月野内小学校も、昔は一学年に6クラスもあったそうだが、今は少子化の影響で3クラスになってしまい、この二年に一度のクラス替え制度だけが現在も残っている。
だから風太は、この6年2組のことをあまり知らない。
窓際の、後ろから二番目の机の上に、赤いランドセルが置いてあった。大抵、女子のランドセルには、キャラ物のキーホルダーや可愛いストラップなんかがついていたりするが、その赤いランドセルには何もついていなかった。
(なんだか地味だな……。雪乃のランドセルは、もっとゴテゴテしてるのに)
まずは、ランドセルの中を確認する。
グレーのポーチ型ペンケースと、リンゴが描かれた下敷き、教科ごとに分けられたノート、そして先日配布されたばかりの、6年生の新しい教科書が何冊か入っていた。
どれもこれも、地味な色合いではあるものの、男子が使うようなものではなく、しっかりと可愛いポイントがある「女子の私物」だった。
(同じ女子でも、雪乃とは全然違うタイプなんだな)
中身の確認を終え、美晴の赤いランドセルを、『美晴』が背負う。
(うっ、重い……! すごく重く感じるぞ。荷物はそんなに入ってないはずなのに……!)
重さでふらつきながら、『美晴』は原因を考えた。
これはおそらく、筋力の問題だ。風太の身体と比べると、美晴の身体は小さいうえにパワーもない。ランドセルを背負うというだけでも、これほどの負担になる。
今なら、雪乃が言っていた「女子だから、重い物が持てないのっ」という言葉の意味が、分かるような気がした。
(あの時、雪乃はワガママを言っていたわけじゃないんだ……!)
『美晴』は、身体の不便さを実感しつつ、6年2組の教室を出た。
*
小さな身体で、ふらふら、ふらふらと歩き、やっと校門の外まで来た。日は完全に沈み、部活動帰りの中学生が数人、道を歩いているのを見かける。
(おれも、早く家に帰らないとな)
……。
(早く家に帰らないとな……!)
(早く家に……!)
(家に……?)
立ち止まって、考える。
当然、この姿では自分の家(二瀬さん宅)には帰れない。
美晴の身体で、美晴の体操服を着て、美晴のランドセルまで背負っているのだから、やはり今日は美晴の家に泊まることになるのだろう。
(あいつの家、だよな……。美晴の家は……)
そこでやっと気がついた。
(美晴の家は、どこだ……!?)
*
「どうしよう、どうしようっ!」
一方、『風太』も同じことに気づいていた。
「風太くんは、わたしの家の場所を知らないっ……!」
風太の家に到着し、一度ランドセルなどの荷物を置いた『風太』は、再び月野内小学校へと向かっていた。
外は冷たい風が吹いているものの、風太の家にあったジャケットを羽織って来たおかげで、寒さは全く感じない。
「きっと怒られるし、殴られると思うけど、行かなきゃ……!」
さっきのこともあり、また『美晴』に会うのは、少しだけ怖かった。しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。
「このままじゃ、風太くんはどこにも帰れないっ!」
そして、交差点の信号待ち。
「はぁ、はぁ……! 急がないとっ……!」
「お前、そんなに急いでどこに行くんだ?」
「だって、早く行かないと、風太くんがっ!」
「は? 風太はお前だろ」
「えっ!?」
いきなり、自転車に乗った少年が隣に現れ、なれなれしく声をかけてきた。確か、この人物の名前は……。
「えっと……もしかして、健也くん?」
「おう。健也くんだ」
『風太』は、自分の脳内にある人物図鑑の、「健也くん」の項目を開いた。
「健也くん。風太くんの友達であり、ライバルみたいな男の子。この人も運動神経バツグンで、6年1組のリーダーというか、まとめ役みたいな存在……」
「おお……。褒めてくれるのは嬉しいけどさ。お前、自分のことを『風太くん』なんて呼ぶのは、やめた方がいいぞ」
「えっ……!?」
「さっきから、独り言がすごいな。気味が悪いぞ」
「きゃあっ!? ま、待って!!」
「今さら口をふさぐなよ」
「むごぐ……! わたしの思ったことが、全部口から出ちゃってる!?」
「それすらも出てるぞ」
「わた、お、おれ、おかしなこと、言ってないですよね?」
「『ですよね?』」
「言ってま……な……ないよね?」
「ははっ、こりゃダメだな。さっき気を失った時、頭でも打ったんじゃないか?」
健也は冗談だと思って軽く笑ったが、『風太』にとってはまるで冗談などではなかった。
目の前にいるのは、風太の親友。しかし、しゃべればしゃべるほど、どんどんボロが出てしまう。『風太』は「男の子らしく、風太くんらしく」をもう一度自分に言い聞かせ、これまでの失敗を取り返そうと必死になった。
「こ、こほんっ!」
「風太、どこに行くつもりなんだ? こんな時間から」
「て、テメェには、関係ないでしょっ!?」
「急に口が悪くなったな」
「と、とにかく、おれは頭を打ってないっ! いつも通り、普通の風太だよっ!」
「そうか? それならよかった。今からお前ん家に、様子を見に行こうと思ってたんだよ。体調はどうなのかなって」
「えっ、そうなんだ……。ごめんなさい、心配をかけて」
「いいよ、気にすんな。それより急いでるんだろ? お前」
「うん。学校に行かなきゃいけないの」
「へぇ、忘れ物か? おれの自転車使うか?」
「じ、自転車っ!? 自転車なんて、わたしっ、無理ですっ!!」
「無理です???」
信号が青に変わった。
一言で言うと、『風太』にとって健也は「強敵」だった。あまり長く話していると「お前、本物の風太じゃないな?」とか、突然言われそうな気がする。
もう逃げるしかない。今は落ち着いて話せる状態じゃない。
「それじゃあ、おれ、もう行くよっ!」
「走れよ風太。信号、赤になるぞ」
「うんっ! また明日、学校でっ!」
「お、おう……」
『風太』は健也に手を振り、横断歩道を全力で駆け抜けた。
『風太』が去った後、健也は遠くに見える背中をぼんやりと眺めながら、ポツリと呟いた。
「なんだ? あの女子みたいな走り方は。風太のやつ、なんで脇をしめて走ってるんだ……?」
*
「うぅ、寒い……」
夜の7時を過ぎたころ。
体操服から着替えられなかった『美晴』は、4月の寒さに震えていた。校門の外側にある花壇のふちに腰を降ろし、ただ夜空を眺めている。
(自分の帰る家が分からないなんて、誰にも言えないな。もうどこでもいいから、テキトーに歩いて、暖かい場所に行こうかな……)
寒さもあるが、疲労もかなりある。そのため、考える力を奪われ、投げやりになっているのだ。
そこへ、人影が一つ、『美晴』へと近づいてきた。
「風太くんっ!」
少年に名前を呼ばれた。
現在の『美晴』を、本当の名前で呼ぶことができる少年は、この世に一人しかいない。
「美晴……」
『風太』を目の前にしても、『美晴』の心には全く憎しみが湧いてこなかった。心まで湿気っているせいで、熱い気持ちにならないのだ。
自分だけジャケットを羽織っている『風太』の姿を見ても、怒りの感情は表れず、それどころかほんの少し、会えて嬉しいとさえ感じていた。
「体操服、脱がなかったんですかっ!? わたしの私服に着替えなかったんですか!?」
「え……? うん……」
「あっ……! いえっ、そのっ、ありがとうございますっ!」
『風太』はペコリと頭を下げ、『美晴』にお礼を言った。「多分こいつは、何か勘違いをしているな」と、『美晴』は思った。
チョークの粉で汚れていたから着替えなかっただけで、乙女心に配慮して着替えなかったわけではない。しかし、わざわざそれを説明するのも面倒なので、『美晴』は何も言わなかった。
「そ、その格好じゃ、寒いですよねっ!? これを着てくださいっ!」
『風太』はワタワタと上着を脱ぎ、それを『美晴』に着せようとした。
(寒いなぁ……。早く、暖めてほしい……。そういえば、男が「ほらよ」なんて言いながら、寒さで震える女に上着を一枚差し出す……なんてシーン、ドラマで見たことあるな。それがきっかけで、女が男に惚れたりなんかして……)
ふと、『美晴』が顔を上げると、『風太』と目が合った。
「「あっ……」」
ドラマのような。
(うわぁああっ、違う違う違うっ!!! なんでおれがそっち側なんだよ! というか、なんで相手が美晴なんだよ! しかも、見た目はおれなのにっ!! ……くそっ、自分で言っててワケが分からないっ!! とにかく、おれは風太で、男だし、こいつは美晴で、女だ! おれに上着を着せるなよ、このバカっ!!)
『美晴』は心の中でパニックになり、顔が真っ赤になった。
「いらない……よっ……!」
「す、すみませんっ」
寒くて仕方がなかったが、『美晴』はその上着を『風太』に突き返した。もし、その上着を着せられてしまったら、本当にもう、感情が制御できなくなってしまう気がするのだ。
『風太』は、自分だけ暖かい上着を着るのは申し訳ないと思ったのか、それを着直さずに腕に抱えて、歩き出した。
「わたしの家に案内します。ついてきてくださいっ」
*
信号を二つ渡って、コンビニの前を通り、その次の交差点を右に曲がる。その間、お互いに無言だったが、住宅街に入ったあたりで、『風太』が口を開いた。
「あ、あのっ! さっきの保健室では、本当にごめんなさいっ」
それに対し、「謝ったからって、許されると思うなよ。このバカ。アホ」と、ボロクソに罵ってやるつもりの『美晴』だったが、さっき上着を差し出された時から、テンションがどこかおかしくて、『風太』への悪口がうまく言えなくなっていた。
「ぉ……! おれも……さっきは……ごめん……」
思ってもないことを言った。
しかし、『美晴』のその言葉を聞いた『風太』の表情はパッと明るくなり、足取りまで軽くなった。
「あともうすぐ、ですっ! わたしの家までっ!」
「うん……」
*
それは、急に始まった。
『美晴』の身体に、突如起こった異変。
「あっ……!」
「風太くん? どうしました?」
一瞬、背筋がゾクッとした。
これはきっと、「あの感覚」だ。男でも女でも、「あの感覚」はほぼ同じ。本当に前触れもなく、それは突然やって来た。
(マズい、マズいぞ。こんな、どこだか分からない道の真ん中で、来るなんて……!)
『美晴』になってから一度も「あの感覚」は来ていないので、そろそろ来てもおかしくはない。しかし、果たしてこの女子の身体で、それができるだろうか。
「うっ……」
女体の骨盤のせいで内股気味になっている脚を、さらに閉じる。下手に動いたら、その勢いで「排出されてしまう」かもしれないので、慎重に、冷静に。
「風太くん……!?」
『風太』も驚いて、立ち止まった。元自分の苦悶の表情を見て、この異変にはもう勘付いているかもしれない。
少しでも気を緩めたら、そこで全てが終わってしまう。「あの感覚」をガマンしながら、『美晴』は恥を捨てて『風太』に伝えた。
「トイレに……行きたいっ……!」




