風太と雪乃(後編)
シマヘビ。
日本に棲息する。噛む力は強いが、毒の無いヘビだ。ただし、毒は無いといっても雑菌が入る可能性があるので、噛まれたらすぐに適切な処置を施す必要がある。
そんなヘビに、風太は噛みつかれた。
「うわぁーーーっ!!」
びっくりして、ドシンと尻もちをついて転んだ。
「きゃーーーーっ!!」
様子を見守っていた雪乃は、思わず顔を覆った。
「パクッ……!」
ヘビは、この生意気な子猿を仕留めてやろうと、必死に噛みついて離れない。
ヘビが噛みついている場所は、股間。風太のアソコを狙った攻撃だった。
しかし、幸運にも数センチずれており、短パンの股下にある布を噛んでいるだけなので、ヘビの牙によるアソコへのダメージはなかった。なかったのだが……。
「あああ、あわわわわ……!」
ショワアァァ……。
漏れてしまった。アソコから出る黄色い液体が、風太の短パンの股間の色を、どんどん濃く染めていく。異臭も、プンプンと漂っていく。中にはいているパンツなんかは、もう大洪水だった。
「にょろにょろっ……!?」
驚いたのはヘビの方だ。自分の口元まで、その液体がみるみる広がり迫ってきたのだから。
「カッ、カパッ!」
口を大きく開いて、緊急脱出。
あのまま噛んでいたら、大変なことになっていただろう。危ない危ない。……と、安心したのも束の間。
「ワンワン!! ワンッ!」
さっきまでポカンとしていたチョコたろうが、急に吠えだした。ヘビから風太を守るように立ち、野生を剥き出しにして、「ガルル……!」と威嚇している。
何かを守るために戦う犬は強いのだ。ちなみに、チョコたろうはメス。
「にょ、にょろ……」
その威圧感に圧倒され、シマヘビはにょろにょろと庭の外へ逃げ出した。
「あ……ああっ……」
「だいじょうぶっ!?」
腰が抜けて呆然としている風太に、雪乃が駆けよる。
「あぁーーっ!?」
そこで、雪乃もしっかりと確認した。地面に小さな水たまりができるほどの、氾濫を。
「おっ、おもらししたの!?」
「……はっ! うわぁっ、みるなっ!!」
風太は慌てて、短パンのシミになっている箇所をギュッと掴んだ。しかし、悪臭や水たまりまでは、隠すことができない。
すぐに無駄な抵抗だと分かり、風太は手に込めた力をゆるめた。
「……」
「……」
雪乃は、うつむく風太の顔をじっと見た。
「……」
「うぅ……」
無言の羞恥に耐えられなくなって、風太は口を開いた。
「あ、あのっ、ゆきの……」
「……うん?」
「えっと……。ご、ごめん……」
「どうしてあやまるの?」
「だって、えらそうなこといったのに……たすけるっていったのに、おれは、なにもできなかったから……」
「……」
「で、でもっ、まだまってほしいんだっ! こんど、ゆきのになにかあったら、かっこよくたすけて……」
「もういいよ」
「え……?」
雪乃は、微笑んでいた。
「ありがとう、ふうたくん。ちょっぴり、げんきでたよ」
「あ。おれのなまえ……」
「わたし、いまならいえるとおもう」
「なにを?」
「パパがなんでしんじゃったのか、ママにぜんぶいうの。わたしも、がんばるっ!」
「えっ、だいじょうぶなの?」
「えへへ、すっごくこわいけどね。でも、なにかあったときは、ふうたくんがたすけてくれるんでしょ?」
「おれ……?」
「そうだよ。ふうたくんのこと、たよりにしてるから。わたしのパパみたいに、これからかっこよくなってね?」
「う、うんっ! おれにまかせろっ!」
雪乃が手を差し伸べる。
「えへへ。よろしくね、ふうたくん」
風太もそれに応えた。
「ああ。よろしくな、ゆきの」
二人はがっちりと握手をした。
が、雪乃は風太の右手を一度握ると、すぐにバッと引っ込めてしまった。
「ひゃあっ! ふうたくんのて、しめってる!!」
「え?」
「これ、おしっこでしょ!? きたなーーいっ!!」
「なっ!? お、おまえが、あくしゅしようとするからっ!」
「うえぇ、くさいよーっ! おうちにかえって、てをあらわなきゃ!」
「あっ、いくな、まてっ! かえるなら、おれのママをよんできてくれーっ!」
股間をびしょびしょにして叫ぶ男の子の横で、チョコたろうはまたポカンとしていた。ポカンとしながら、走って庭から出て行く女の子を見守っていた。
*
翌日。カナダモ幼稚園。
はしゃぎ回る他の園児たちを、雪乃はブランコに座ってぼんやり眺めていた。今日も独りで寂しく……ではなく、今日は隣のブランコで、立ち漕ぎをしている奴がいる。
「うおおっ、みろよゆきのっ! おまえ、これできるか!?」
「ふうたくん。まじめなおはなしするから、ちょっとしずかにして」
「あ、はい……」
ギーコ、ギーコ、ギコ……ギコ……。
「わたし、きのういったよ。ママに」
「お、おお……。どうだった?」
「ぜんぜん、おこられなかった。ママにきらわれるとおもったけど、ぎゃくにおれいをいわれちゃった」
「おれい?」
「うん。はなしてくれてありがとうね、って。そしたらわたし、ないちゃって。ママがぎゅーってしてくれたけど、そのママもないてて……。なきながら、『あなたは、パパのぶんまでしあわせにいきなきゃダメよ』って、いってた」
「そうか。よかったな、ゆきの」
「うんっ! ありがとう、ふうたくん」
「なにいってるんだよ。おまえが、がんばったんだろ。おれはなにもしてないって」
「えへへ……」
はしゃぎ回って散り散りになっていた園児たちが、グラウンドの真ん中に集合し始めた。これから、みんなで鬼ごっこをするらしい。
「おーい! ふうた、ゆきの! おまえたちもこいよ! みんなでやろうぜ!」
その中の一人が、ブランコにいる二人の園児を呼んでいた。鬼ごっこは、大人数でやった方が楽しいのだ。
「あっ、なたねがよんでる。いこうぜ、ゆきの」
「えっと……。だいじょうぶ、かな……?」
「だいじょうぶ。みんな、おまえといっしょにあそびたかったんだよ。きょうから、ともだちになるんだっ!」
「う、うんっ。じゃあ、わたしもいくっ!」
天気は快晴。
穏やかな風が吹き、太陽はカナダモ幼稚園で元気に遊ぶ子どもたちを照らしていた。
────
*
「……」
*
それから7年後の、現在。
「あれ? あそこにいるのは……」
月野内小学校の6年生で、風太の親友である健也は、「メゾン枝垂れ桜」というマンションから『風太』が出てくるところを、偶然見かけた。
「おーい、風太ー!」
「……」
「おーいっ!」
「……」
「おいってば!」
「えっ? ……あ、健也くん」
「なんだよ、ぼーっとして。っていうかお前、こんなところで何やってるんだ?」
「……」
「ん?」
「……」
「おいおい、いちいち固まるなよっ! 古いパソコンみたいな奴だな。どうしたんだ、お前」
「あっ、ああ、あの、あのねっ?」
「おう、大丈夫か? 落ち着けよ」
「お、おれはねっ、おれは、おれで、おれなのっ!」
「いぃっ!? お、お前っ! 目から涙がっ!」
ボタボタと音がしそうなくらい大粒の、涙。
「もう゛、わがら゛ない゛っ……! な゛んで? な゛んでこんなに゛、うま゛くいがないの゛っ!? わ゛たしっ、何゛がダメだっだの゛っ!?」
「泣いた方が負け」というルールだから、ここまでガマンした。マンションを出るまでは、ずっとガマンしていた。
「風太……」
「う゛ぅっ……んっ! ふーっ……、ふーっ……」
「ほら、ハンカチ。さっきトイレで使ったのでよければ」
「あ゛、あ゛りがとう゛っ……! ぐじゅっ、ずずっ……!」
「そうだなぁ……。このまま、そばにいようか? それとも、今は独りにしてほしい?」
「ごべん……。今゛は、独りにじてっ」
「分かった。何があったかは知らないけど、ウチに帰ってゆっくり休むんだぞ。いいな?」
「うん゛っ……!」
「じゃあな。また学校で」
手を振って、『風太』に別れを告げる。
(こんなに泣いてる風太、初めて見たな。『メゾン枝垂れ桜』……このマンションの中で、何があったんだろう?)
健也は、『風太』が出てきた建物を見つつ、何度も振り返りながら、この場を去っていった。
*
『風太』は、独りになった。
「引き分けだもん……。わたしも、風太くんも、最後まで泣かなかったからっ……!」
心に思ったことを全部口に出してしまうクセは、まだ治っていない。
「嫌だ……。この身体は、返したくない。美晴になんか、絶対に戻りたくない。あんな惨めな姿になんて、もう二度となりたくない」
「それに、戻ろうとしても戻れないよ。100ノートが入れ替わりに関係しているとしても、あれが今どこにあるのかなんて、わたしにも分からないし」
「わたしも、蘇夜花ちゃんたちと同じ、かぁ……。それでいいなんて決して思わないけど、でも、もうわたしにはどうすることもできないよ。このままずっと、風太くんに恨まれ続けるしか……」
哀しそうに空を見上げて、誰にも聞こえないような声で、つぶやく。
「このまま、終わっちゃうのかな……」
夕日に照らされながら、『風太』は明日からのことをぼんやりと考えた。これからどうすべきか、なにをすべきか、を。
しかし、ただ一つとして明確な答えは出せず、薄曇りした瞳で、沈んでいく太陽を眺めることしかできなかった。




