風太と雪乃(前編)
「わたしのせいで、パパはしんじゃったの……!」
「な、なに? どういうこと?」
「こんなこと、ママにもおじいちゃんたちにも、いえないしっ……! ママは、パパのことがだいすきだったから、きっとわたしのこと、いっしょうゆるさないとおもうっ」
「ちょっ、ちょっと、おちつけっ! わからないってば!」
「なんで……? なんで、わたしのパパ、しんじゃったの……!? うぅっ、うわぁーーーーんっ!!」
「ゆきの……」
風太は、泣き喚く雪乃を、ただじっと見ていることしかできなかった。
雪乃から詳しい事情を聞くことができるようになったのは、彼女がひとしきり泣いた後だった。
*
数ヶ月ほど前の話。
風太の住んでいるところから遠く離れた小さな町で、その事件は起こった。
とある平日の昼下がり。
広々とした公園で、まだ若い父親とその娘は楽しく遊んでいた。
「パパーっ! みててねーっ!」
「ん? 何を持ってきたんだ? 雪乃」
「いくよー? それーっ!!」
「うわっ、泥団子か!? ああっ、シャツが泥だらけに!?」
「きゃーっ、にげろー!」
「このっ、待てっ! ママに叱られるのは、俺なんだぞ!」
「わーっ、むしょくにつかまっちゃうーっ!」
「うぐっ……!」
追いかけっこの最中、突然父親は心臓を押さえて苦しみだした。
「ぱ、パパ? 大丈夫っ!?」
「雪乃、お前……パパのことを無職と呼ぶのはやめなさい」
「でも、ママが『ママはびじんおーえる。パパはむしょく。ヒモむしょくよ。おぼえておきなさい』って」
「くそ、あいつ雪乃に変なこと教えやがって……。雪乃、これからママのことは『しりでかおーえる』って呼んであげなさい」
「はーい」
「あと、パパは無職じゃない。劇団の公演とか、この前見せてやっただろ? これからは、『みらいのすたーはいゆう』と呼ぶように」
「はいゆう?」
「ああ。これからテレビや映画に出まくって、ビッグな男になるんだぞ」
「よくわかんないけど、すごーいっ!」
「だろ? でもな、お仕事が忙しくなったら、お家にも帰って来られないかもしれないんだ」
「えっ……? それはちょっと、さびしいね……」
「はっはっは。だからこうやって、今のうちにいっぱい遊んでおくんだよ。パパがいない時も、寂しくないようにな」
「うんっ! パパだいすきーっ!」
トテトテと歩み寄ってくる娘を、父親は優しく抱きかかえた。
至福。二人にとっては、まさにそう呼べる時間だった。
しかし、この幸せな親子の時間は、あまりにも早く終わってしまうのだった。
「あっ! パパ、あそこ、いぬがいるっ!」
「お、本当だ。首輪はついてるけど、リードがない。迷子になっちゃったのか? こいつめ」
中型犬、だろうか。成人男性から見ればそれほど大きくはないが、小さな女の子の世界にとっては、その犬は脅威だった。
「わんっ! わんわん!」
あいさつ代わりの、一吠え。
「きゃあっ! こわいよーっ!」
「大丈夫だって。野良犬じゃないし、こいつも飼い主とはぐれて不安なんだ。まずは安心させてやらないと」
「うぅ……パパぁ……」
「よし。パパが撫でてみるから、真似してやってみな。雪乃」
父親は、怖くて震えている娘を抱えながら、じりじりと犬に近づいた。そして、犬のそばまで来たところで静かにしゃがみ、そっと右手を差し出した。
「ぐるる……?」
犬は、じっとその手を見ている。
不思議そうに指の匂いを嗅ぎ、そして……。
「くぅ~ん」
落ち着いた。
「ははっ。ほら、雪乃見たか?」
「わぁ……」
「よーしよし、よしよし。ちゃんと毛並みが整えられてるから、触り心地が良いな。どっかのマダムの犬かな」
「パパ、すごーいっ!」
「よーし、いい子だ。さぁ、今度は雪乃の番だぞ。パパが今やってみせたように、やってみるんだ」
「う、うんっ……!」
娘は父親の腕の中から解放され、大地に降り立った。
そして、緊張のドキドキを抑えるために小さく深呼吸した後、小さな手のひらをそっと犬に向けながら、恐る恐る近づいた。しかし……。
ガツッ。
雪乃のスニーカーが、地面からぽっこり突き出た頑丈な石につまづいた。
「あっ!?」
なんとかバランスをとって転びはしなかったものの、身体はガクンと倒れそうになった。当然、手のひらも身体の動きに持っていかれ、不可抗力ながら、撫でてもらえると思っていた犬を挑発してしまった。
「わんっ! わんっ、わんわん!!!」
吠える。外敵を威嚇するために、犬は必死に吠えている。
「ひっ、きゃあっ!!」
素早く手をひっこめ、娘は驚きのあまり悲鳴を上げた。
「わん!! わんわん!!」
その悲鳴に連鎖して、犬も喚くようにたくさん吠えた。穏やかさはすっかり消え、とにかく女の子を追い払うことに一生懸命だ。
「きゃーーーっ! パパ、パパっ、たすけてぇーーーっ!!」
娘は大声で叫びながら、脇目も振らずに逃げ出した。錯乱状態にあるので、周りはもう見えていない。
残念ながら、娘が向かった方向にパパはおらず、そちらには公園の出口がある。
「お、おいっ! 雪乃待てっ! パパはこっちだ!」
声は届かない。
「マズい、追いかけないとっ……!! 驚かせてスマン、犬くん。後で雪乃とも仲良くしてやってくれ」
「わん……?」
父親は犬に素早く謝ってから、駆けていく娘の後を追った。
*
公園の出口は、車通りの激しい大通りに面していた。
見通しはそれほど悪くはなく、ドライバーとしてはついついスピードを出してしまうが、子供の飛び出しには充分注意する必要がある道路だ。逆に、歩行者もしっかりと左右を確認して横断歩道を渡らなければ、事故に巻き込まれる危険性が高い。
そんな場所に、一心不乱に走って逃げることだけ考えている幼い女の子と、「お酒を飲んじゃったけど、まぁちょっとだけなら大丈夫だろう」と考えているドライバーの運転する車が、鉢合わせたらどうなるか。
結末は目に見えていた。
「雪乃っ、待てっ! 車が来てるっ! そっちに行っちゃダメだっ!!」
「パパぁーーっ!! こわいよーーーっ!!」
道路に飛び出してしまった。
数メートル先に、それが迫っているとも知らずに。
「雪乃っ!!」
「えっ……」
迫り来る自動車と、背中を押され突きとばされる娘。
そして、急ブレーキの音が響いた。
────
*
「……それから?」
「おされて、ころんで、ぶつかるおとがして……。とにかくもう、めちゃくちゃで」
「あんまり、おぼえてない?」
「うん。きがついたら、びょういんにいたの。そばにママがいて、おとななのにすっごくないてて、どうしたのかなっておもって。そんなにないてたら、パパがびっくりしちゃうよ、って、おもっ、て、そこ、でっ」
「お、おちつけっ!」
「ぜんぶ……ぜんぶおもいだしたのっ! パパはもう、いないってことっ! わたしのせいで、パパがしんじゃったってことっ! ぜんぶっ!」
「……」
「かなしいのも、こわいのも、あたまのなかにいっぱいで! しんぞうはぎゅーっていたくなるし、でもママにはいえないし、わたし、もう……わかんないっ!」
「だからって、ないてるだけじゃ……」
「だって、わかんないもんっ!! そんなこというなら、なんとかしてよっ!!」
「お、おれは、その……」
「話を聞いてあげることしかできない」と言いかけて、風太はやめた。考えてみると、随分カッコわるいセリフだったので、言うのをためらったのだ。
(ちがう……! それはちがうっ!)
「くるしいよぉ……。パパ……たすけてぇ……」
(おれがなんとかするんだっ! ヒーローごっこなんかじゃなくて、ほんとのほんきで、ゆきのをたすけるんだっ!)
胸を押さえて苦しむ雪乃を見て、風太の「カッコつけ」に火がついた。もう、逃げるという選択肢はない。
「こい。ゆきの」
「えっ……!? な、なにするのっ!?」
「ほら、こっちにこいっ!」
「きゃあっ! やめてよっ!」
男らしく強引に雪乃を連れていこうとしたが、手を振り払われてしまい、うまくいかない。
「お、おいっ! なにするんだっ!」
「あなたこそ、きゅうになに? わたしのうで、つかんだりして」
「ちがうっ、そうじゃないって! と、とにかく、おれについてこいっ!」
「もういいから、ひとりに……」
「だめだっ! ママにもいえないことを、おれにはなしてくれたのに、ほっとくわけないだろっ!」
「……!!」
「もうひっぱらないから、ついてきてほしい……!」
「う、うん……」
カッコよくは決まらなかったが、なんとか雪乃を連れ出すことには成功した。
*
「くぅーん……」
ポカンとした顔の、犬。
「あれ、なに?」
「チョコたろうだよ。ここのおうちでかってるいぬ」
犬種はパグ。名前はチョコたろう。
風太の家の近所で、犬を飼ってるお宅といえばここだ。現在二人は、チョコたろうが住んでいる犬小屋の前にいる。
「かってに、はいっていいの?」
「だいじょうぶだよ。いつもこうやって、チョコたろうとあそんでるし」
「それで……? ここでなにするの?」
「きまってるだろ。りべんじだよ、りべんじ。まずはおれが、おてほんをみせる」
「……」
風太の考えを、雪乃はなんとなく察した。
トラウマ克服、とでも言うのだろうか。犬に触れるための特訓を、風太はやらせようとしているのだ。
しかし、雪乃は犬に対して、別段苦手意識やトラウマがあるわけではない。原因はそこではないのだ。
(こんなことしたって、なにもかわらないよ……)
イマイチ納得しかねながらも、雪乃は風太の「犬に触るためのレクチャー」を受けていた。
「やさしく、ゆっくり、そーっと、な」
「うん……」
「いいぞ。そのまま、そのまま……」
「……」
風太はすでにチョコたろうの体に触れ、優しく撫でている。雪乃の方を向いて、「がんばれ」という視線を送っている。
このお節介な男の子に、雪乃はハッキリと言ってやろうと思ったが、何故だか上手く言葉が出てこなくなっていた。
「えいっ……!」
触れた。状況がよく分からずポカンとしているチョコたろうの、背中に。
「さ、さわれたっ!」
「うんっ、さわれたな! やったー!」
風太は、小さな感動にドキドキしている雪乃の顔を。雪乃は、自分以上に喜んでいる風太の顔を。しっかりと見た。
「やわらかいね……」
「やわらかいな」
「ちょっとあったかいね……」
「うん。あったかいな」
二人でチョコたろうの体を、たくさん撫でた。 撫でられている本人は、嫌がったり吠えたりせず、相変わらずポカンとしている。
「……」
「ゆきの、どうだ……?」
「え? うん……。うれしいけど」
「けど?」
「なんていうか、えーっと……」
「ん?」
だからといって、何かが変わったわけじゃない。それを風太に伝えるために、雪乃は自然と言葉を選んでいた。さっきまでは、鬱陶しいとさえ感じていたが、今は自分のために尽力してくれた風太を傷つけないように、言葉を選ぶようになっていたのだ。
しかし、そこへ……。
「……あれ? ヒモがおちてるよ。そこに」
「ああ。かいいぬだからな。ちゃんとリードがついてるんだ」
一本のヒモが現れた。
だが、よく見るとヒモではない。
「う、うごいてるっ! うごいてるよ、そのヒモ!」
「うーん? ヒモじゃないな。これは……」
ヘビだ。
「「ヘビだぁっ!!?」」
野生のヘビ。
暗くて暖かい犬小屋の奥で、のんびりと眠っていたバケモノ(幼稚園児の目線では)が、今目覚めた。
状況は一変した。
「うっ、うわぁああああ!!!!!」
「きゃあああああっ!!!!」
二人はパニックになり、我先にと人間の愚かさを全開にして、逃げ出した。チョコたろうのエサ皿を蹴っ飛ばしていることにも気付かず、とにかく全力疾走した。
しかし、庭から道路へ飛び出そうとした時、先頭を走っている風太は、思いとどまった。
「……はっ! これじゃあダメだ!」
「ちょ、ちょっと! たちどまらないでっ!」
「ゆきの、だいじょうぶだ! ゆきのっ!」
「もうっ、なにがだいじょうぶなのっ!? にょろにょろって、ヘビがこっちにきてるよっ!?」
「にげなくていいよっ! お、おれが……まもるっ!!」
「えっ!?」
一度立ち止まったと思ったら、くるりと逆方向を向いて、風太は駆け出した。道中、足元にあった手頃な木の棒を拾い、それを武器のように振り回して、ヘビに向かっていった。
突然の勇気ある奇行に、雪乃は動揺した。
「や、やめなよっ! あぶないよっ!」
「だいじょうぶだって! これでつっついて、おいはらうだけだ!」
「どうして!? にげればいいのにっ!」
「おれは、おとこだからっ! だれかをまもるためにたたかうつよさを、もってるんだ!」
「なにいってるの!? もうかっこつけるのはやめてっ! ぜんぜんかっこよくないからっ!」
「そうかもな! でも、なんだかさっぱり……まけるきがしないぞっ! うおおおおおぉっ!!」
「ばかっ!」
もう何も恐れない。
風太はすっかり、戦士と化していた。木の棒を剣に変え、「おりゃっ!」「てやっ!」と華麗に戦っている。相手が野性のヘビなら、こっちも野性の風太だ。太古の昔から、メスを守ると決めたオスは強いのだ。
しかし、それは悪手だった。ヘビもヘビで、たかが4歳の男の子に敗走するほど弱くはなかった。
「にょろにょろ……シャーーーッ!!」
「えっ!?」
ガブッ!!




