自分より下の人
黒い雲が、空を覆い尽くした。
月野内小学校の生徒たちは、雨が降りだす前に帰宅してしまおうと、せっせと下校の準備を進めている。下駄箱付近はひどく混みあい、きゃあきゃあと子供たちのじゃれ合う声が響いていた。
(くそっ……!)
そんななか、少女は人混みを縫うように駆け抜け、とても慌てた様子で、6年2組の下駄箱からスニーカーを取り出した。
(あのクッキーは、奈好菜からもらった大切なものなんだ……! 蘇夜花のやつ、何も知らないクセにっ……!)
かかとを引っ張り、すっぽりと靴を履く。
これで走れる。すぐに息が上がってしまうポンコツな肉体ではあるが、走ることはできる。
*
一分後。
「はぁっ……はぁっ……」
案の定、運動不足なインドア女子の身体は、すぐに音をあげた。
探すことが出来たのは、グラウンドとその周辺の遊具のみ。学校の裏や非常階段のそばなど、まだまだクッキーを隠せそうな場所はたくさんある。
『美晴』はきょろきょろと周囲を見回し、自分が次に向かうべき場所を考えた。
(待てよ……? そもそも本当に、クッキーは外にあるのか?)
蘇夜花は、平気でウソをつく女だ。もしかしたら、残りのクッキーも、まだあいつが持っているかもしれない。
疑いの気持ちが強くなり、『美晴』は一度、下駄箱の付近まで戻ってきた。すると、6年2組の下駄箱の方から、男子たちの何やら言い争う声が聞こえてきた。
「分かってんな? テメェの任務は、これを持って、あそこまで行くことだ」
「で、でも途中で美晴に見つかったら……」
「美晴なんかにビビってんじゃねェ。あいつは女子の中でも、特に弱ェ女子だぞ。最悪走って逃げれば、追いつかれやしねェよ」
「で、でもぉ……」
「なんだ? テメェが代わりに『刑』受けるのか?」
「ひぃっ! わ、わかったよぉ……!」
声から察すると、話しているのは界とキモムタだ。どうやら、キモムタが界に「何か」を押し付けられているらしい。
会話の内容はあまり耳に入らなかったが、『美晴』は界が言った「美晴は弱ェ女子だ」という言葉が引っかかり、カチンときた。
(弱い? 今までずっと、独りで耐えてきた美晴が、弱いわけないだろうが!!)
怒りに任せて、衝動的に、彼らの前に飛び出した。
「勝手なこと……言うなよっ……!!」
目が合った。
「あっ!」
「あっ……!!」
「あーっ!!」
『美晴』、界、キモムタ。
三人がそれぞれ、驚きの声をあげた。
「クッキー……だ……!」
持っている。キモムタが、奈好菜のクッキーを、ちょうど右手に持っているのだ。
三人のうち、一番最初に界が反応して、キモムタの背中を強く押した。そして、大声で叫んだ。
「早く行け!! キモムタァ!!」
「う、うん……!」
キモムタは、どすどすと太い脚を動かして、体育館がある方角へと駆け出した。
「この野郎……待てっ……! それを……返せっ……!!」
『美晴』もそいつを逃がさないように、必死に後を追った。
小太りの少年と、陰気な少女。クラス内でも、ワースト1位2位を争う足の遅さを持つ二人の、超低速チェイスが始まった。
そして、遠くへと去っていく男女を見送りながら、界は蘇夜花に連絡をとった。
「ああ。キモムタと美晴が、今からそっちに行くぞ。ところで……あのクッキーって、美晴の手作りなのか? えっ? 違う?」
*
「はぁー……はぁー……」
追い詰めた。
「ハァ……ハァ……!」
もう一方は、追い詰められた。
体育館の裏の、そのまた奥。小学校の敷地の隅にある、古いウサギ小屋「小三元」の前で、『美晴』とキモムタは対峙している。
二人の足の速さは、それほど変わらなかった。しかし、キモムタの身体を操縦しているのは当然キモムタだが、『美晴』の身体を操縦しているのは風太だ。本来の身体ならば、クラス代表リレーに選ばれるほどの走力を持つ、風太なのだ。つまり、キモムタとは違い、「走り方」というものを知っている。
車は互いにオンボロだが、ドライバーのテクニックの差で、なんとか追いつくことが出来た。
「それ……、返……せっ……、よ……! はぁ……、はぁ……」
「ゼェ、ゼェ……ハァ、ハァ……」
『美晴』は呼吸を整えながら、右手の平を出した。
しかし、キモムタはそれに応じず、太い指でがっしりと、クッキーのラッピングを握っていた。
「お前……それが……どういう……ものか……分かってる……のか……?」
「あ、ああ! わ、分かってる、さ」
「え……?」
質問には応じた。しかも、「どういうものか分かっている」と、キモムタは言った。
奈好菜から貰ったものだとバレているのかと、『美晴』は少しだけ動揺したが、キモムタは全く見当違いなことを言い出した。
「だ、誰に渡すんだ? このク、クッキー!」
「は……?」
『美晴』は口をポカンと開き、少しの間固まった。
そいつの言っている意味が、さっぱり分からない。
「ぼくにお、教えろよっ!」
「何を……言ってるんだ……??」
「お、教えないと、か、返さないぞっ!」
「教えるって……何を……だよ……」
「このて、手作りクッキー、誰にプレゼントするつ、つもりなのか、教えろって!」
「はあ……? いや……それは……別に……プレゼントとかじゃ……なくて……」
「す、好きな男子がいるんだろっ! ぼくに言、言えよっ!」
「はあぁ……!?」
『美晴』は、頭の中の混乱を整理するため、長考した。
おそらくキモムタは、クッキーが美晴の手作りだと勘違いしているのだ。女子の手作りだから、当然好きな男子に渡す物だろうと、思い込んでいる。しかし、仮にそうだとして、何故キモムタはその相手が誰かを知りたがっているのだろうか。
「言えば……、それを……返して……くれるのか……?」
「ま、まぁ、返してやってもいいよ。界くんにはな、内緒だけどな」
界くんには内緒。つまり、この取引はキモムタの独断なのだろう。しかし何故、そんな取引を持ち出したのかが、分からない。
美晴の好きな男は「図書室で会える男の子」。それを教えれば、クッキーが無事に返ってくるかもしれない。『美晴』にとって、そのクッキーは本当に大切なものだ。
「好きなやつを……言えば……いいんだな……?」
「うんっ。そ、そうだ、言えよ」
「じゃあ……言うから……、それを……こっちに……渡して……」
……と、『美晴』は言おうとして、やめた。
もし現在の『美晴』の状況に、本来の身体の持ち主である美晴がなった場合を考えた。美晴が、頑張って手作りしたクッキーを、キモムタに取り上げられた場合。
そう考えると、こいつが何をしたいのかが、『美晴』にもだんだん分かってきた。
「ほらさ、さっさと、言えっ! 返してやらないぞっ!」
「そういう……ことか……!」
へらへらと笑うキモムタの、明らかに調子に乗った態度で、『美晴』は確信した。
(分かったぞ。こいつは、美晴に嫌がらせをしたいんだ。界たちの前では、いじめられる側だけど、美晴が相手なら、自分がいじめる側に立てると思って……!)
怒りが、こみ上げてくる。
(いじめられっ子同士なら、自分の方が上だと思ってるんだな。この立場がどんなに辛いか分かってるハズなのに、まだ自分より下の人間を探してる、こいつはただのクズだ……!!)
クッキーをお手玉のように放っているキモムタの前で、『美晴』は拳を握り締め、ワナワナと震えた。
周りには誰もいない。『美晴』の暴力を止められる人間は、誰もいないのだ。
「か、返してほしいか? ほら、ほら、界くんには黙っててやるから、言ってみろっ!」
「クズ……!」
「へ?」
「おれを……美晴を……ナメやがって……!! この……クズ野郎がっ……!!!」
ガシャンッ!!
少女の右拳が、小太りの少年の顔面に炸裂した。
小太りの少年は、「小三元」の金網に背中を強く打ちつけ、鼻血の海に沈んだ。




