もう一つの「同化」
靴紐を結び直す。
長かったハーフタイムは終わり、後半戦の始まりだ。
(お願い、わたしに力を貸して……!)
『風太』は瞳を閉じ、胸に両手を当てた。以前の自分とはまるで違う、しっかりした男子の胸板がある。
ドクンドクンと鳴り響く心臓の鼓動を感じながら、『風太』は自分に願いを込めた。そして心の奥底に「少女の美晴」を封印し、代わりに「少年の風太」を呼び起こした。
「よし、行くぞ」
*
フィールドの真ん中では、まるで交渉をするかのような穏やかなボールのやり取りが続いている。まだゴールから遠く、各選手エンジンがかかり始めたところなので、激しいぶつかり合いはない。
「風太、今のうちに上がれよ。健也と翔真だけじゃ、攻め辛そうだ」
「分かった。行ってくるよ、宙」
「お、おう……。なんか、雰囲気変わったな」
ゴールキーパーの宙に見送られ、まずはボールの動きを目で追った。
現在は、味方の翔真がボールを持っている。彼の左前にある空いているスペースでボールをもらえば、そのままシュートが狙えそうだ。
(すごい……! いつもこんな風に、サッカーをやってるんだ……! 風太くんには、こんな風に見えてるんだ……!)
図書室からグラウンドを眺めているだけでは分からない、サッカーの世界がそこにあった。視界が風太のものと同じになったので、後は脳内でイメージを明確にできれば、完全なサッカー少年の動きが出来る。
湧き上がる興奮に、『風太』は笑みを浮かべた。
「これなら、いけるっ……!」
しかし突如、状況は一変した。
翔真が健也に出したパスを、相手チームの滉一がカットしたのだ。試合は急に動き出し、穏やかな空気から一気に忙しくなった。
「うわっ、やべっ!」
翔真が振り向いたところで、ボールを持った滉一の勢いは止まらない。力強いドリブルで疾走し、高速で自陣に侵攻してきた。
敵も味方も置き去りにして、単騎での突撃だ。つまり……。
「悪い、風太頼む!」
この一枚が抜かれたら、後はもうゴールキーパーの宙しかいない。河川敷は、良い具合の緊張感に包み込まれた。
そんな中、『風太』は冷静に後ろに下がりながら、滉一を止めるための地点を計算した。
(あそこだ……!)
イメージが固まった。
雪乃のおかげで、相手からボールを奪うための経験値はある。脚は自分の思い通りに動く。もう恐れはない。
ガッ!!
「えっ……?」
捕まえた。
勢いが死んだ滉一は少しよろけ、目を丸くして足元を見た。しかしそこには、小石や雑草しかない。
滉一が後ろを振り向くと、肝心のサッカーボールは『風太』の足元にあった。
「よしっ……!」
*
応援席である屋根付きベンチは、歓喜に沸いた。正確に言うと、ベンチに座っている一人の女の子が、歓喜に沸いていた。
「やったぁ! やったよ!」
「ゆ、雪乃っ……! 興奮しすぎよ」
「ねぇ実穂ちゃん今の見た!? 緩美ちゃんも今の見たよね!? 見てなかったの!? 見た!? 見ふぁ」
「もうっ、落ち着きなさいってば」
『風太』を指さしながらパシパシと左肩を叩いてくる雪乃のほっぺたを、実穂は左右に引き延ばした。緩美はそんな二人を見て、小さく笑っていた。
「実穂ひゃん、もうパヒパヒしふぁいから、ふぁなひて」
「ここからよ。風太くんがシュート決めるところ、雪乃も見たいでしょ?」
「うんっ!」
*
実穂の言う通り、問題はここからだった。
『風太』の動きは、ボールを保持したまま止まってしまっていた。
(奪いとれた……けど、ここから相手のゴールまでは、遠すぎる……!)
ボールを奪いはしたものの、相手チームの勢いはまだ死んでいない。当然、今度はボールを奪い返しにやってくるはずだ。
そしてやってきたのは……。
「はっはっは、お前の弱点は知ってるぞ! くらえ風太!」
勘太だ。
何を考えているのか、勘太は走りながらズボンを降ろし、パンツを晒していた。しかも現在、そのパンツすらも降ろそうとしている。審判がいないこのサッカーにおいても、それはさすがに反則だ。
「「「うわっ、出そうとしてるっ!!」」」
「「「キャーーーッ!!」」」
男子からは呆れと笑いが、女子からは悲鳴が上がった。
しかし、勘太にとっては日常のようなものなので、特に気にすることもなく、サッカーボールと『風太』だけを狙っている。確かに、先ほどのようにひるんで顔を伏せた『風太』から、ボールを奪うのは容易いことだろう。
しかし、そうはならなかった。
「……!」
スルッ。
『風太』は、一瞬たりともひるまなかった。
ドリブルしながら流れるように一回転し、暴走する勘太を華麗にかわしたのだ。その動きの中に、美晴らしさは欠片もなく、いつもの風太そのものだった。
抜き去られた勘太は、しばらくその場で固まった後フッと笑い、「おかえり、風太」と呟いてその場に倒れた。
「……!」
男子も女子も、その一瞬のプレーに盛り上がった。しかしそんな中で、『風太』の精神はふわりと浮いた後、不気味なところに着地しようとしていた。
(えっ……。今の、何……? わたし、今……何をやったの……?)
(あれ、『わたし』? 『わたし』って、なんだ? なんでそんな、女子みたいな……)
(い、いや、違う。わたしは美晴? ミハルって誰だ? 女子? お、おれは……男だ……!)
(そうだ。おれは風太なんだ……!)
『同化』。かつて風太も経験した、入れ替わった者だけに起こる現象だ。
風太の場合は精神が美晴化し、美晴の場合は精神が風太化する。そうして今回は、「99%くらいの風太」が誕生した。
(なんだよ美晴って。おれは風太だ)
(余計なことを考えずに、サッカーに集中しないとな。さて、パスかドリブルか、それともシュートか……)
(おっ、翔真があそこにいるな。よし……!)
『風太』はドリブルしながら考え、方針が決まると一気に速度を上げた。
*
そこからの試合の流れはもう、全て『風太』のものになった。
攻めの時は攻撃の起点となり、守りの時は守備の要になる。正式な11対11でやるサッカーではなく、フィールド上の人数はその半分ほどしかいないので、『風太』の出番は何度も回ってきた。しかし、その度に身軽な動きで華麗なプレーを見せ、前半戦の「地面の土巻き上げキック」のような失敗は、一度もなかった。
「よし! じゃあ次、どっちかのチームが1本決めたら終わりにしよう!」
ボールを持っている健也が人差し指を立て、全員に向けて叫んだ。両チームとも体力の底が見え始め、そろそろまともにゲームが続けられる状態ではなくなってきたので、妥当な判断だ。
残りの力を振り絞り、フィールドの少年たちは最後の気合いを入れた。
「風太、最後はお前が決めろ」
「おれが?」
「ああ。お前以外、みんな1本ずつシュートを決めてるんだよ」
「そうだったのか。夢中だったから、そんなの意識してなかったな」
「だから、最後はお前が決めてこい……よっ!」
「OK。任せとけ」
健也は『風太』にボールを渡すと、右前の空いているスペースに走り込み、敵を引きつけた。
これで、準備は整った。
「さあ、行こうか」
*
「ゲームセット!」
まぶしいくらいに太陽の光が照りつける、ベーコン川の河川敷グラウンド。
少年たちはサッカーの試合を終え、疲れた体を癒やすべく、敵味方関係なくワイワイとベンチへ向かった。
「結局、点数はいくつだったんだ?」
「知らねーよ。誰か、数えてたか?」
「とりあえず、翔真のシュートはノーカンな。あれは手に当たってたから」
「はぁ? どう見てもヘッドだろ。勘太、まだ立ちションの時のこと根に持ってるのか」
そのにぎやかな男子の集団の中心に、本日のMVPである健也がいた。
「あっははは、どうだ風太。おれだけ2本決めたぞ」
「最後はおれに決めさせてくれるんじゃなかったのかよ。健也」
「1本目のシュートを外したお前が悪い。おれはゴールポストからのこぼれ球を、拾っただけだ」
「あーあ、おれだけ得点ゼロか……」
「そんなに落ち込むなよ。そういえば、宙もお前と同じで、得点ゼロらしいぞ」
「あいつはゴールキーパーだろっ!」
「怒るなって。……ほら、前を見ろ。雪乃が水筒持って、こっちに走ってくるぞ」
「あ、本当だ」
「一言目は絶対こうだ。『風太くん、お疲れさまぁっ! このお水飲んでーっ!』」
「雪乃に殴られるぞ」
「今のは内緒な。……おい、風太以外のみんな! ベンチまで競争しようぜ!!」
「お、おいっ! そんなことしなくてもいいって……!」
健也は男子集団を引き連れ、その場に『風太』だけを置いて走り去った。
前方の雪乃は何事かと少しだけ驚いたが、男子集団が完全にベンチに辿りつくのを見届けると、気を取り直してこちらへ近づいてきた。
「ふーうーたーくん!」
健也が予想していた第一声とは、少し違った。
「雪乃……!」
「風太くん、約束は?」
「約束? なんのこと?」
「ふーん、とぼける気? 後半が始まる前に、わたしに約束したよね?」
決して、とぼけている訳ではない。
精神がまだ美晴だった時の約束なので、記憶が混乱しているのだ。
「あ……あれ……? いや、あれ? なんだ……これ?」
「もうっ、覚えてないわけないでしょっ!? カッコ良くシュート決めてくるって約束だよっ!」
「……!」
その一言で、『風太』の中の何かが、フッと途切れた。
(や、約束……。そうだ、あの時の……)
(あの時……? あの時のおれは……おれ? ……お、おれじゃない! じゃあ、何?)
(わたし……? そ、そうだ、『わたし』は……わたしはミハ……ル……)
(風太くんと、身体が入れ替わったんだっけ……? じゃあ、今わたしは……風太くん? 風太くんに、なったの? なれているの?)
日焼けした太い腕。筋肉が隆起した脚。膨らんでいない胸に、不思議な感覚がある股関。
身につけている衣服も全て、美晴の部屋のクローゼットにあるものではない。
(本当に……、あの人に……なったの……?)
前髪が視界を遮ることはなく、今ははっきりと、目の前の世界を見ている。見ることができている。
(わ、わたし……風太くんになったんだ……!)
雪乃に背を向けて、両手でペタペタと胸を触って確認をする。
女だった頃の身体についていた、勝手に目立つ存在になっていく柔らかい双丘は、今はない。その代わりに、堅くて頑丈な胸板が、しっかりと両手を押し返してきている。
「胸が、かたい……! ふくらんでないっ……!」
そう呟くと、今度は口を両手で押さえた。そして少しの間、その状態で固まった後、喜びを噛みしめながらゆっくりと両手を離した。
「あ、あー……あ、あ、あー……」
(風太くんの声だぁ……! わたし、風太くんの声でしゃべってるっ!)
そして、最後に確認するのは股関だ。
ハーフパンツ越しに、『風太』は自分の股間にあるはずのソレを、指で優しく撫でた。
「あっ、ある……! アレが、わたしのここにある……!」
さっきから後ろを向いてゴソゴソやっている『風太』の様子が気になって、雪乃はひょっこり顔を覗かせた。
「よかったぁ……! もう元に戻りたくないっ! この身体は、絶対に返さない!」
「ねぇ、風太くんっ! さっきから一体どうしたの?」
雪乃は、『風太』の前へと回り込んだ。
するとそこには、自分の股間を手で優しくさすりながら、喜びで顔を紅潮させて身悶えている『風太』の姿があった。
「って、風太くん何やってるの!!!?」
雪乃は拳を前に突き出した。
さっきとは違い、今度はしっかり「ガツン」とやることが出来た。
「ぶふっ……!」
鼻っ柱に「ガツン」とやられた『風太』は、鼻血を出しながら後ろに倒れた。




