一日の終わり
「ウソ……だろ……?」
それは、腹を押さえてうずくまっている蘇夜花のセリフではなく、パンチを喰らわせた『美晴の』のセリフだった。
溜まっていた鬱憤を晴らすような一撃だったにも関わらず、『美晴』の表情は、絶望一色だった。
「なんだ……!? なんだよ、それっ……!!」
「……」
『美晴』は痙攣する右手を押さえながら、ふらふらと歩き、先ほどのベンチに横たわった。そして、髪が乱れるのも気にせず身体を捩って、とてつもない痛みに耐えていた。呼吸は荒くなり、体温はどんどんあがっていく。
「はぁ……はぁ……くそっ……! どうなってるんだ……!? 今……何が起こった……!?」
確かに、蘇夜花の腹を殴った。
女の子を殴ることにまだ抵抗はあったが、風太の心と、美晴の身体が、もうそいつを許そうとしなかった。だから、二人分の怒りを込めて、今までのケンカの経験から最も撃ちやすい腹パンチを放った。ハズなのに……。
(なんだよ、今の感触はっ……!)
『美晴』が動揺している間に、蘇夜花はゆっくりと身体を起こし、膝に付いた砂を払い落としてから、『美晴』の方を向いた。
「なんだっけ? 美晴ちゃん」
「あぁ……!? 何が……!?」
「あなたがさっき言ってたこと」
「しっ、知るかよ……! いってぇな……! クソっ……!」
「そうだ。思い出した」
ベンチで倒れている『美晴』のそばに、蘇夜花が立っている。『美晴』は隣に立つ女の子を見上げ、蘇夜花はベンチに横たわる女の子を見下ろしている。
睨み合いが続いた後、先に口を開いたのは蘇夜花だった。
「『本、借りておいて良かったぜ』」
「え……?」
「美晴ちゃんが、さっき言ったセリフだね。そのまま使わせてもらったよ」
「なっ……!?」
蘇夜花は自分が着ている服の中に手を入れ、お腹からゴソゴソと一冊の本を取り出した。
本のタイトルは、「サムライわんことハチミツおばけ」。
(それは確か、おれが藤丸に読み聞かせた……)
そう、あの時の本だ。
ページ数はそれほど多くないが、絵本の中では大きい部類に入る。ちょうど、蘇夜花の腹部を隠せるほどの大きさだ。そしてその表紙には、木の板のように固い素材が使われている。
「サムライわんこシリーズ、好きなの。わたし」
「それを……腹に……入れてた……のか……!?」
「イェース。我ながらナイスアイデア」
「ふ、ふざけんなっ……! つまり……最初からっ……!」
「その通り! お腹のところに、ずっとこの本を入れてたの。すっごく不格好だったけど、気付かなかった?」
「そんな……バカなこと……」
「バカな罠にまんまと引っかかったのは、あなただよ。ミ・ハ・ル・ちゃん」
「うぅっ……!」
蘇夜花は、何のためらいもなくベンチに腰を降ろした。当然、ベンチではすでに『美晴』が横たわっているので、その上から座った。
抵抗などできる体力はなく、『美晴』は仰向けになって、お腹で蘇夜花の体重を支えた。
「ぐっ……! ど……どけっ……! 重いんだよ……!」
「まだそんな口が利けるんだね。可愛くない……ぞっ!」
『美晴』の悪態に対し、蘇夜花は反撃をした。
反撃と言っても、暴力をふるったわけではなく、身体の一部を軽く掴んだだけ。
「あっ……!?」
『美晴』の口から、少し高い声が出た。
腹の上に座っている女の手は、そばにある二つの膨らみに興味を持った。彼女の手は、まだそこに置かれている。
「美晴ちゃんのはおっきいね。クラスだと何番目くらいかな」
「なっ……! な……何してるんだっ……! お前っ……!!」
「口が悪い美晴ちゃんは好きじゃないって、さっき言ったよね? 直す気がないなら、もう一度やるけど」
「くっ……!」
「あなたらしい言葉、使える?」
「……」
「どうなの?」
「は……い……」
「それでいいの。じゃあ、色々と教えてあげる」
蘇夜花の手は、『美晴』の胸から『美晴』の前髪へと移った。
特に目的もなく指でその髪を弄りながら、蘇夜花は一方的に話を始めた。
「この前、あなたをボコボコにした界くんがね、言ってたんだ。『美晴に腹を一発殴られた』って」
「そしてさっき、美晴ちゃんがやっつけた男の子たちの中に、お腹を苦しそうに押さえてる子がいたの。ってことで、『美晴ちゃんが殴り合いのケンカをする時は、まずお腹を狙った攻撃をする可能性が高い』という推測をしたわけ」
「だからちょっと挑発して、美晴ちゃんをケンカモードにしたかったんだ。わたしのお腹にも、一発入れてくるかなって。結果は……まぁ、こうなったね」
「ただ、想定外だったのは、美晴ちゃんのパンチ力。絵本で防御してても、なかなか衝撃はあるんだね。怒りのパワーをナメてたよ、正直」
「でも、やっぱり暴力はダメだね。『先に手を出した方が負け』なんて、よく言ったものだよ。ほーら、痛いでしょ?」
蘇夜花は指を絡ませ、嫌がる『美晴』の右手を無理やり握った。
ビリビリという痺れにも似た激痛が、その手に走った。
「うっ……うあぁっ……!!」
「ふふっ。さっきのケンカで、すでにボロボロだったのにね」
「はぁ……はぁ……。なんで……さっきの……ケンカ……を……お前が……、あなたが……知ってる、ん……ですか……!?」
「おねえさん想いの女の子に、『心配だから様子を見てきて!』って、頼まれたんだよ。藤丸って名前の子」
「藤丸が……!?」
「うん。出会ったのは偶然だったけどね。あの子も、美晴ちゃんのように……遊び甲斐がありそうな子だったなぁ」
「あ、あの子は……関係ないだろっ……! 手を……出すなっ……!!」
「おー、とってもカッコいいセリフ。でも、立場を理解してる?」
「て……、手を出さないで……くださいっ……! お願い……しますっ……」
「あはは、冗談だよ。わたしの興味は、まだ美晴ちゃんにあるから、安心してね」
「……!」
『美晴』が睨んでも、腹の上の女は表情一つ変えなかった。
すました顔の蘇夜花は、先ほどまで防御に利用していた本を、自分のバッグに片づけようとしている。
「その……本……」
「これ? さっき図書館で借りたんだよ」
「今日……図書館に……いたんですか……?」
「いや、ずっといたわけじゃないけどね。帰りにちょっと寄っただけ」
「帰り……?」
「うん。ハトムネ湖からのね」
昨日、守利に連れられて『美晴』が訪れた、あの湖の名前だ。
「今日は、学級委員の五十鈴ちゃんたちと一緒に、湖岸清掃のボランティアに行ってたの」
「こ、湖岸清掃っ……!?」
「先生や自治体の方々と一緒に、湖に落ちてるゴミを集めたんだよ。偉いでしょ?」
「それも……大人から……信用されるため……か……?」
「わたしは常に、とっても良い子だからね。もしも、わたしのお腹を殴るような人がいるなら、それはとっても悪い人だから、いっぱい罰を与えなきゃだね」
そう言うと、蘇夜花は二度三度小さく跳ね、その弾みで勢いよく立ち上がった。
『美晴』の腹は何度も圧迫され、蘇夜花が立った後もずっしりとした痛みが響いていた。
「お……おぇっ……!」
「わたし、そろそろ帰るよ。じゃあね」
「くっ……!」
「また学校で会おうね」
「……」
「わたしのお腹を殴った分、ちゃんと償わせてあげる」
「……!!」
背筋が凍った。声は出ない。
蘇夜花は、瞳孔が開いたままの『美晴』を見てにっこりと笑うと、ポニーテールを跳ねさせながら暗い夜道へと消えていった。
*
図書館のそばの広場。
『美晴』はそこに、一人取り残されていた。
羽虫が群がる街灯の光が、ベンチで倒れている『美晴』を照らしている。
『美晴』は小さく呼吸をしながら、閉じかかった瞳で満天の星空を眺めていた。身体は錆び付いたように動かず、長い髪だけが風に揺れて動いている。
「美晴っ……!!」
誰かが、名前を呼んだ。
「美晴、どうしたの!? 大丈夫っ!?」
身体を揺すられている。
『美晴』はぼんやりとした表情で、その声の主を辿った。
「美晴の……おかあ……さん……?」
風太のお母さんではなく、美晴のお母さんだ。
仕事から帰ってそのまま飛び出して来たのだろうか、彼女のレディーススーツは少し乱れていた。
「美晴っ……!」
「お母さん……」
美晴のお母さんは娘の身体を支え、慎重にベンチに座らせた。そして、全身の力が抜けきった娘の服装を整え、後髪を優しく撫でた。
(おれを……迎えに来てくれたんだ……。やっぱり、美晴のお母さんは優しいな……)
『美晴』はおデコの傷を見られないように前髪を下ろしながら、お母さんの顔を見上げた。
「大丈夫……。ちょっと……疲れて……眠ってただけ……だから……」
「良かった……! 何か事件に巻き込まれたわけじゃなくてっ」
「心配……かけて……ごめんなさい……」
「まずはお家でゆっくり休みましょう。立てる? なんともない?」
「う……うん……!」
立てない。
本当は全身ズタボロで立てないが、これ以上心配をかけたくないという気持ちと、男として甘えるわけにはいかないという意地で、根性を出した。
「本は私が持っていくわ。ほら、美晴」
「え……?」
お母さんは、立ち上がった『美晴』の正面でしゃがんだ。そして、手提げ袋を持っていない方の手を、スッと差し伸べてきた。
「こちらこそごめんなさい。美晴のこと、いつも見てあげられなくて」
「……!」
『美晴』は震える右手を、お母さんの手のひらの上に乗せた。
すると、不思議と痛みは消え、それと共に不安や恐怖、そして今日一日で抱えこんだ悩みや考え事が、ふわりと消えてなくなった。この時のやすらぎは、昨日守利からもらった安心感にとてもよく似ていた。
「私の手、冷たい?」
「ううん……。あったかい……」
「いつか必ず、あなたと二人きりで過ごせる時間を作るから。もう少しだけ待っていてくれる……?」
「うん……。分かった……」
母と娘。
二人で手をつないで、月明かりに照らされた帰り道を歩いた。




