お姉ちゃんのケンカ
「うわあぁーーーんっ!!」
藤丸は、『美晴』の腕の中で泣いた。
「いいよ……。涙……全部出して……」
『美晴』は今だけ一旦「強くてカッコいい男」を引っ込め、「母性溢れる優しい女」の力を、存分に発揮した。
ぎゅっと強く抱きしめると、身体は密着し、幼い子特有の高い体温が伝わってくる。しかし、『美晴』はもう、膝の上で絵本を読み聞かせた時のような変なドキドキを、感じていなかった。
「まるっ、まるはっ、うわぁぁーーーん!!」
「うん……。藤丸ちゃんは……強い子だね……」
『美晴』は右手で、藤丸の後頭部を優しく撫でた。
『美晴』が着ている白いブラウスは、藤丸の涙と鼻水でぐしょぐしょになってしまったが、それでも『美晴』は彼女を放さなかったし、彼女も『美晴』から離れなかった。
「まる、おともだちにいじわるするこが、ゆるせなくって……! ひぐっ……」
「言わなくても……大丈夫……。やっつけたんだね……。すごいよ……」
「まる、もっとつよくならなきゃって、おもって……! ぐすんっ……!」
「もうすぐ……お姉ちゃん……だもんね……」
「うんっ! ママがおうちにいなくても、パパがおしごとでいそがしくてもっ、おねえちゃんだからがまんしなきゃ、って」
「そっか……。寂しかったんだ……」
「うぅっ、ひぐっ、うわあああぁーーーん」
『美晴』は藤丸の気持ちが落ち着くまで、そのまま抱擁し続けた。
暖かな日の光は抱き合う二人を照らし、穏やかな風は二人の髪を優しく揺らしていた。
*
三度目の入館。
『美晴』と藤丸の二人は、笑顔で手を繋ぎながら、市立図書館へと戻ってきた。入り口で本の整理をしていた司書のおばさんも、それを見てニッコリと微笑んでいる。
二人で本を選び、二人で本を運び、そして二人で本を読む。『美晴』は少し緊張しながらも、藤丸を自分の膝の上に乗せて、読み聞かせをした。登場人物に感情移入をし、美晴の声で本の中のキャラクターを一生懸命演じた。
ようやく一冊読み終わると、最後まで楽しそうに聞いていた藤丸は、小さな手のひらでぱちぱちと拍手をしてくれた。
「ふぅ……」
「みはるねえさん、すっごくおもしろかったですっ!」
「へへっ……。そうか……?」
「そうですよっ! まる、おはなしにむちゅうになっちゃいました!」
「それなら……よかった……」
「それじゃあ、つぎのえほんは、なににしますか? まるがよみたいえほん、もってきてもいい?」
「あのっ……! 藤丸……ちゃん……! その前に……!」
「は、はいっ! なんですか?」
「さっきの……クセの……ことなんだけど……」
「……!」
『美晴』は自分なりに導き出した答えを、藤丸に伝えることにした。
「えっと……、やるときは……清潔にしてから……ね?」
「えっ?」
「トイレとかだと……手のばい菌が……口に入ると……いけないから……ね。これだけは……約束してくれ……」
「そ、それだけ?」
「うん……。無理に……やめようと……しなくても……いいよ……」
「いいんですかっ!?」
「あっ、あと……おれが……手を握ろうとした……時は……、ちゃんと……握り返して……くれると……嬉しい……かな……。もちろん……その……右手で……ね?」
「わかりましたっ!」
いい返事をした藤丸の頭を、二度三度撫でてやると、彼女は白い歯を見せて明るく笑った。
(5歳にしてはしっかりしてるよ、藤丸は。きっと、立派なお姉ちゃんになってほしくて、両親がいろんなことを教えたんだろうな。藤丸もその期待が分かってて……両親を困らせたり甘えすぎたりしないようにしてるんだな)
藤丸はまた絵本を持ってきて、『美晴』のスカートの上に座った。
*
入れ替わってから六日目の夕方が来た。
市立図書館の背の高い本棚を、夕陽が眩しく照らし、細長い影を作っている。
二瀬風太という少年は、あまり読書をしない。だから、今日は本を借りるつもりはなかった。
しかし『美晴』は、適当に5冊選んで貸し出し手続きを済ませ、手提げ袋に入れた。
「ほ、ほら……! 本……借りたよ……!」
「まるも、かりてきましたっ!」
「い……いつもの……美晴……でしょ? わたし……美晴……でしょ……?」
「はいっ! さいしょに、ほんをかりずに、でていこうとしたときは、びっくりしましたっ! みはるねえさんの、にせものかとおもいましたっ!」
「ははは……。美晴の偽物……というか……本物の風太……なんだけど……な……」
「?」
二人は返却カウンターのおばさんに軽くあいさつをして、図書館の外に出た。
そして、『美晴』が最初に藤丸に出会った場所を通り過ぎ、さっきクレープを食べた噴水広場まで戻って来た。
「はぁ……。今日も……とっても……疲れた……気がする……」
「そうですか? まるは、まだまだげんきいっぱいっ!」
「……」
「あっ!! そういえば、きょうはもってきてないの?」
「何を……?」
「あのほんですよ。みはるねえさんがいつももってる……」
「あの本……?」
「たしか、なまえは……『わん ふんどれど のーと』だっけ?」
「……!」
この語感。そして「ふんどれど」という単語。なんとなく、薄ぼんやりと聞き覚えがある名前だ。
『美晴』は、脳内の記憶の中から「ふんどれど」を検索した。すると……。
「あっ……! 『おね ふんどれど のて』……だ……!」
「えっ? そんななまえだっけ?」
「いや、ローマ字だと……この名前で……本当は……きっと……英語……なんだよ……!」
「えいご? ろーまじ?」
「もう一回……名前を……言ってくれ……!」
「ふじまる……」
「違う……! 本の……名前だ……!」
「わ、わん ふんどれど のーと……」
「そう……それだっ……! 『のーと』、つまり……ノートだったんだ……!」
美晴と初めて出会ったあの時、そいつが持っていた本だ。詳しくは分からないが、不思議と自分に無関係なものだとは思えず、直感や本能がバチバチと反応した。
「ふ、藤丸ちゃんっ……! そのノートについて……何か知ってる……!?」
「えぇっ!? そんなっ、まるにきかれてもっ!」
「そ、そうか……。そうだよな……」
「でも、あの『のーと』は、すっごくたいせつなもの、なんだよね?」
「大切な物……? なんで……?」
「だって、みはるねえさん、あの『のーと』をずーっと、もってましたし。どこへいっても、ずーっと」
「……!」
身体が入れ替わってから、『風太』がそのノートを持っているところを、『美晴』は見たことがない。やはり、それが何か関係しているのだろう。
そして、藤丸の口から出た情報から察すると、『風太』は確実にそのノートについて知っている。
(ノートについて、もっと情報がほしい……!)
しかし、まずは貴重な情報をくれた女の子に、お礼を言わねばならない。
「とにかく……ありがとう……!」
「は、はい。どういたしまして」
「じゃあ、またね……藤丸ちゃん……。一人で……帰れるんだっけ……?」
「はいっ! まるのおうちは、すぐちかくにありますからっ!」
「そう……。それなら……改めて……さよなら……藤丸ちゃん」
「さようならっ! みはるねえさんっ!」
藤丸がぴょこぴょこと遠くへ駆けていく様子を、手を振って見送ると、『美晴』はくるりと方向を変え、図書館がある方を向いた。
(もうすぐ閉館時間か……! 図書館が閉まるまでの残り時間で、『ノート』について何か調べてみよう……!)
少しばかりの希望を胸に抱いて、沈みゆく夕陽に背を向け、『美晴』は歩き出した。
*
しかし、誰もいない噴水広場のそばの小道で、事件は起こっていた。ちょうどそこは、藤丸の帰路になっている道だ。
「きゃあっ!!」
藤丸は男の子5人に囲まれ、その中でも一番大きな坊主頭の少年に、ドンッと突き飛ばされた。一番大きいと言っても、6年生男子の風太ほどではないが、『美晴』とは同じぐらいで、園児の藤丸よりは遥かに背が高い。おそらく、小学4年生ぐらいだろうか。
「おらっ! 立てよ、ワカメ女っ!」
「い、いたいっ!」
「得意の剣で勝負してみろよ、ほら」
「いわれなくてもっ……!」
藤丸は腰の剣を抜き、その少年に斬りかかった。
しかし少年は、少しもひるむことなく剣先をガシッと掴むと、藤丸の唯一の武器をあっさり奪った。
「あぁっ! かえしてぇっ!!」
「なんだよ。もうおしまいか?」
少年は奪った剣を右手に持ち、まとわりつく藤丸の手が届かない高さまで持ち上げた。
そして二人の周りでは、さっき藤丸がやっつけたはずのカモシカくんとトナカイくんがはしゃいでいる。
「やっちゃえ、ライノスくんっ!」
「あかちゃんおんなを、やっつけちゃえっ!」
さらに、カモシカくんとトナカイくんの後ろでは、小学三年生ぐらいの男の子二人が騒ぎ立てている。
「ライノス、おれたちにも遊ばせろよ」
「へへっ、たいしたことないじゃん。こいつ」
彼らはそう言うと、武器を取り返そうとジャンプしている藤丸に、蹴りを一発ずつ入れた。
「あうっ……!!」
藤丸は1メートルほど吹っ飛び、砂だらけの地面にドシンと尻もちをついた。
着地した後は、蹴られたお腹を押さえながら、苦しそうに呼吸をしている。
「はぁ……はぁ……」
「よく覚えておけよ。鯖野岡ジェノサイドアニマルズに手ぇ出したら酷い目に遭うってことを」
「うっ、うぅっ……うぁ……」
「なんだ、もう泣くのか。弱っちい女のくせに、おれたちにケンカを売ってくるんじゃねぇよ」
「……っ!!」
弱っちい女。
その言葉が、藤丸の中にあるスイッチを押した。
「あっ、ははっ……!」
「なんだ? 急に笑いだして。頭がおかしくなったのか?」
「おねえちゃん……だもんっ……!」
「は?」
「まる、つよいおねえちゃんに、なるんだもんっ……! だから、なかないっ!!」
「ふじまるおねえちゃん」は、地面を強く蹴って立ち上がり、その勢いのままライノスと呼ばれている坊主頭の少年に向かって、全身で特攻していった。
非常に勢いのあるタックルだ。が……。
「ふんっ!!」
ガツンッ。
「あぁっ……」
一撃だった。ライノスくんの大きなゲンコツが、突っ込んできた藤丸の脳天にクリーンヒットした。藤丸は膝から崩れ落ち、その場にドサリとうつ伏せで倒れた。
逆転劇などなかった。藤丸は、最後の気合いで逆転を信じたが、そんな都合のいい話はなかったのだ。
「……!」
「ケッ。雑魚が」
敗者の頭の上に、勝者の右足が容赦なく置かれた。
藤丸は必死に涙をこらえようとしたが、瞳からは勝手にボロボロと溢れだしてしまい、声をあげないように歯を食いしばるのが精いっぱいだった。
アニマルズの少年たちは、その惨めな姿を見て笑った。
「ほらよ。終わったぞ、カモシカ」
「うん! さんきゅうライノスくんっ! すかっとしたよ」
「こいつが持っていた剣は、どうする?」
「おれにかしてっ! べきべきにして、もうつかえないようにしとくから」
カモシカくんは、ライノスくんから新聞紙の剣を受け取ると、腕力を使ってへし曲げようとした。
しかし、思ったより頑丈でうまく曲がらない。
「あれっ? かたいなぁ。もういっぱ」
ひゅるるる……ゴンッ!!
セリフを言い終わらないうちに、どこからともなく運動靴が飛んできて、カモシカくんの顔面に命中した。
「ぐえっ!?」
剣をポトリと手から落とし、カモシカくんはその場に倒れた。
「な、なんだ!? どうしたカモシ」
ひゅるるる……ゴンッ!!
今度は、カモシカくんに駆け寄ったトナカイくんに、またスニーカーが直撃した。先ほどのは右足で、今度のは左足。
二人の男子園児と、一足のスニーカーと、一本の新聞紙ソードが、地面に散らばっている。
「なんだなんだ? この靴が飛んできたのか?」
坊主頭のライノスくんと残り二人の少年は、きょろきょろと辺りを見回して、その“砲台”を探した。
すると、そのうちの一人の少年が、こちらに迫り来る殺気に気がついた。
「おいっ! あれ、見ろ……!」
それは、髪の長い少女だった。
両手に握り拳を作ったその少女が、こちらに向かって歩いてくる。
「やばいよっ! 見られちゃったぞ!」「どうしよう。ワカメ女の知り合いかな、あいつ」
「バカ。ビビるなよ二人とも。あの女もやっちまえばいいだろ」
歩みは思いのほか速く、少年たちがヒソヒソ話している間に、少女はすぐ目の前まで来ていた。
そして少女は立ち止まり、静かに言った。
「おい……。坊主頭……」
「あ? なんだよ」
「 ど け 」
「あわわわっ、あっ、ぁぁ……!!」
威圧感。ライノスくんは、ガクガクと震える右足を藤丸の頭からどかし、二歩三歩後ろへと下がった。
少女は横たわる藤丸を抱き起こし、髪や服についた砂をパンパンと払った。
「みはる……ねえさん……? まるを、たすけにきてくれたの……?」
「よく戦ったな……お姉ちゃん……。偉いぞ……」
「えへへ……」
「広場のベンチで……待っててくれ……。あいつらに……やられた分は……、ちゃんと……やり返してやる……から……」
「うん……」
藤丸は、頑丈な新聞紙の剣を拾い上げ、それを杖にしながら、ふらふらと広場へ歩いて行った。「みはるねえさん」はそれを見届けると、足元に転がっているスニーカーをゴソゴソと履いた。
この場には、目付きが変わった少女と、三人の少年が残された。
「なんだよ、おまえっ! あいつの姉ちゃんか?」
「じゃあ……それでいい……」
「は……?」
「風太でも……美晴でも……みはるねえさんでも……。今は……なんでもいい……」
名も無き少女は、ブラウスの袖を捲った。
戦闘の準備は万端。さっきまでいた、「母性溢れる優しい美晴」は死んだ。少女の中に残っているのは、踏み込んだままブッ壊れたアクセルペダルだけ。
「来いよ……。おれが相手だ」




