鯖野岡ジェノサイドアニマルズ
「なんだ……これ……!?」
親指を強く吸う幼児にできる「指だこ」。おしゃぶり癖が治らない藤丸の小さな指にも、それはしっかりとできていた。
「5さいになってもぜんぜんなおらないから、ママもこまってて……。だからさいきんは、ママのまえでやったら、すごくおこられるんです」
「……」
「でも、やめられなくてっ! いまは、といれとかのだれもみてないところで、かくれてやっちゃう……」
「そ、そうなんだ……」
「まる、おかしいですかっ!? おかしくなっちゃったんですか!? みはるねえさんは、5さいでもしてませんでしたかっ!? おしゃぶりっ!」
「し、しないよっ……!」
『美晴』は強く否定したが、それが藤丸にとってはショックだったようだ。
「やっぱり、まる、へんなんだ……。まるだけ、あかちゃん……」
「が……ガマンは……できない……の……?」
「わかってるんですっ! おねえちゃんになるまでに、やめなきゃって」
「お、お姉ちゃん……? 何の話……?」
「で、でも、どうしても、がまんできなくなっちゃうのっ!」
「……」
「みはるねえさんっ! これ、どうしたらやめられますか?」
「う、うーん……。ちょっと……待ってて……」
『美晴』は藤丸を広場のベンチに残し、一人で図書館へと戻った。
*
静かに賑わう、昼下がりの市立図書館。
『美晴』は入り口付近にある返却カウンターの前を通り、さっきまで二人で本を読んでいた場所「こどものひろば」に戻ってきた。そして靴を脱ぎ、プレイマットに腰を降ろして、あの本を探した。
(よかった……! まだあったのか、「からだのひみつ大百科」)
人体に関することが事細かに載っている、万能な大百科だ。しかも病気や癖、成長に伴う身体の異変なども詳しく記載されている。
『美晴』はペラペラとページをめくり、幼児の成長に関する項目を開いた。
(いや、でも……藤丸のあれのことなんて、載ってるのか?)
少し不安になった『美晴』だったが、さすがは「からだのひみつ大百科」。藤丸の行為についてもしっかりと載っていた。
(あった! これだ……!)
大百科の「しっかりママの子育て相談室」のコーナーには、こう書かれていた。
(「指をしゃぶる癖」……! 現状に不満があったり、寂しさを感じていたりする子供によく見られる行為であるが、3歳くらいまではごく普通のこと。しかし、5~6歳を過ぎる頃まで続くようなら、注意が必要。対処法としては、やめさせようとして、叱りつけるのは逆効果になる可能性があるので……)
破れている。
肝心な部分が、キレイに破れてしまっている。
「お、おいっ……! ウソ……だろ……!? 対処法は……!?」
どんなに探しても、ページの切れ端はどこにも見当たらない。
ないものはない。ので、『美晴』は仕方なく……やつあたりの気持ちを込めて、大百科をガコンッと乱暴に本棚に押し込んだ。
「こらっ!! 図書館の本は大事に扱いなさ……あれ、美晴ちゃん?」
「げっ……! さっきの……おばさんっ……!?」
さっき返却カウンターにいた司書おばさんが、ぬっと現れた。
どうやら、今の『美晴』の行いに対して怒っているようだ。
「あのねぇ。いくら美晴ちゃんでも、本を乱暴に扱うのは……」
「おばさんっ……! お願いしますっ……!」
「えっ?」
「藤丸ちゃんの……家庭の事情……について……、教えて……くださいっ……! 藤丸ちゃんが……寂しさを……感じてる……理由……とか……!」
「は、はぁ? もしかして美晴ちゃん、知らないの?」
「何を……ですか……?」
「あの子のお母さん、今病院にいるのよ。子どもが産まれるから」
「……!!」
(そうか! 藤丸は、もうすぐお姉ちゃんになるんだ……!)
藤丸という女の子の、“背景”が、やっと見えてきた。
長くなりそうなおばさんの話を軽く聞き流しながら、『美晴』は藤丸のいる広場へと戻るタイミングをうかがった。
*
一方、噴水広場では、藤丸が独りで寂しくベンチに座っていた。
指を咥えたくなる気持ちをガマンしながら、「みはるねえさん」の帰りを待っていると、そこへ小さな男の子が二人やってきた。
「あ、ふじまるだ!」
「ほんとだ! あかちゃんおんなの、ふじまるだ!」
藤丸は、その二人が誰だか知っていた。
「カモシカくんと、トナカイくん……!」
登場したのは、「鯖野岡ジェノサイドアニマルズ」のメンバーである二人だった。
「鯖野岡ジェノサイドアニマルズ」とは、鯖野岡小学校(隣の地区の小学校)の悪ガキたちが集まっている不良チームの名前で、今や保育園児や幼稚園児なども所属している一大組織となっている。
カモシカくんとトナカイくんは、藤丸と同じフズリナ保育園に通っている男子園児だ。
「おまえ、あのときはよくもやってくれたなっ!」
「あのとき?」
「とぼけんなよっ! おれたちを、すべりだいからつきおとしやがって!」
「あれは、カモシカくんたちが、せあらちゃんにいじわるしたからでしょ? じゅんばんぬかし」
「いや、あれはせあらがのろまだったのがわるいんだよ……!」
「むっ! せあらちゃんのわるぐちは、ゆるさないからっ!」
「な、なんだとぉ!? おい、トナカイ。『きのぼう』もってこい『きのぼう』」
カモシカくんにそう言われたトナカイくんは、広場の草むらの辺りを探し回り、固くて太い『木の棒』を二本拾ってきた。そして、彼らは一本ずつ装備し、身体の前に構えた。
「おらっ! きょうこそやっつけてやる!」
「いいよ。まる、まけないもん」
藤丸は、腰に提げた新聞紙の剣を静かに抜いた。
*
案の定、おばさんのどうでもいい身内の話にまで付き合わされ、『美晴』は今やっと広場まで戻ってきた。
(こうなったら、藤丸にもアレをやるしかないか……)
対処法は見つからなかったので、どうやら奥の手を使うしかなさそうだ。『美晴』は、自分なりに藤丸にしてやれることを考えながら、その子が待つベンチを目指した。
すると、道中……。
「くそっ! おぼえてろよ、ふじまるのばかうんちやろうっ!」
と言いながら、駆けていく男の子たちとすれ違った。よく見ると、頭に一つずつたんこぶを作りながら、泣きそうな声で捨て台詞を吐いている。
(えっ!? 藤丸の身に、何かあったのか!?)
少し心配になりながら、藤丸が待っているはずのベンチへ近づくと……いた。藤丸はベンチに座っておらず、新聞紙の剣を右手に持ったまま、こちらに背を向けて立っていた。
足元には、へし折れた木の棒が二本転がっている。
「藤丸……ちゃん……?」
「!!」
振り向いた藤丸のほっぺたには、痛々しい擦り傷があった。服装も先ほどとは違い、ヨレヨレに乱れている。どこからどう見ても、一悶着あった後だ。
「み、みはるねえさんっ!?」
「どうしたの……? その……傷……」
「……!」
その子は、言葉に詰まっていた。
おそらく、ケンカという行為があまり褒められたものじゃないと、分かっているのだろう。ママやパパや先生から怒られるようなことを、「みはるねえさん」の目の前でやってしまったら、きっと嫌われるに違いない……と、思い込んでいるのだろう。
『美晴』は、そんな彼女を少しだけ試した。
「転んだの……?」
「えっ……?」
「転んで……できた……傷なの……? それは……」
「そ、そうなんですっ! まる、どじだから、その……」
予想通り、『美晴』の誘導に従ってウソをついた。
藤丸は、さっきの男の子たちとケンカしたことを隠している。
「はぁ……」
「こ、ころんじゃったんです。あ、あはは」
「ウソ……ついてる……だろ……。お前……」
「えぇっ!?」
途端に、藤丸の眉はハの字になり、瞳は潤みだした。
ひどく取り乱し、必死に何か言い訳をしようとしている。
「えと、えっと、これはっ! あっちから、しかけてきてっ……!」
「藤丸……ちゃん……」
「やられたから、やりかえしただけっ! まる、ひとりだったし!」
「藤丸……ちゃん……!!」
「は、はいっ!?」
『美晴』はため息をつき、覚悟を決めた。そして、自分が出せる中で最も甘くて優しい声を、喉の奥から引っ張り出した。
「おいで……」
「えっ? な、なんですか? そのぽーずっ」
動揺する藤丸をよそに、『美晴』はその場に両膝を突いて、左右の腕をバッと広げた。
(美晴の……「なけなしの母性フルパワー」、か……)
二瀬守利。風太の母親。おせっかい焼きの、いい年したおばさん。
その人に抱きしめられて感じた愛を思い出しながら、『美晴』は言葉を続けた。
「ケンカ……、強いんだね……。藤丸ちゃんは……」
「えっ? えっ、ええっ?」
「すごいね……。よく……頑張ったね……」
「み、みはるっ、ねえさっ、うぅ……うわぁあああああんっ!!」
かなりの勢いで抱きついてくる藤丸を、『美晴』はなけなしの母性でしっかりと受け止めた。「泣いている子には、たくさんの愛で包んであげなさい」という、母の教えの通りに。




