あの人の声
キンコーン。
チャイムが鳴り終わり、女子トイレ内にはぴとぴとと、蛇口から水滴が落ちる音だけが残った。
少年は、恐る恐る鏡の前に立ち、もう一度今の自分の顔を確認した。
「わたし……?」
運動をするために、邪魔にならない長さに切られた髪。
傷痕のないおデコ。
気の強そうな眉。
真っ直ぐな瞳と、少しだけ開いた口。
……顔だけじゃなく、身体も。
男らしくがっしりとしていて、少し日焼けした腕と脚。
目立ってほしくないのに、勝手に目立つ存在になっていく胸の膨らみは、この身体にはない。その代わりに、頑丈そうな胸板がある。
両脚の付け根の辺り。股の間には、何かが触れている。
そんな不思議な肉体を、一生袖を通すことなどなかったであろう男子の体操服が包んでいる。
「風太……くん……?」
少し低い「男子の声」が、口から出た。
思わず両手で口を塞ぐ。すると、鏡の中の男子も口を塞いだ。
(これは……何? この状況は何?)
現実的じゃない。
(じゃあ、これは夢?)
夢にしても、あまりに出来すぎている。自分にとって都合が良すぎる……気がした。
(だって、そんな、つまりっ……! わたしが風太くんになってるなんて……!)
戸木田美晴。
二瀬風太と身体が入れ替わった、その相手だ。さっきぶつかった時以外に、二人にまともな面識はない。
「風太……くん……」
美晴はいつも、風太を見ていた。図書室の窓から、グラウンドでドッジボールやサッカーをしている姿を眺めていた。風太に自分の憧れを重ねて、風太の全てをずっと観察していた。
「どうしてわたしが、あの風太くんに……」
原因究明。しかし、思い当たる節はない。どうしてこうなったのかは、さっぱり分からない。
「あっ……!」
突然、美晴は何かに気が付いて、自分の首に触れた。そして、ペタペタとしつこいくらいに触った。
「あ、ああっ、わっわた! わた、あっ!」
喉が震えて、口から音が出ている。
「わ、わと! わた、し、しゃべってるっ!?」
美晴は今まで、上手く言葉を話すことができなかった。それは本来の美晴の身体に、「絞まり」があったからだ。しかし、今は風太の身体を使っているので、その「絞まり」はない。
「わ、わたしが、思ったことをっ! す、好きなことを、しゃべってるのっ!? な、なにこれぇっ!?」
頭に浮かんだことが、すぐに口に出せる。流暢にハッキリと、言葉を話せる。誰しもが普通にやっていることだが、今まで美晴にはできなかったことだ。
「あ、わわっ! な、何か、しゃべってみようっ!」
「で、でもこれは、風太くんの声だからっ、勝手に変なこと、い、言っちゃダメだしっ」
「あぁっ、どうしよう。こ、声が大きくなってるっ!! もっと小さくっ、抑えないとっ!!!」
頭に浮かんだことが、口からポロポロとこぼれ出る。音量の調整も、なかなか上手くいかない。さっきからこの女子トイレ内に、男子の独り言が響き渡っている。
「ぐっ……!」
美晴は唇を噛んで、無理やり口の動きを止めた。
このままだと、大声に気付いて誰かが来てしまう。とりあえず気持ちを落ち着かせようと、胸に手を当て、すぅはぁと深呼吸。
「ふぅ……」
この声で、言ってほしかった言葉がある。
風太に、ずっと呼んでほしかった名前がある。
(そんなの、反則だって分かってる……。分かってるけど、風太くんの声を、もし自由に使っていいのなら……)
「みっ……」
(言いたい。言わせてほしい……!)
「みは……る……」
(震えてるっ……。もっと、ハッキリと言いたいっ!)
「美晴っ……!」
ただ一言、名前を呼んだ。
(言えた……! わたしの名前っ! 風太くんの声でっ!)
震える右手で、唇に触れる。
鏡の中の男の子は、自分の発した言葉に驚き、とても静かに女々しく泣いていた。
「わ、あぁっ!? と、止めないとっ!」
あわてて、涙を拭う。すると、それ以上の涙は出てこなくなった。
元の身体なら、きっと涙を止められなくてボロボロ泣いていただろう。女子と比べると、男子の涙腺は強いのかもしれない。
「美晴……」
そしてもう一度、美晴は自分の名前を呼んだ。
*
キンコーン。放課後のチャイムが鳴った。
これより、高学年の下校時間となり、校舎内は騒がしくにぎわう。
女子トイレ内にいる美晴は、そこを出ることを考えていた。男子になってしまった以上、このまま女子トイレにいると、余計な混乱を招いてしまう。
「とりあえず、保健室のベッドに戻った方がいいよね……?」
美晴は女子トイレから首だけを出し、左右を確認した後、小走りで保健室へと戻った。どうやら校医の先生はどこかに行っているらしく、今は誰もいない。
「今のうちに……」
ホッと胸を撫で下ろし、美晴は自分が帰るべきベッドを探した。確か、三つ並んでいるうちの一番奥のベッドだったハズだ。
「あれ?」
ふと、美晴は立ち止まった。
一番手前のベッドで、誰かが眠っている。そこは、さっきまでは空いていた場所だ。
不思議な興味に惹かれて、美晴はそのベッドへと近づいた。すると、眠っている人物の容姿が、だんだんハッキリと見えてきた。
「女の子……?」
女子だ。長い、黒髪の。
その女子は体操服を着たまま、ベッドでぐっすりと眠っている。
(えっ!? まさか、この子って……!)
美晴はそのベッドのカーテンをサッと閉め、眠っている女の子と二人きりの空間を作った。
*
カーテンが勢いよく閉まる音で、風太は目を覚ました。
どれくらいの時間眠っていたかは分からないが、寝起きの気分はそれほど悪くない。
(白い天井だ……。保健室だっけ? ここは)
夢だと思っていた。さっきまでの出来事は、変な夢を見ていただけだと、そう思いたかった。
「……」
髪。目にかかる、すごく邪魔な前髪。顔の横にも、首の後ろにも長い髪がある。頭のてっぺんから、引っ張られている感覚がある。
そして身体を見降ろすと、胸のあたりでしっかりと主張している二つの膨らみが、布団に優しく覆われている。こんなものは、本来の男子の身体にはない。
眠る前と比べて、何も変わってない。
風太は、『美晴』という謎の女子の姿になったままだった。
(どうする? もう一回寝るか? 寝て起きて、この姿になったんだから、元の姿に戻るまで寝て起きるしかないのか? この身体じゃどこにも行けないし、やっぱり寝るしかないのかな……)
『美晴』は諦め、また目を閉じようとして、すぐにやめた。
「……!?」
誰かいる。『美晴』が寝ているベッドの横に、誰かが立っている。
カーテンを閉めたのは、きっとこいつだ。『美晴』はそう確信し、目を凝らした。向こう側からも顔を近づけてきたので、徐々《じょじょ》にピントが、その人物に合っていく。
そして、理解した瞬間、『美晴』の中に残っていた眠気は完全に消し飛んだ。
(なんで……!? なんでいるんだよ、そこにっ!!)
かつての自分が、『二瀬風太』が、そこにいた。