やっぱり家のベッドが一番
「春日井」の家から三つ隣の家の前で、一行を乗せた車は停まった。
「二瀬」の家。つまり、ここは風太の家だ。
「ただいま……! じゃなくて……お邪魔……します……」
久々の帰宅だが、残念ながら今の風太にとっては自宅ではないので、きちんとあいさつをする。
「ミハちゃん、お買い物袋は預かっておいてあげるわ。フウくんと二階で遊んできなさい」
守利はそう言うと、『美晴』が持っているエコバッグを受け取り、自分を見上げる少女に向かってウインクをした。
「お、おれの部屋に行こうよ。美晴っ」
「ん……? うん……」
『風太』が、本来なら「おれの部屋」ではない場所を「おれの部屋」と呼ぶことに少し引っかかりながら、『美晴』は階段を昇った。
*
(帰ってきた……! おれ、帰ってきたんだっ!)
数日ぶりに自分の部屋に戻った『美晴』は、まず一番にベッドに向かって身を投げた。ドスンと勢いよく飛び乗ったので身体が少しバウンドし、長い髪がふわりと広がった。
「んーっ……!」
目を閉じて、大きく伸びをする。
まだ入れ替わってから一週間も経っていないのに、何年ぶりかに帰って来た場所のような、懐かしい気持ちになっていた。美晴の部屋のベッドと、本来の自分の部屋のベッドでは、やはり安心感が違う。
「ふぅ……。いろいろ……あって……疲れたなぁ……」
うつ伏せに寝返りを打って、青い枕に顔を埋める。そしてさらに、すぅはぁと一呼吸。
すると、張っていた気が抜け、心に暖かい風が吹き、安らぎと解放感が全身を包んだ。胸を締め付けているブラジャーさえも外してしまいたくなるような、そんな気分になった。もうこのまま、ぐっすりと眠っても……。
「あ、あのっ! 風太くんっ」
それを見ていた『風太』が、申し訳なさそうに言った。
「あの、気持ちは分かりますけどっ、そこはわたしも寝る場所なので、その……」
その言葉で、フワフワしていた『美晴』の心は地面に落ち、現実に引き戻された。
「あっ!? ち、違うっ……!! 違うんだっ……!!」
枕から顔をガバッと外して、急いで身体を起こし、『美晴』はベッドに座った。『風太』も寝る場所だということを意識すればするほど、顔は赤くなり、心臓がドキドキしてしまう。
そんな『美晴』の隣に、同じような状態になった『風太』が、そっと座った。
「こ、これは……おれの……ベッド……! だから……な……!」
「そ、そうです。その通り、です、けどっ」
「分かってるっ……! お前の……言いたい……ことも………分かってる……よ……! ごめんな……! はしゃいだり……して……!」
「い、いえっ! 怒ってはいない、です、けどっ」
互いになんだか気まずくなって、ソワソワしたままの時間が生まれた。
*
沈黙の間、『美晴』は改めて自分の部屋を見渡した。
「……」
青いカーペット、棚の上の金色ドラゴン、壁に吊るされたサッカーボールとバスケットボールの房。部屋の中は全てそのままで、『風太』がどこかを勝手に弄った形跡はほとんどない。
「お前……」
「は、はいっ」
「おれの……部屋で……、何やって……過ごしてるんだ……?」
「えっと、その、マンガや児童書を読んだりしてますっ」
そう言うと、『風太』は本棚を指さした。
確かに、その辺りだけは誰かが本を取り出した形跡がある。
「本……なんて……面白いの……か……?」
「はいっ。書籍は何でも好きなので、風太くんの部屋にある本も楽しく読んでますっ」
「ふーん……。どの本が……面白かった……?」
「そうですね……。『ラクーン三郎の冒険』とか、『ビスケット一代記』とか、面白かったですよ。さらに詳しく言うと……」
『風太』が挙げた二つの本は、マンガではなく児童書だ。しかも、守利が勝手に買ってきて、それが本棚に置いてあるだけなので、『美晴』はどちらも表紙を開いたことすらない。
しかし、『風太』はそれらの本の読みどころを、楽しそうに語っている。
「それで、最後のバキュームカー伯爵がビスケットを襲うシーンなんですけど、途中で出てきたタバスコが伏線になってて……」
「……」
『美晴』の目の前にいるのは『風太』であり、一人の少年だ。しかしその少年からは、自分の大好きな物を一生懸命語る少女の面影が、薄らと見えた。
(本当に楽しそうだな、こいつ。読書感想文とか得意なんだろうな……)
「それで、エピローグでは……あっ! もしまだ読んでいないのなら、ここはヒミツにしておきますね。きっと、びっくりするはずですからっ!」
(まぁ、いいか。楽しそうだし)
思うところはあったが、『美晴』は言おうとした言葉を引っ込め、『風太』の話に耳を傾けることにした。
*
「でも、やっぱり2巻のこのページがですねっ」
「え……。まだ……続くのか……」
『風太』は、まだ語っている。これで三冊目。しかしまだまだ語っている。
最初のうちは微笑ましく聞いていた『美晴』だったが、そろそろいい加減にうんざりしていた。
しかし、『風太』は止まらない。本棚の前に立ち、紹介している本を右手に持って、まだまだプレゼンテーションするつもりらしい。
「この表紙から想像すると……あっ!」
突然、『風太』は手を滑らせ、『美晴』の足元に「サボテン超百科事典」という本を落とした。
「す、すみませんっ!」
「いいよ……。おれが……拾うから……」
「こんな本、うちにあったかな……」と思いつつ、『美晴』が「サボテン超百科事典」を拾おうとした、その時だった。
「痛っ……!!」
右足首に、激痛が走った。『美晴』は、思わずその部分を手で押さえ、膝をついて座ってしまった。
その明らかな異変は、『風太』にも伝わったようだ。
「ふ、風太くんっ!?」
「なんでも……ない……」
「やっぱり、昨日のケガが……!? 右足が痛むんですね!?」
「それは……いいから……、お前が……読んだ……本の話の……続きを……」
「ダメですっ! ちょっと待っててくださいっ!」
『風太』は部屋を出て、階段を駆け降りると、ものの一分もしないうちにまた部屋へと戻ってきた。手には、半透明な救急箱を持っている。
「わたしが応急処置をしますから、風太くんはここに足を出してっ!」
「嫌だっ……! しなくていい……!」
ベッドに腰掛けている『美晴』の隣に、『風太』はサッと座ったが、それを拒否するかのように、『美晴』はお尻一つ分、横へ逃げた。
「なっ、なんで言うことを聞いてくれないんですか!?」
「うるさいな……! こんなの……ほっとけば……治るって……!」
「今より、もっと酷くなってしまいますっ! 早く処置をしないとっ!」
「は……? 何言ってるんだ……! お前だって……自分の……身体のこと……大事に……してない……くせに……! 今さら……ケガが一つ……増えたくらいで……いちいち騒ぐなよ……!!」
『美晴』は前髪を上げて、おデコにある傷痕をしっかりと『風太』に見せつけた。
「その傷と……わたしが受けた傷と、その足首とじゃ、話が違いますっ!」
「どう違うんだ……! 治るかもしれない……傷を……ほっといた……から……こうなってるんだろ……!」
「そ、それは、お母さんに心配をかけないためにっ」
「本当に……お母さんのことを……想うなら……、ちゃんと……キレイな身体でいろよ……バカっ! 一生……消えなかったら……どうするんだよ……!! なんでこんなことに……! なんでこんな風になっちゃったんだよ……お前っ……!」
「……!」
『美晴』が最後に怒鳴り声をあげると、それ以降二人は言葉を交わさなかった。
二人とも、身体をそれぞれ反対側にむけ、顔を見られないようにした。『美晴』は『風太』に見せられない顔をしていたし、『風太』も『美晴』に見せられない顔をしていた。
「ううっ、うっ……うわああああああん!」
ほぼ同時くらいに、どちらも泣き出した。
『風太』は、取り返しの付かないことをしてしまったという喪失感。『美晴』は、どうして戸木田美晴がこんな目に会わなくちゃいけないのかという悔しさ。それぞれの理由で、二人は涙を流していた。
少年は少女のように何度も目をこすり、少女は少年のように必死に歯を食いしばりながら、ひたすら泣いた。
「……!」
泣き声は、下の階にいる守利にまで届いていた。
しかし、その泣き声がどちらか一人のものではなく、二人のものだと分かると、手を止めて耳を澄ませていた守利は、何事もなかったかのように夕飯の支度を再開した。




