湖で遊ぶ親子
おばさんは少女を自動車の後部座席に乗せ、エンジンをかけた。
「では、レッツゴー!」
「……」
「『おー!』って言わなきゃ発進しません」
「おー……」
車は発進した。
*
後部座席の『美晴』は、この車にも様々な想い出を感じていた。
休日に「メガロパ」へ買い物に行った時、熱を出して病院へ行った時、家族四人でファミリーレストランへ行った時……。いつもこの車だった。それが普通だったし、日常だった。
しかしそれは風太としての日常で、今の自分はもう……。
「……」
後部座席の窓ガラスには、二瀬風太という少年ではなく、髪の長い少女が映っている。美晴になってから現在まで何度も自分の顔を確認してきたが、こんなに複雑な感情になったのは初めてだった。
ガラスに映った少女は、静かに涙を流しながらこちらを見つめている。
「ほら、また泣いてるわよ。ミハちゃん」
バックミラー越しに、守利が話しかけてきた。
「えっ……?」
「何があったかは知らないけど、泣くほど辛いなら、周りの大人に頼りなさ……きゃぁあああああ!!!」
風太の母さんこと二瀬守利は、息子が見ても分かるくらいに、車の運転が下手くそだ。ミラー越しに会話しながら運転などという器用なことが、守利にできるハズがなかった。
急ブレーキこそ踏まなかったが、車はふらふらと蛇行していて非常に危険な状態だ。守利はバッと振り向き、通り越した交差点に向かって叫んだ。
「今のところ右じゃんっ!」
そんなこと言われても知らない。
「ちょ、ちょ、ちょ、ミハちゃん? 『ハトムネ湖』までの道、分かる?」
「はい……。分かり……ます……」
「ナビして! ナビっ! もう1本、向こうの道から回るわ。大通りに出るから、頼むわよ!」
この車には、カーナビが搭載されていない。だから、普段は風太がナビをしている。
「次の……信号を……右……」
「右ね。はい了解」
いつもの自分に戻れたような気がして、『美晴』は夢中でナビをした。
少し笑顔を見せるようになった少女の瞳からは、いつの間にか涙が消えていた。
*
休日の午後の、ハトムネ湖。
人はまばらで、湖岸にある公園で遊んでいる親子が二組と、遠くで釣りをしているおじいさんが何人かいる程度。そして、ハトはいつも通りたくさんいる。
守利は『美晴』を連れて、湖の浜辺まで歩き、靴と靴下を脱いでから、湖面にチャプンと自分の足を入れた。
「冷たくて、気持ちいい……。ミハちゃんもどう? 足だけひんやりしてみない?」
守利に誘われて、『美晴』も足をそっと浸けてみた。
(ほんとだ。気持ちいいな……。足首が冷やされて、痛みも和らいでる気がするし)
守利と『美晴』。二人並んで、浅いところをチャプチャプと歩いた。
守利が小さな魚を見つけると、『美晴』も近くを泳いでいる魚を探した。
守利が丸い石を拾って湖に向かって投げると、『美晴』もそれに負けないくらいに石を遠くに投げた。
まるで親子のようだが、今は親子じゃない。
「フウくんって、学校ではどんな子なの?」
「えっ……!? ま……まぁ……普通……」
「あら、普通の子なのね。んふふ、普通の子どもに育ってくれて良かったわ」
「え……」
「ほら、門助さんがね……。フウくんのパパは、なかなか日本に帰って来られないから」
「父さん……?」
二瀬門助。守利の夫であり、風太の父の名前だ。
恐竜の化石の研究をしているため、今は海外で暮らしている。
「あの人は夢と家族のどちらを取るか悩んでたから、私が『男なら夢を追っかけなさい!』って、日本から追い出したんだけどね。まー、一人で子育てをするっていうのはすっっっっごく大変で。それなりに不安もあってね」
「母さん……」
「だから、フウくんがちゃんと普通の子に育ってくれて良かったって思ったの。少なくとも、ミハちゃんみたいな可愛い女の子に、意地悪するような悪い子にはなってないみたいだし!」
「まあ……意地悪は……してないと思う……けど」
「おっと、しゃべりすぎたわね。今の話は、フウくんには内緒よ。女同士のヒミツってことにしておいてね」
「へへっ……。分かってる……よ……」
母親の本音を「ヒミツ」にしようとしてくれることに、息子は少し嬉しくなった。
誰にだって、不安になることや弱気になることはある。でも、それを見せようとしない人は、やっぱりカッコいいのだ。
*
ハトムネ湖を離れ、一行を乗せた車は、通学路の近くまで戻ってきた。
車内のデジタル時計は現在、「15:00」を表示している。
「さて、帰りましょうかね。ミハちゃん、お家はどこかしら?」
「あ、あの……! それは……えっと……」
『美晴』は口籠もった。
それを言ってしまえば、この親子の時間が終わってしまうからだ。
「んー? 家なき子? 言えなき子? むむむ、さては家出少女……?」
「いや……、そういう……わけじゃ……」
「あっ! ミハちゃん、ちょっと待って! あの子がいた!」
「あの子……?」
守利は車を停め、運転席の窓から顔を出した。
前方数メートルの地点には、一人の少年が歩いている。
「はろー、そこの少年。お姉さんが、お家まで送ってあげましょうか? オモチャやお菓子も買ってあげるわよ」
「ええっ!? こ、これって、誘拐っ……!?」
「さぁ、早く乗って!!」
「あのっ、えっ? いや、えっ……?」
その少年は動揺しながらも後部座席に乗り込んできて、『美晴』の隣に座った。よく見るとそいつは、風太から身体を奪い、代わりに女の身体を押しつけてきた張本人だった。
『美晴』は守利に聞こえないようなヒソヒソ声で、隣の『風太』に声をかけた。
「おい……。なんで……お前が……ここに……いるんだ……」
「わたしは、本屋さんに行った帰りで……。風太くんこそ、どうしてここに?」
「おれも……、お前と……似たような……感じだよ……。母さんに……誘拐……された……」
「ふふっ。親しみやすくて、優しい人ですよね。風太くんのお母さんって」
「そう……かな……?」
「そうですよ。わたしも、風太くんのお母さんには、たくさん甘えさせてもらってますっ」
「甘える……!? 変なこと……してない……だろうな……!? お前は……今……おれ……なんだぞ……!?」
「別にっ、へ、変なことはしてないですよっ!? 普通に、子どもらしく、お母さんに甘えてるだけでっ……!」
「……」
「ほ、本当ですっ!」
「……」
『美晴』が無言のまま『風太』に疑いの目を向けていると、そいつは慌てて話題を変えてきた。
「あ、あのっ! ところで、足はもう大丈夫なんですか?」
「ん……? ああ……、もう……治ったよ……」
「本当ですか? わたしに見せてください」
「……」
「風太くん?」
「い……嫌だ……」
「何を言ってるんですか!? ちゃんと見せてくださいっ! 足のケガの様子っ!」
「嫌だ……って……! おい……やめろっ……!」
『風太』は無理やり、『美晴』の右足の状態を確認しようとした。それに対して、『美晴』も右へ左へと、足を動かして抵抗した。
狭い車の後部座席で、二人の身体は絡み合った。
キキーッ!!
突然、守利は車を路肩に止めた。停車もあまり上手くはない。
そして右手を振り上げ、渾身の力を込めたチョップを、『風太』の背中にぶちかました。
「あ痛っ!?」
「こら風太っ!!! ミハちゃんに何やってんのっ!!!」
守利は、ぷんすかと怒っている。
『美晴』と『風太』は座席に正しく座り直し、まずは乱れた服装を整えた。
「わたし……じゃなくて、おれはただ、美晴の足を見ようとしただけだよ」
「あら、そう。風太坊やは、いつから足フェチになったんですか?」
「「足フェチっ!?」」
「そうよ。ミハちゃん嫌がってるじゃない。まずは、ちゃんと謝りなさい」
「ご、ごめんなさいっ」
守利は『美晴』に視線を移し、
「ごめんねミハちゃん。風太がバカなことやって」
「い……いいですよ……。全然……気に……してない……ですし……」
そして戻した。
「あのねぇ、風太」
「は、はいっ!」
「女の子はね、傷付きやすいの。学校でもそんなことやってるの? そういうことばっかりやってると、ミハちゃんだけじゃなく、ユキちゃんやタネちゃんからも嫌われちゃうわよ」
「はい……」
『風太』が怒られている様子を、『美晴』は隣でクスクスと笑いながら見ていた。
*
大型ショッピングモール「メガロパ」の前を通り過ぎた。ここから『美晴』が暮らしているマンションまでは、そう遠くはない。
「さて、ミハちゃん。そろそろ、お家に帰らないとダメなんじゃない?」
「い、いや……その……」
『美晴』が自宅の場所を教えようかと迷っていると、『風太』が横から口を挟んだ。
「待って。お母さん」
「あら、なによフウくん」
「その……お、おれ、もっと美晴と遊びたい」
「へっ?」
「だから、おれの部屋で美晴と遊びたいんだ」
「はぁ? ダメに決まってるでしょ。ミハちゃんの都合も考えなさい」
『風太』はチラリと『美晴』を見て、両手を合わせて「お願いっ!」のポーズをした。
そして、また守利の方を向いて、彼女の説得を続けた。
「今、美晴に聞いたら、わたしは大丈夫だよって」
「ほんとに? ミハちゃん、この『足フェチ君』と本当に遊びたいの?」
足フェチ君のことは正直どうでもよかったが、一度自分の家に帰りたいという気持ちが、『美晴』にはあった。
「おれ……じゃなくて、わたしも……風太くんの家に……行きたい……」
「分かった分かった。もうこんな時間だし、少しだけよ」
「「はいっ……!」」
『美晴』は数日ぶりに、元の自分の家へ帰れることになった。




