この身体の名前
鏡に映っていたのは、男子の風太ではなく、図書室の前でぶつかったあの女子だった。
「あぁっ……!?」
驚く時に漏れる声すら、もう自分のものじゃない。
風太が「こんなのはおれじゃない」と、否定するように首を振ると、長い髪がハサハサと左右に揺れ、勝手に視界にまで入ってきた。
活発な雪乃のショートヘアとは対称的な、長くて真っ黒な重い髪。風太はその髪の毛を払いのけながら、鏡に顔をぐっと近づけた。
「……!」
瞳も、唇も、なじみのある自分のものじゃない。耳も、鼻も、何もかも。
そして、前髪で隠れたおデコをよく見ると、そこには深い傷痕があった。
「う……」
鏡の中の女の子は、目を丸くして風太を見ていた。正面にいる存在を、まだ疑っているかのような表情だ。
信じられない。こんなことは、あり得ない。風太はその場から一歩後ろに離れ、全身を鏡に映した。
「これが、おれ……?」
背中は勝手に丸くなり、両脚は自然と内股になってしまっている。その臆病な少女のような姿が、この身体が覚えている普段の「立ち姿」だ。
(どうなってるんだ……!? 本当にこれが、鏡に映ったおれの姿なのか!?)
動揺は激しくなり、焦燥感に似た不安や恐怖が、心の中から溢れ出す。
「はぁ……はぁ……。うぅ……」
男子としては情けない仕草だが、風太は溢れ出した感情を落ち着かせるために、無意識に両手を重ねて、膨らんだ胸のあたりに添えていた。
*
キンコーン。
掃除の時間のチャイムが鳴った。月野内小学校では、掃除の時間の後、帰りのホームルームを経て、放課後となる。
風太が今いるこの男子トイレは、6年生の掃除場所だ。現在の状況が事故なのか病気なのか、それともただの夢なのかはさっぱり分からないが、これ以上ここにいると、掃除をしにきた男子と出くわしてしまう。
(今、誰かに会うのはマズい……!)
気持ちが落ち着いて、風太はほんの少しだけ冷静になった。しかし、何度冷静に見返しても、今の自分はあの女子にしか見えない。
(とにかく、ここを出ないと……!)
風太はゆっくりと男子トイレの扉を開け、外の廊下へと出た。
2,3歩ほど進めば、そこはさっきの衝突事故現場。風太があの女子とぶつかった場所だ。
「あっ!」
そこには雪乃がいた。風太を捜しに、ここまでやって来たのだ。
改めて見ると、今の雪乃は、なんだかいつもより身長が高い。男子に混じって遊ぶそいつは、とても小さな存在だったのに、今はやけに大きく見える。その原因は、雪乃が大きくなったわけではなく、風太が雪乃と同じくらいの身長まで縮んでしまったからだ。
「え、えーっと……。その、大丈夫……?」
雪乃のセリフは、いつもの「風太くん、あのねっ!」という感じの流暢なしゃべり方ではなかった。
明らかに、言葉を選んでいる様子だ。今の風太は、雪乃の幼なじみの「風太くん」とは全く違う姿になっているのだから、当然の対応ではある。
「……!」
風太も何か返事をしようとしたが、喉の奥にあるものが邪魔をして、声を出すことができなかった。口が少し開くだけで、音を発していない状態だ。
「……」
「……」
数秒間の沈黙が続いた後、雪乃はもう一度、口を開いた。
「えっと……震えは止まった? 顔色がちょっぴり良くなったねっ」
「さっきはごめんね。わたしも突然で、びっくりしちゃって。何もできなくて」
「おはなしするの、初めてだよねっ! わたしは雪乃! クラスは6年1組だよっ!」
雪乃は一方的に、とにかくたくさんしゃべった。
これが、雪乃なりのコミュニケーション方法なのだろう。言葉を話さない見知らぬ女の子に対して、なんとか打ち解けようと頑張っている。
変わり果てた姿になっても、変わらない雪乃の態度が、風太はとても嬉しかった。
(雪乃……!)
その頑張りに応えようと、風太は口を動かして雪乃の名前を呼んだ……つもりだったが、残念ながら声になっていない。それでも雪乃の調子は変わらず、さらには笑顔さえも見え始めていた。
(よかった……。雪乃は、相手が誰でも雪乃なんだ)
風太は少し安心していた。非常事態であることに変わりはないが、味方と思える人が一人いるだけで心強い。
しかし、雪乃の次の一言が、風太の感情を再び激しく揺さぶった。
「あなた、6年2組の子だよね? さっきね、わたしのクラスの友達に、あなたの名前を教えてもらったんだ」
(えっ!? この女子の、名前……!?)
「美晴ちゃん、だよね?」
(美晴? おれがっ!? こ、この身体の名前が、美晴……!?)
一瞬、繋がってはいけない何かが、風太の中でバチンと繋がってしまった。全然知らない女の子の影が、自分と重なっていく。
(おれは風太だ! 美晴なんて名前じゃない……ハズだ。わ、わたしは……おれは……美晴……?)
今までが間違っていたかのように、風太が消えていく。何よりも正しい、『美晴』へと変わっていく。
(違うっ……! わたしは、本当に……美晴……なの……!)
鼓動がドクドクと速くなって、さらに息が苦しくなる。不快なドキドキが止まらない。
『美晴』は生唾をゴクリと飲み込み、心の中で「頼むから、おれをその名前で呼ばないでほしい」と、必死に願った。
「どうしたの? 美晴ちゃん」
雪乃は異変を感じ、『美晴』に歩み寄った。しかし、その動きに合わせるように、『美晴』の脚は後ずさりを始めていた。
「だ、大丈夫っ!? 美晴ちゃんっ!」
雪乃は、明らかに様子のおかしい『美晴』の右手を握った。雪乃としては、相手を安心させようと思っての行動だったのだろうが、それは逆効果になった。
「ひぁっ……!?」
言葉にならない悲鳴が、『美晴』の口から出た。
雪乃に手を握られたせいで、さっきまで持っていた安心は消え、どんどん黒い感情に心が染まっていく。恨みのような、哀しみのような、真っ黒な感情に。
(やめてくれっ……。やめてっ……! 雪乃には……雪乃ちゃんには、わたしの気持ちなんて、分からないっ……!)
『美晴』はもう一度、雪乃の顔を見た。
心配そうにこちらを見ている姿が、なんだかとてもイライラする。『美晴』の暗い瞳は、無意識に相手をにらんでいたが、雪乃はそれに気付いていないようだった。
「え、えーっと……! とにかく保健室、いこっ!! わたしと一緒にっ!」
すぐに答えを出した雪乃は、そのまま『美晴』の手をひいて、校舎の一階にある保健室へと歩き出した。
「やめてくれ」とさえ言えずに、雪乃に手をひかれながら、『美晴』も一歩ずつ足を踏み出した。
*
淡い静寂の中、雪乃は『美晴』の手を引いて、保健室に入った。
「先生ー!! 保健室の先生ー!! ……あれ? いない?」
きょろきょろと見回しても、校医の先生らしき人影は見当たらない。
雪乃は「うーん……」と唸った後、部屋の奥にある三つ並んだベッドへと進んだ。全て空いているが、一番奥のベッドだけ、誰かが使っていた形跡がある。
雪乃は一番手前のベッドに決め、『美晴』にそこで寝るよう促した。
「とりあえず、ここで休んでてね美晴ちゃん。わたしが先生を呼んでくるから」
『美晴』が布団に入り、枕に頭を置くのを見届けると、雪乃は保健室の外へと出て行った。
「……」
雪乃が去り、保健室はとても静かになった。
『美晴』は長い髪を背に広げ、天井を見ながら、呼吸だけを続けた。吐息と共に漏れるかすかな声さえも、今は少し高い女子の声だ。
(どうして、こんなことになってしまったんだ? おれの身に、何が起きてるんだ? この身体の持ち主の……「美晴」って、一体だれなんだ?)
考えても、答えは出ない。
(もう疲れた。休もう……。少し眠って、目が覚めたら、きっと元の自分に戻ってる……ハズ……)
*
「うそ……」
保健室のそばにある、女子トイレの中。
一人の少年が、鏡に映った自分を見て、そう呟いた。