イジメ0プロジェクト・友だちの輪をつなごう月野内人権週間
自分のことを美晴だと思い込んだまま、帰宅した。
ドタドタと騒がしく美晴の家に上がり込む。その華奢な脚にとっては、家にドタドタと上がり込むという行為は、初めての経験かもしれない。
そして勢いよく美晴の部屋に入り、背負っていたランドセルを机の上に置いた。
(分からないっ、分からないっ!)
暑くなって、シャツの胸のあたりを、右手でぎゅっと握りしめる。しかしそれでも、自分の中のものは何一つ収まらない。とても苦しいが、いじめられた時に感じる嫌な苦しみではない。
(どうして、風太くんが……)
ベッドのふちに腰掛ける。
まだ心臓はドキドキしている。
風邪を引いた時と同じように、身体は熱を帯びている。
(なんで、わたしのことを……)
そのまま力を抜いて、ベッドの上で仰向けになる。
長い髪がフワリと横に広がる。前髪も自然に分かれて、おデコの傷痕が露わになる。
「あぁっ……」
おデコに、手の甲を当てる。
(すごく、あつい……!)
どんどん意識が遠くなって、『美晴』はそのまま眠ってしまった。
*
その夜、美晴のお母さんは、久しぶりに娘の明るい笑顔を見た。二人の間にあまり会話はなかったが、戸木田家の親子はとても幸せな一夜を過ごした。
*
次の日の朝。
(どれにしようかな……)
『美晴』は年頃の女の子らしく、姿見の前で今日学校に来ていく服を選んでいた。
(やっぱり、目立たないように……)
いつも着ているようなグレーの服を手に取り、身体にあてがう。色合いはかなり地味。
(でもっ! でも、もし昨日みたいなことがあったら……)
迷っているもう一方の服を手に取り、また身体にあてがう。女子小学生のファッションとしては普通だが、美晴はあまり着ないような服。
(これで……いいかな……?)
悩んだ末、後に選んだ服を着て部屋を出た。
*
今日の天気は晴れ。
気温はそれほど高すぎず低すぎず、風も心地良いくらいに穏やか。
6年1組では、『風太』が男友達との会話に混ざり、6年2組では、独りぼっちの『美晴』が教室のすみっこで本を読んでいる。この光景自体は、いつもと変わらないものだ。
午前の課程を終えた。
給食を経て昼休みになり、『美晴』は今日もまた図書室へと向かうことにした。
(今日はどんな本を読もうかな)
ガラガラと扉を開けて中に入り、自分の身長より遥かに高い本棚の間を散歩する。
昼休みになると学校全体が騒がしくなるが、ここだけは特別な場所だった。さっきまで校舎内にいた静寂が追い出され、最後にたどり着くのがこの場所……。
「わっ、わぁあーーーー!!?」
ドサドサドサッ!!
静寂は死んだ。
(なっ、何の音っ!?)
『美晴』は驚いて、その音がした方へ振り向いた。
「ううぅ、痛いぃ~!」
数冊の本が床に散らばり、女の子が倒れている。おそらく、本棚をよじ登っていたら落ちてしまった、というところだろう。
広々とした図書室の中の、ここは第8文庫エリア。児童からは特に人気がない、難しい本が並んでいる場所だ。周りには『美晴』とその女の子以外、誰もいない。
「だっ、大丈……夫……?」
見て見ぬふりをするわけにもいかないので、『美晴』は倒れている女の子に声をかけた。
面識はないハズだが、不思議と初めて会話をするような気がしない。
「大丈夫ですっ! これぐらい平気……でも、やっぱり痛いぃ~!!」
『美晴』は床に散らばった本を拾い集め、その女の子に渡した。その子は「痛たた……」とお尻をさすりながら立ち上がり、本を受け取ると、『美晴』の顔を見つめた。
そこで、『美晴』はハッと気付いた。
(あっ! この子、風太くんとハイタッチしていた子だ……!)
昨日、『風太』と一緒にドッジボールをしていたあの元気いっぱいな女の子と、同一人物。
『美晴』がその子を見つめ返していると、女の子はすぐにお礼を言った。
「拾ってくれてありがとうっ!」
「ぃ……え……」
「あれ? もしかして、美晴ちゃん!?」
「えっ……?」
突如、名前を呼ばれた。
どうやら向こう側は、美晴のことを知っているようだ。
「やっぱり美晴ちゃんだっ! 美晴ちゃんは、よくここに来るの?」
(あれ……? わたしとこの子は、話したことがないハズ……)
こちら側は、知っているような知らないような、曖昧な感覚。
「わたしはね、本を返しに来たの! 風太くんとじゃんけんしたんだけど、今日は負けちゃって。でも、まさか落ちちゃうなんて……運動不足かなぁ」
女の子は勝手にしゃべった。
その言葉の一つ一つが、『美晴』の脳の深いところに置かれていく。
(風太くん……。じゃんけん……。本の返却……)
すると、『美晴』の頭の中では、眠っていた記憶が呼び起こされた。
(わたしは、この子の名前を知ってる……!)
目の前の少女は、不思議そうにこちらを見ている。
(この子は……いや、こいつはっ! わたし……違う、お、おれのっ!)
一日かかったが、やっと戻ってきた。
「ゆき……の……?」
「え?」
「雪乃っ……!」
「う、うんっ!? わたし、雪乃だよっ!?」
「雪乃っ……! 雪乃っ……!」
「ちょっ、ちょっと、どうしたのーっ!?」
『美晴』は自分でも気づかないうちに、雪乃の両肩を掴んでガクンガクンと揺さぶっていた。
「うわ~あっ! ストップストップぅ~! 頭がユラユラする~!!」
「あっ……! ごめん……雪乃……」
『美晴』は手を放した。
放したその手は、色白でとても細い。
「なっ、なんだよ……。この手は……」
手のひらをじっくり見る。
続いて、自分の身体を見降ろす。
「わ……わっ!!?」
ピンク色のシャツに、白いフリルスカート。好きな男の子に「かわいいね」と言ってもらうための、愛らしい女の子の服。
『美晴』は自分が着ている服にびっくりして、股をバッと開き、スカートの裾を引っ張り上げた。
「うわぁっ……なんだこれっ……!? 恥ずかしい……服っ……!」
「だ、ダメだよ美晴ちゃんっ!! 見えちゃうっ!!」
危ない格好をしている『美晴』の手を、雪乃がとっさに掴んで止めた。
そして『美晴』はゆっくりと顔を上げ、雪乃と目を合わせて、確認するように言った。
「おれは……誰に……見える……?」
「へっ? 美晴ちゃん、だけど……?」
「雪乃……よく……聞いてくれ……。信じられない……かも……しれないけど……」
「うん??」
雪乃には、これまで何度も助けられてきた。だからこそ、雪乃にだけは真実を話してみたいと思っていた。
しかし、緊張でドキドキしてしまい、首の絞まりはどんどん強くなっていった。
「お……ぉれ……は……!」
「えっ?」
「ほ……んっ……。ん……とぅ……は……」
「美晴ちゃん……?」
「……、………。…………」
キンコーン。
絶妙なタイミングで、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「あっ! ごめん、わたしそろそろ行くねっ! お話の続きは、また今度っ!」
チャイムの音に気付き、雪乃は図書室から出て行こうとした。
『美晴』は手を伸ばして叫ぼうとしたが、首の絞まりの悪化により、喉から音を出すことができなくなっていた。
(ま、待てよっ! まだ行かないでくれっ!)
走るのを一旦やめて、雪乃がくるりと後ろを向いた。
「言い忘れてたけど、風太くんも美晴ちゃんのこと、心配してたよっ! それじゃっ!」
それだけ言うと、雪乃はまたくるりと前を向いて行ってしまった。
(待ってくれ雪乃っ! 違うんだっ! そいつが美晴で、風太はおれなんだっ!)
雪乃への必死な訴えも、声にはならず。『美晴』の開いた口からは、苦しそうな吐息が漏れるだけだった。
*
5、6時間目。
本日は特別カリキュラムとして、体育館での全校集会となった。月野内小学校の全ての生徒が、クラスごとに一列に並んでいる。
ざわつく体育館の中で、『美晴』は6年2組の列に並んだ。出席番号順なので、「戸木田」は列の真ん中あたりだ。
(くそっ。もう少しだったのに……)
『美晴』は体育座りをしながら、6年1組の列にいる雪乃を見ていた。
雪乃は自分の前で座っている実穂と、楽しそうにおしゃべりをしていた。
「……」
10分ほどかかって体育館は静かになり、全ての生徒が自分の場所に座った。それを確認すると、校長の石楠花先生(初老の女性)は、体育館のステージの上にあるマイクを使って話を始めた。
「みなさん。こんにちは」
「「「……んにちはぁ~」」」
「えー、みなさん。今週は、ご存じの通り『イジメ0プロジェクト・友だちの輪をつなごう月野内人権週間』です。今週、みなさんには、道徳の時間にですねぇ、えー……グループワークをしたり、イジメに関するビデオを見たりして、人権についての学習をしていただいたと思います」
校長はやたら長々としゃべったが、まともにその話を聞いている生徒はごくわずかだった。友達にイタズラする男子生徒、隣の子とヒソヒソ話をしている女子生徒、大あくびをしながら見回りをしている先生……。みんなそれぞれの方法で、この退屈な時間を潰している。
『美晴』も雪乃のことばかり気になってしまい、校長の話にはほとんど耳を傾けていなかった。
「えー、これでですねぇ、私の話は以上です。それでは続いて……」
しばらくして、校長の話は終わった。……が、全校集会はまだ続くらしい。
(((はぁ~……)))
一部の生徒たちは、心の中でため息をついた。もう終わってくれという無言の嘆きが、体育館内に響いた。
そして、『美晴』の意識は眠気へと移り、あからさまにウトウトとしてきた頃、その発表はステージの上で始まった。
「今回、このプロジェクトの総括として、えー……ある生徒にですねぇ、過去に自分の身に起こった辛いイジメの経験を、お話ししていただけるということになりました」
(いじめられた経験……?)
突然聞こえてきた、何やら興味深い話。
校長の話を聞くために、『美晴』は少しだけ自分を起こした。
「えー、この学校に転入する前の学校で、辛い、辛いイジメにあっていたと、勇気を出して担任の先生に打ち明けてくれたそうです。本人も『思い出すのも辛い経験ですが、わたしの経験を語ることで、イジメへの理解を深められれば』とおっしゃり、この全校集会で、皆さんにお話しすることを引き受けていただきました」
「では、えー……今から、お話ししていただきます。皆さん、静っかに! 聞きましょう」
「6年2組、小箱蘇夜花さん。よろしくお願いします」




