会いたい人と会いたくない人
(風太くんっ……!)
グラウンドでは、『風太』が6年1組のドッジボールに参加していた。
図書室にいる『美晴』は、窓からグラウンドの『風太』を見て、一喜一憂している。
(今日は、あっちのチームなんだ)
(がんばって! 風太くんっ!)
(ああっ、当たっちゃう……)
グラウンドの『風太』は、肉体は活発な少年になったが、精神は運動とは無縁な少女のままだ。身体能力が上昇しているおかげで、ボールを身軽に避けることはできても、遠くへボールを投げる術やボールをキャッチする勇気はない。
ポコッと軽く当てられ、『風太』はあっさりとアウトになってしまった。ドッジボールのルールにより、アウトになった者は外野に行かなければならない。
「……!」
『風太』と同じく外野にいた一人の女の子が、敵チームの男子にボールを当てた。
明るく短い髪の、見るからに元気いっぱいな女の子だ。その子は、隣でボサッと立っている『風太』に、勝利のハイタッチをせがんだ。
(あっ……)
『風太』は少し迷った後、ぎこちなくハイタッチをした。
『美晴』はそれを見届けると、窓から離れ、静かに図書室のイスに座った。
(やっぱり、風太くんは……友達が多いね)
手に持った本の表紙をじっと見つめ、物思いにふけった。
そしてフラッシュバックのように、さっきのハイタッチを思い出すたびに、胸の奥に小さな痛みを感じていた。
*
「世界のベルギーワッフル図鑑」を読み終えた後、『美晴』が次に選んだのは「よくわかる100ノートの使い方」という本だった。そこには、不思議なノートの存在とその使用方法について、小学生向けに分かりやすく書かれていた。
(100日後ってことは、3ヶ月と一週間くらい? 本当に、どんなお願いも叶えてくれるのかな……?)
『美晴』は夢のような存在に想いを馳せ、メルヘンでファンタジーな想像を膨らませていた。
すると突然、ガラガラと図書室の扉が開く音がして、女子の二人組が入ってきた。
「学級委員ってさー、面倒くさいことばっかり押し付けられて、すっごく損じゃない?」
「ふふっ、確かにそうかもしれないわね。でも、損なことばっかりってわけでもないのよ? メリットもちゃんとあるの」
「メリット?」
「ええ。例えば……大人から褒められることが多いわね。このポジションは」
「えー? 何それー?」
二人の会話を聞いて、『美晴』はドキッとした。
(真実香ちゃんと、学級委員の五十鈴ちゃんだ……!)
関わりたくない二人だ。『美晴』はすぐに、読んでいた本でさりげなく顔を隠した。もちろん完璧に隠れられるハズがなく、頭だけがひょっこり見えている。
「今回だって雑用でしょ? 誰かに押し付けてもよかったのに。ほら、美晴とかにさ」
「図書室にある教材を、先生のところへ持っていく大事な仕事よ。あの子はドブ臭いから、教材に悪臭が移っちゃうわ」
「あはっ。五十鈴って、美晴のことめっちゃ嫌いだよねー」
二人は『美晴』に気付かないまま、こちらへと近づいてくる。
(見つかったら、また何かされる……!)
小さな体をさらに小さくして、必死に気配を消した。
(お願いっ! わたしに気付かず、そのまま行って!)
そして、二人は『美晴』の席の真後ろを通った。
(!!!)
緊張で背中に流れる汗が、とても気持ち悪い。
『美晴』は息すら止め、両目をぎゅっとつぶって、運を天に任せた。
「そういえば、蘇夜花は今何をやってるんだっけ?」
「教室で原稿を書いてるわ」
「原稿? 明日の全校集会で発表するための?」
「ええ。蘇夜花にしては珍しく悩んでたわよ。もうちょっとハデな演出が必要なんだって」
……。
…………。
………………通り過ぎた。
(やった……!)
全身の力が抜け、溜め込んだ空気が一気に口から出た。
(怖かったぁ……)
キンコーン!
「ひゃっ……!?」
安心とほぼ同時に、昼休み終了のチャイムが鳴り響く。
『美晴』は突然のチャイムにビクッとしたが、すぐに落ち着いて、読んでいた本を本棚へ片付けに行った。
*
日は傾き、月野内小学校は放課後の時間となった。
『美晴』は未だに、自分は美晴なんだと信じて疑わなかった。いつも美晴がやっているように過ごし、いつもの美晴として6年2組から扱われ、いつもの美晴と同様に存在感を消した。
自分の身を守るためには、ただ目立たないようにするしかないと、分かっていた。
「おいキモムタァ。ドロップキックするからそこに立ってろ」
「えぇっ!? い、痛いのはやめてよぉ、界くぅん」
「痛くねェようにするから大丈夫だ。ほら行くぞ」
教室ではキモムタが、界や冬哉に「プロレスごっこ」を喰らっていた。
『美晴』はそれを特に気に留めることなく、赤いランドセルを背負って教室から出た。
(やっと帰れる……)
学校の正門から出ると、『美晴』の足取りは軽くなった。
家に帰れば、もう誰かに怯える必要はない。蘇夜花にも、五十鈴にも、界にも。今日はもう他人の目を気にする必要はないと思うと、『美晴』は重い枷が外れたような気分になった。
「……」
マンションまでのいつもの帰り道を、いつもの速度で歩いた。そして、最後の曲がり角をいつものように曲がったところに、その人物はいた。
「!!?」
心臓が止まりそうになった。
止まったかもしれない。
(え、えっ、えええっ!?)
身体は硬直し、声も出ない。目は大きく見開いたままだ。
(ウソ……だよね。そんなわけないっ!)
マンションまではもう目と鼻の先だ。
それでも『美晴』の両脚は、一歩も動こうとしなかった。
(なんで、風太くんがここにっ!?)
マンションの前に立っていたのは『風太』。そしてあいつこそが、本物の美晴だ。
しかしこちらの『美晴』も、99%同化している。だとすると、心と身体の美晴らしさならこちらの方が上かもしれない。
(い、息が詰まるっ……! まずは、冷静にっ! 冷、静、に……!)
すぅー……はぁー……と、大きく深呼吸をする。
よくよく考えたら、「風太くん」が「わたし」なんかに用なんて、あるはずがないのだ。そもそも、あの人とは一度も話したことがないハズ。
『美晴』はポジティブな自分をさっさと殺して、ネガティブな自分を呼んできた。
(何を期待してるんだろう。きっと風太くんは、わたしじゃない他の誰かに用があるのに)
(住む世界が違う人だよ……。向こうは、わたしのことなんて知らないだろうし)
(帰ろう……)
ネガティブな『美晴』は、足取り重く、マンションへと向かって歩き出した。悪目立ちだけはしないように、ごく自然に、さりげなく。
しかし『風太』の方は、『美晴』に用があってここに来ている。
「あっ! あのっ……!」
『風太』は『美晴』を見つけ、声をかけた。
「!!!?」
そして、声をかけられた方の頭の中は、真っ白になった。
「えっ、えっと……!」
「……」
「あなたと、話したいことがあって……! 渡したい物もあって」
「…」
「落ち着いて話せる時間を作ろうとは思ってたんですけど……! なかなかその機会がなくてっ」
「」
『美晴』は全力で走り出した。
「えぇっ!? ふ、風太くんっ!?」
後ろから『風太』が追いかけてくる。
しかし、今の『美晴』はもう止まれない。
「待って! あ、あのっ、ブラウスっ……!」
『風太』は『美晴』に、折り畳んだ白いブラウスを渡そうとしたが、『美晴』の目にそれは入らなかった。
『美晴』は急いでエレベーターに乗り込むと、すぐにエレベーターの「閉」ボタンを高速でカチカチ押して、『風太』の言葉と存在を遮った。そして間一髪、エレベーターの中に自分だけの空間を作り出すことに成功した。
「はぁー……! はぁー……!」
少女は閉まった扉にもたれかかって、吸えるだけの空気を吸った。




