修学旅行前日 それぞれの夜
「修学旅行の持ち物。しおりと、筆記用具と、二泊三日分の着替え……」
明日から修学旅行。風太の部屋で、『風太』は荷物の整理をしていた。
「6年1組 二瀬風太」という名札が付けられた大きなバックパックに、一つ一つ確認しながら持ち物を詰めていく。もしもの時のことを考え、ハンカチやティッシュなどを多めに入れ、簡易な救急セットなども持ち込んでおく。多少バックパックが重くなったとしても、今の身体は力持ちの男子なので、運ぶのに苦労するということはないだろう。
そして、ふと気づいた。
「あれ……? 校外学習の準備って、こんなに楽しかったっけ……」
今までは、そうじゃなかった。
本当は行きたくない、図書室でずっと本を読んでいたい。なんで校外学習なんかあるんだろう。戸木田美晴として過ごしてきた1年生から5年生までは、ずっとそう思っていた。
「今年は……まさか、こんなことになるなんて、思わなかったけど。わたしは今、校外学習が楽しみで、こんなにワクワクしてて……その気持ちに、ウソはつけない……」
形は変わったが、やっと、普通の小学生らしく、学校のイベントが楽しいと思えるようになったのだ。
その体験が、二瀬風太という男子から奪い取ったもの、だとはいえ。
「一生の想い出になるのかな……。修学旅行って」
せめて向こう側も、楽しい想い出を作ってくれたらいいな、と。
「……ううん。そんなの無責任すぎる。わたしがなんとかしないと。風太くんにも、しっかりと楽しい想い出を、作らせてあげないと」
ささやかな願いを、固い決意に変えた。
*
「修学旅行の……持ち物……。体操服と……雨具と……。あとは……、カメラも……持ってきていい……らしい……」
明日から修学旅行。美晴の部屋で、『美晴』は荷物の整理をしていた。
「6年2組 戸木田美晴」という名札が持ち手に付けられたキャリーバッグに、一つ一つ確認しながら持ち物を詰めていく。小学生の女の子でも持ち運べるようなサイズのバッグだが、デジタルカメラを入れるくらいのスペースは充分にある。
「これで……よし……」
「風太、終わった? 明日の準備」
ペチン。
「だいたい……終わった……けど……」
「けど、何? 何か問題でもあるの?」
またペチン。
「さっきから……、おれの……胸……触ろうと……するの……やめてくれよ……! 安樹っ……!!」
「あはは、ごめんごめん」
後ろから抱きついて、『美晴』の胸を触ろうとしているのは、安樹。『美晴』の友達で、不登校キャスケット帽の菊水安樹だ。
『美晴』はペチンペチンと叩き、迫りくる安樹の手を阻止していた。
「うわ、ノーブラだよノーブラ。風太ってエロなの?」
「は……?」
「ちゃんとブラ着けてないなら、ボクに触られてもしょうがないだろ、って言ってるんだ」
「しょうがなく……ない……! あんなの……鬱陶しくて……着けてられないよ……。本物の女子だって……家に帰ってきたら……外してるんだろ……!?」
「でも、カレシと一緒にいる時くらいは、ちゃんと着けといてよ。ブラを外す瞬間、外してもらう瞬間って、一番ドキドキするじゃん」
「お前は……カレシじゃ……ない……!」
「ってことは、ボクはカノジョ?」
「カノジョでも……ない……!」
「じゃあ、なんでボクをこの家に呼んだの? 二人きりで、『なかよし』したいからじゃないの?」
「なんだよ……『なかよし』って……! 明日は……修学旅行……だから……、お前に……起こしてもらおうと……思って……呼んだんだ……! 早起き……のため……だよ……!」
「へぇ、それなら眠れない夜にしてあげる。可愛い可愛い、ボクだけの寂しがり屋さん♡」
「あああぁ、もうっ……!! やっぱり……安樹なんて……呼ばなきゃ……良かった……!!」
『美晴』は頭を抱え、安樹はそんなカノジョを見てニコニコと微笑んでいた。
「お前に起こしてもらうために呼んだ」、というのは、本当の理由ではない。ただ『美晴』は、安樹の様子が気になったから、今日この家に呼んだ。とにかく、安樹の元気な姿さえ見られれば、それで良かったのだ。
そして、安樹もそれを分かっていた。再び不登校になった自分を、『美晴』が心配してくれていることくらい、気付いていた。だから安樹は、そいつを安心させるために、いつも以上にふざけていた。
「やめろっ……!! 触るなっ……!!」
「大丈夫。大丈夫だよ、風太。ボクはもう大丈夫だから」
「何が……大丈夫なんだ……!? ふざけるのも……いい加減にしろ……お前っ……!!」
「あ痛っ!?」
ぽかっ。
げんこつで頭を叩かれたので、安樹は『美晴』から離れた。
「それにしても、このタイミングで修学旅行なんてね。今の君にとっては、とても楽しみに思えるようなものじゃないでしょ?」
「ああ……。蘇夜花や……五十鈴と……同じ班……だしな……。あいつらの……ことだから……、おれに……復讐する……計画でも……立ててる……だろうよ……」
「それが分かってるなら、行かなきゃいいんじゃないの? ボクも、今回の修学旅行には行かないし。欠席ってことにしてさ、明日は二人で……」
「いや……、そういう……わけには……いかないんだ……。約束を……してしまった……からな……」
「約束? 誰と?」
「美晴の……お母さんと……!」
『美晴』は、キャリーバッグの中から小さなデジタルカメラを取り出し、安樹に見せた。
「この……カメラの中に……、修学旅行での……想い出を……たくさん……詰め込んでくるから……待っててくれ……ってな……! だから……、おれは……絶対に……、修学旅行で……楽しい想い出を……作るんだ……!!」
娘が無事に学校生活を送っている姿を見せ、入院中の美晴のお母さんを安心させる。そのために、『美晴』は今回の修学旅行を利用しようと考えた。
約束というより、決意に近い。『美晴』がカメラの件を美晴のお母さんに伝えたところ、美晴のお母さんは「楽しみにしてるわ。いってらっしゃい」と答えてくれた。
「へぇ。知らせないつもりなんだね。美晴が学校でいじめられてることを」
「ああ……。美晴の……お母さんは……巻き込まない……。これが……、美晴の……願いでも……あるから……な……」
「美晴の願いを尊重したいと思うのは、キミの自由さ。でも、ボクは心配だよ。キミは何でも一人で背負おうとするから」
「大丈夫……。おれは……男……だからな……。男だから……全部……背負えるくらい……強いんだ……!」
「心は、ね。身体は女の子だ。どうしようもなく可愛くて、抱きしめたくなるほどに、キミは……か弱い女の子なんだよ」
「たとえ……そうだとしても……おれは……行くぞ……。美晴の……“憧れ”……は……、どんな……敵にも……立ち向かう……風太……だ……!」
「まぁ、止めても止まってくれないよね。いいさ、キミはキミの信じた道を行け。そして、いじめっ子なんかに絶対負けるな」
「ああ……! おれは……勝つ……!」
『美晴』は、瞳に闘志を宿し、安樹に勝利を誓った。
その瞳は、長い前髪のせいで隠れてしまっているが、安樹は目が隠れた少女から、とても強くて男らしい闘志を感じ取った。
(やっぱり、美晴の身体に風太の心が入ってる状態が一番良いな。この子、一生このままだったらいいのに。ああぁ、かわいい、かわいい……!)
『美晴』の真面目な誓いを無視し、安樹は自分のことを風太だと思っている弱々しい少女にキュンキュンしていた。
「安樹……? おい……安樹……!」
「え? な、なぁに? 風太」
「何を……ボーっと……してるんだ……。お前は……少し……気が……抜けてる……な……。とにかく……明日は……朝……早いから……、そろそろ……寝るぞ……。シャワー……には……どっちが……先に……行く……?」
「ボクが先に行って待ってるよ。一緒に身体を洗いっこしようね」
「し、しないっ……! なんで……お前と……一緒に……入ることに……なってるんだよ……!」
「だって、今のキミなら、ボクは一緒に入ってもいいかなって思えるし」
「それは……、お前が……おれを……女だと思って……見てるからだろ……! 男だと……思えよ……!」
「でもね、風太。これはキミの練習のためでもあるんだ」
「おれの……練習……?」
「そう。修学旅行ってことは、夜は旅館かホテルに泊まるだろ? ということは、お風呂は大浴場だろ? ということは、キミは6年生の女子たちとみんなで女湯に入るんだよ。でも、キミはどうせ女の子に対する免疫とかないだろうし、緊張しちゃうだろ? だから、その練習」
「な、なな……なぁっ……!!?」
「たとえば、バスタオル一枚の雪乃がキミのそばにやってきてさ、こう言うわけだよ。『えへへ。わたしの身体、洗ってくれる……?』」
『美晴』の耳元で。安樹は声マネをして、ちょっと色っぽく雪乃を演じた。
もちろん、実際の雪乃はそんなこと言わない。でも、『美晴』は想像してしまった。そして、耳まで真っ赤になって、頭がボンッと爆発した。
「ゆ、ゆゆ、雪乃じゃないっ……!! お前ぇっ……!! ニセモノ……!! 雪乃、違う、雪乃、違う……! お、おれは……女湯……には……入らないっ……!!!」
まだ11歳の男には、刺激が強すぎた。
慌てた『美晴』はドタバタと駆け出し、一人で脱衣所へと突入した。そして、「絶対に入ってくるなよ」と言わんばかりに、脱衣所にカチャリとカギをかけた。
侵入を防がれた安樹は、キャスケット帽を被り直しながら反省した。
「フフッ、ちょっとやりすぎたかな。ボクの分まで楽しんできてね。修学旅行」
*
「修学旅行の持ち物。水筒とお財布と……おやつは300円まで、かぁ」
明日から修学旅行。雪乃は自宅のキッチンで、冷蔵庫を開けていた。
「6年1組 春日井雪乃」という名札がつけられた、パステルカラーの大きなリュックサックに、一つ一つ確認しながら持ち物を詰めていく。あとは、緩美や実穂と一緒に買いに行った300円分のお菓子を入れれば、明日の準備は完了だ。
「わあぁ……。とってもきれい……」
雪乃が見とれていたのは、冷蔵庫の奥に置いてある、キャンディが入った袋だった。
星型やハート型の透明なキャンディが、一つ一つ丁寧にラッピングされている。キラキラ輝いていて、それはまるで宝石のようだった。
「そういえば、誰かにもらったんだっけ。あんまり覚えてないけど……」
冷蔵庫の中で見つけたキャンディは、とても美しかった。そして何より、おいしそうだった。
「このまま捨てるのも、もったいないし……。きっと、まだ食べられるよね。よーし、こっそり持っていっちゃおうっと!」
しかし、雪乃はすっかり忘れていた。そのキャンディが、いつ、誰に、どんな経緯でもらったものなのかを。もしも、牟田くんのお兄さんからもらった物だと、ここで気付いていれば……。
「まあ、とりあえず風太くんに食べてもらえばいいよね。それで何も問題がなかったら、わたしが食べるってことで!」
雪乃は、300円分のお菓子を自分のリュックサックに入れた後、「きれいなキャンディ」も、ついでにこっそりと入れた。それが、「ちょっとだけ解放的な気持ちになるキャンディ」だとは知らずに。