ロック
*
「わたしが、歌手!?」
今にも崩れてしまいそうなボロアパートの、一室。その部屋の表札には、「端野苺子」という家主の名前が書かれている。
「そう。雪乃が歌手」
「本当にっ!? 苺子ちゃん!」
「苺子ちゃんって呼ぶな。大人だぞ、アタシは」
「わたし、歌手になれるの!? 歌、あんまり上手くないよ!?」
「確かに、雪乃は歌が上手くない。ギターも素人だし、何か特技があるわけでもないし、特別顔が良いわけでもなく、スタイルが良いわけでもない」
「ひ、ひどいー! 悪口いっぱい言われたー!」
「でも、元気がある。愛嬌もあるし、誰かに伝えたい想いもある。その想いは、音楽に携わる人にとって、一番大事なものだと、アタシは思う。だから、アタシは雪乃をスカウトしたんだ」
「スカウト……? わたし、スカウトされたの? いつのまに?」
「あのな……。アタシは一応、音楽プロデューサーだぞ。プロデューサーの家にまで連れてこられて、スカウトされた自覚ないのかよ」
「いやあ、てっきりお友達になってほしいのかと……」
「お前なぁ……。いや、もういい! それなら改めてスカウトしてやる! 雪乃、アタシと一緒にロックなシンガー目指してみないか? ギターも歌も、全部アタシが教えてやるから! レッスン料として金は取るけど! どうだ!?」
「そ、そんなこと、急に言われても……!」
そうは言いつつも、興味がないわけじゃない。歌うのは好きだし、ギターを触るのも大好きだ。上手くなりたいという願望もある。
そして何より、思い描くは華やかな世界。女の子なら一度は夢見る、憧れのステージ。
「うーん。どうしようかなぁ」
「これでもアタシは、元歌手だ。『BASKET★』ってガールズバンドのリーダーやってた。知らないか? 今の小学生は」
「知らなーい。テレビとか出てたの?」
「何度かな。もちろん全国放送だぞ? ネクストブレイクミュージックっていう番組で、歌ったこともあるんだ。えっへん」
「えっ……。テレビ、出たことあるんだ。変な頭のお姉さんなのに」
「今、アタシのイチゴヘアーのことバカにしたか?」
「うん……。ごめんね……」
「すんなよっ!! アタシのトレードマークだぞ!!」
「……」
「どうした? 急にボーッとして」
追憶。雪乃の頭の中では、「これからテレビや映画にいっぱい出て、ビッグな男になるんだぞ」という言葉が、響いていた。遠い昔に、ひたすら夢を追い続ける売れない俳優が言った、あの言葉が。
「パパの……夢……?」
「ん? 雪乃、何か言ったか?」
「……ううん、なんでもないっ! テレビとか出られるのって、すごいなって思っただけ!」
「お、やっとアタシのすごさが分かったか。雪乃も出てみたいだろ? テレビ」
「わたしは、どうしたいのかな……」
「えっ?」
「ごめんね、苺子ちゃん。ちょっと考えさせて。もちろん、挑戦してみたいって気持ちもあるけど……。やっぱり、ママに相談してから決めたいのっ!」
「そっか。そうだよな。雪乃は、まだ小学生だもんな」
「うんっ! でも、今日は苺子ちゃんとおしゃべりできて、楽しかったよ! またここに来てもいい?」
「ああ。また遊びに来な。歌の基本やギターの基礎くらいなら、友達ってことでタダで教えてやる。それで、もし本気で歌手目指してみたくなったら、アタシに教えてくれ。その時は歓迎するよ」
「苺子ちゃん、ありがとうっ!」
「あははっ。苺子ちゃんはやめろってば」
苺子はふところから自分の名刺を取り出し、雪乃に渡した。
「『おせんべいプロダクション』……?」
「アタシの所属事務所の名前さ。小さいけど、良いところだよ。ま、興味があったら調べてみてよ」
「えへへ。わたし、名刺なんてもらったの初めてかも」
「さて、今日はもう遅いから帰りな。話の続きは、また今度にしよう」
「はーいっ! じゃあ、わたし帰るねっ!」
お気に入りのハート型エレキギター。雪乃はそれをリュック式のケースにしまい、背中に背負うと、玄関にある運動靴を履いた。
「ばいばい、苺子ちゃん!」
「またな。雪乃」
ガチャ……バタン。
苺子は、また雪乃が「苺子ちゃん」と呼んだことに少し呆れながら、閉じ切った玄関の扉を見つめた。そして、じっくりと見つめていた。
ほんの数秒前までそばにいた、元気いっぱいの女の子。あの子のことを思い出すと、なんだか心に穴が空いたような気持ちになってくる。また会いたいと、思わせてくれる。
「春日井雪乃……か。面白いやつだったなぁ」
しかし、その刹那。
「きゃあああーーーーーーっ!!」
「なんだっ!? 雪乃の……悲鳴!?」
雪乃の叫び声。扉の向こうから聞こえてきた。
苺子は急いで靴を履き、玄関から飛び出した。
*
「痛いよー! 手を放してっ!!」
「ハァ、ハァ……! 大声、出すんじゃねぇよ……! 端野苺子とはどういう関係なんだって、聞いてるだけだろうが……! お前、苺子の家から出てきただろ……?」
玄関から出てそれほど遠くない場所に、雪乃はいた。
そばには、ハァハァと息を切らした一人の男がいる。雪乃はその男に腕をがっちり掴まれて、逃げることができない様子だ。
苺子は、男に向かって叫んだ。
「おい、やめろっ! 雪乃を放せっ!」
「ふははっ……! 苺子のやつ、出てきやがったか」
「なっ!? あ、アンタは、継本流壱ぃっ!?」
継本流壱。音楽プロデューサー端野苺子にとって、何かとインネンのある男だ。その継本流壱が、何故かボロボロのスーツ姿で、まるで誘拐犯のように、雪乃を強引に捕まえている。
「ずいぶん変わり果てたな。アンタ、何やってんだ」
「ハァ、ハァ……。うるせぇよ、ガキが……!」
「雪乃から手を放せ。その子はアタシの友達だ」
「友達ぃ? なんだ、まだ事務所に所属もしてねぇのか」
「そうだ。アタシがスカウトした子だ。事務所のことについては、これから話を進めるつもりで……今日はまず、友達になったんだ」
「くくっ、相変わらずガキ臭いことを言ってるな。だが、それならちょうどいい。こいつを俺に寄越せよ。ちょうど、素人のメスガキが欲しかったところなんだ……!」
「な、なんだって!?」
流壱は、地面にペッと唾を吐き捨て、苺子に語った。
「取り引きさ……!! もちろん、金は積む。タキハラが消えた今、分け前も俺とお前の半々にしてやる。ここで俺に恩を売っておいて、損はねぇハズだぜ。だから……この雪乃とかいうガキを、俺に寄越せ」
「雪乃を使って、何をする気なんだよ……! 何を考えてるんだ!」
「ふははっ! お前も、この業界にいる人間なら、分かるだろうが。素人の女に価値があることくらい……!」
「まさか……!」
「そういう世界だろ? お前のバンド『BASKET★』のヒットでも、俺がプロデュースしてる『ジュエル・ジェイル』のヒットでも、やり方は同じさ……! 華やかな舞台の陰には、権力者に売られた人間が必ずいるんだよ」
「違うっ! 『BASKET★』は、アタシたちの音楽が評価されたんだっ!」
「くくっ、そう思ってりゃいいさ。いずれ現実が見えてくるだろうよ。……まあ、とにかく今は雪乃だ。こいつには、充分な価値がある」
「誘拐でもする気か? そんなの、雪乃の親が警察に通報すれば……」
「権力者。つまり、社会の闇さ。一度、権力者の手に渡っちまえば、誰も手出しはできねぇよ」
「……!」
「俺に協力しろ、苺子……! 今ここで俺と組むなら、この業界で成功を掴む方法を、教えてやる……!」
ギラついた瞳。苺子は、その瞳の奥にある焦りに似た感情を見抜いていた。ここに来るまでに何があったかは知らないが、継本流壱は、今とても余裕がない状況らしい。
……かつては、仕事のパートナーだった。苺子がステージの上で歌い、流壱がステージの裏で見守る。そして苺子が歌い終わると、流壱は「まだまだ練習が足りないな」と厳しい言葉や、「今日は良かったぞ。苺子」と優しい言葉を、いつもかけてくれた。自分の本質をしっかり見ていてくれる……高校生だった頃の苺子にとって、流壱はそんな大人だった。あの頃は、流壱を信頼する気持ちも、間違いなくあった。
そんなかつてのパートナーに、苺子は近づいた。
「アンタに協力しろ、だって?」
「ふははっ! ハァ、ハァ……昔を思い出すよなァ、苺子……!」
「ふざけんなっ……!」
「あァ?」
バチンッ!!
情け容赦のない平手打ち。
「消えてくれ……!! アタシの前からっ……!!」
苺子は目に涙を浮かべながら、流壱に向かって吠えた。
「最低だ……! アンタ、最低だよっ!!」
「ぐぅっ……!? な、なんだとっ!?」
「もう終わりだ!! アタシの中で、アンタを消すっ!! 二度と、そのツラを見せないでくれっ!!」
「……!」
「雪乃から手を放して、さっさと消えなっ!! このゴミクズ野郎っ!!」
「そうか……! 所詮、苺子もガキだったか。ふははっ、望み通り、雪乃から手を放してやるよ。だが、消えるのはテメェの方だっ!!」
そう叫ぶと、流壱は苺子に飛びかかった。
それと同時に、蹴りを一発。腹部に打ち込まれ、苺子は「うっ……!」という声をあげて体勢を崩した。男と女では、やはり力の差が大きいということなのか、その後は反撃する間もなく、苺子は力づくで地面に押し倒されてしまった。
「痛っ……たぁ……!」
「ハァ、ハァ……。協力しないと言うなら、俺はテメェの口を塞がなきゃならない。まあ、口を塞ぐと言っても、色々な方法があるが……」
「あ、アタシを、どうするつもりだっ!」
「そうだな。まずは憂さ晴らしをさせてもらおうか」
「憂さ晴らし……!?」
「俺ァ、殴られっぱなしでよ。ストレスが溜まってんだ。ふははっ、お前の身体が役に立ちそうだな」
「アタシの身体っ!? な、何を考えて……」
流壱は太い右腕で、苺子が着ているブラウスをぶちぶちと引き裂いた。すると、イチゴ柄のブラジャーに包まれた胸の双丘が晒し物にされ、雄の劣情を煽るように揺れた。
「ふはははっ。なかなか良い身体になったじゃねぇか」
「きゃあっ!? 胸がっ……!」
流壱は、もう理性を失っている。
苺子は顔を紅潮させ、羞恥に悶えた。
「7年前は、まだ女子高生だったよなァ、苺子は。あの頃から魅力的な体つきをしていたが、まさかここまで実るとは」
「嫌ぁっ……! 継本さんっ、やめてっ……!」
「さっきまでの威勢はどうした? 強気な態度はどうした? ん? ほら、生意気な口をきいてみろよ。クソガキが」
「いやだっ……。アタシ、こんなっ……」
「ふはは、女の顔をしてるじゃねぇか。もっと泣いてもいいんだぜ? その方が、俺ァ興奮するもんでな」
「はぁっ……はぁっ……」
狂人。苺子はもう流壱を見ていられなくなり、涙を流しながら顔をそらした。
しかし流壱は、それでも求めてくる。
(苺子ちゃん……!)
……苺子ちゃんが、目の前で苦しんでいる。男の人にムリヤリ押さえつけられて、服まで脱がされて、助けを求めている。それを放ってはおけないと、苺子の友達は立ち上がった。
流壱は、苺子を襲うことに必死で、まだ自分の背後に立つ存在に気がついていない。
「下も脱がせてやるよ。へへっ、暴れるなよ、苺子」
「い……けっ……」
「あァ? なんか言ったか?」
「いけっ……!」
「なんだよ。俺に言ってるわけじゃねぇのか。じゃあ、誰に……」
「思いっきりいけっ!! 雪乃っ!!」
「雪乃っ……!? そういえば、アイツどこに」
流壱が振り返ると、そこにいた。雪乃はさっきからずっと、そこに立って準備していた。
両手で、エレキギターを持っている。小学6年生の女子にとっては、まだまだ重い物体であろう頑丈なエレキギターを持ちながら、大きく振りかぶっている。ロックシンガーには、ギターを叩きつけて破壊するパフォーマンスというものがあるが、まさしくそれをやる時と同じポーズで、雪乃は今、大きく構えているのだ。あとは、全力で振り降ろすだけ。
「苺子ちゃんを、いじめるなぁああーーーーっ!!!!」
バキィッ!!
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──
*
「というわけなんだよ。風太くん」
「そうなんだ……」
あれから一日が経ち、その日は平日。
月野内小学校。6年1組の教室。2時間目の特別活動の授業の時、雪乃は昨日の出来事を『風太』に話した。机の上には、ボッキリとへし折れた、ハート型エレキギターを置いて。
「後悔はしてないけどね。ギターちゃんのおかげで、苺子ちゃんを守れたわけだし」
「それから、お父さん……じゃなくて、継本って人はどうなったの?」
「目を回して、気を失ったみたい。苺子ちゃんは『あとはアタシが片付けとくから、雪乃はもう帰りな。怖い思いさせてごめんな』って言ってた」
「そっか……。ごめんね、雪乃ちゃん。あなたにも迷惑かけて」
「え? どうして風太くんが謝るの?」
「娘……じゃなくて、知り合いだったの。その継本って人とは。全然仲良くない、遠い昔の、ずーっと昔の知り合い!」
「ふーん、そうなんだ。わたし、殴っちゃってよかったのかな?」
「もちろん。わたしも殴りたいと思ってたくらいだもん。雪乃ちゃんがやっつけてくれて、気分がスッキリしたよ」
「えへへ、それならいいかな」
父親ではなく、一人の悪人が成敗されただけ。美晴は、すっかりそう思えるようになっていた。そして、継本流壱が無事に大人の手に引き渡されたことを、心の中で喜んだ。
「ねぇ、雪乃ちゃん。歌手の話はどうするの?」
「歌手? スカウトされたこと?」
「うん。苺子さんって人の話、受けるの?」
「そっちは考え中。やりたい気持ちはあるけどね。まずは、ママに相談しなくちゃいけないし、それに……」
「それに?」
「ちょっぴり怖い世界だなって、思っちゃって」
「そっか……。そうだよね、誘拐されそうになったもんね」
「ゆっくり考えてから決めるよ。……風太くんは、わたしが歌うの上手くなったら、嬉しい?」
「えっ!?」
「もし上手くなったら……わたしの歌、聞きたい?」
雪乃の質問に対して、美晴は『風太』としての答えを探した。
「き、聞きたい……よね? ううん、きっと聞きたいと思う! 聞きたいよ、雪乃っ!」
「ほんとっ!? えへへっ、そうなんだぁ」
「あの人なら、きっと雪乃ちゃんにそう言うハズだもん……」
「えっ? 風太くん、何か言った?」
「ううん、なんでもない」
美晴の心に、少しだけモヤモヤした感情が生まれた。雪乃は魅力的な自分を見つけ出そうと努力してるのに、自分は何もしていない……という、劣等感のような気持ちだ。美晴は、まだまだ自分は雪乃と張り合えるような存在ではないと、哀しく悟った。
「どうしたんだ、風子ちゃん。そんな顔して」
一つ前の席に座っている、健也という少年。こちらにくるりと振り返り、心配して声をかけてくれた。とても暖かくて優しい言葉……ではない。
「うん。ちょっとね、考えごとを……って、風子ちゃんっ!!? 誰がっ!!?」
「お前に決まってるだろ。帰ってきてくれて嬉しいぜ、メス風太」
「わ、わたしっ、メス風太じゃないっ!」
「『わたし』って言ってるじゃん」
「おれっ! おれは、メス風太じゃないっ!」
「いやいや、否定すんなよ。お前は、その路線の方が、キャラが濃くてちょうどいいんだ。クラスのみんなも、今日は男の風太が出るか、それとも女の風太が出るかって、楽しんでるんだぞ」
「わたし、そんな風に思われてるんだ……。え、演技力をあげなきゃっ! 風太くんに、もっとなりきらないと……!」
「まあいいや。そんなことより、ほら、プリント。あとは、お前と雪乃の名前だけだぞ」
「名前……?」
健也が差し出したプリントには、名前を書くための空欄が二つあった。
そのプリントの名目は……「6年生の修学旅行 第一班 メンバー表」。
「しゅっ、修学旅行っ!!?」
「なんだよ、いきなり大声だして」
「違うっ、忘れてたのっ! 修学旅行のことっ! 健也くん、この修学旅行って、いつだっけ!?」
「来週……だけど。おいおい、大丈夫かよ風太」
完全に忘れていた。入れ替わり騒動に関するアレコレで忙しくて、修学旅行のことなど、気にも留めていなかった。
知らぬ間に、旅行の計画はもう全て決定していたらしい。あとは、名前を書き入れるだけ。
(風太くん、大丈夫かな……)
『風太』は『美晴』の身を案じながら、メンバー表のプリントに、少年の名前を書き入れた。
6年1組 第一班 メンバー表
・ 健也
・ 宙
・ 笑美
・ 緩美
・ 雪乃
・ 風太
*
残念ながら、『風太』の予感は的中していた。
恐れていた事態が、隣の6年2組の教室では起こっていた。
「なんだよ……これ……」
修学旅行が来週に迫っていることを聞かされた『美晴』も驚き、メンバー表の名前を見て、愕然としていた。プリントに名前を書き入れることすらためらわれる……そんな現実が、目の前にあったからだ。
クラスの余り物である『美晴』が、誰からも避けられる『戸木田美晴』が、修学旅行の班を、自由に選べるはずがない。
「いいパンチだったよ。美晴ちゃん」
蘇夜花の甘い声。
『美晴』の耳元に、そっと置かれた。
「ふふっ。楽しもうね、修学旅行」
6年2組 第一班 メンバー表
・ 蘇夜花
・ 五十鈴
・ 界
・ 真実香
・ 牟田
・