見せたくなかったもの
「美晴も、早くお風呂に入りなさい」
美晴のお母さんはそう言うと、また奥の部屋へと戻っていった。
(お風呂……?)
お風呂だ。
これから入浴をする。
(ふ、風呂っ!?)
改めて、『美晴』は現在の自分の格好を確認した。
『風太』が着せてくれたパーカーは、肌の露出が少なく、締めつけのない楽な服だった。この服を着せられた時は、目をつぶるように言われていたので、『美晴』はまだ、この服の下に何があるのかを知らない。
*
立ち上がり、まずは洗面所に向かう。風太の家と同じく、美晴の家も洗面所の奥に風呂場がある。
あまり深くは考えずに、『美晴』は洗面台の鏡の前に立った。鏡の中の少女は、どうしたらいいのか分からず、困ったような顔でこちらを見返している。
(当たり前だけど、この服を脱ぐってことだよな……)
ひとまず、『美晴』は歯を磨くことにした。歯を磨き終わったら、その覚悟を決めないといけない気がして、わざとゆっくり丁寧に磨いた。
(じょ、女子の裸なんて……!)
見たことはない。
4歳か5歳ぐらいの時に、女の子と一緒に風呂に入った記憶がぼんやりあるくらいで、女体と呼べるようなものをしっかりと見た覚えはない。
(だって、こんなの……! え、エロ……だろ……!?)
人並みに、異性に興奮することはある。性知識は乏しく、まだあまり理解していないことも多いが、健全な男子としての性欲はちゃんと持っていて、それなりに反応もする。
しかし、そういうことを大っぴらに好むのは「エロ」であり、「エロ」は男子からは笑われ、女子からは嫌悪されるということも知っていた。だから、積極的にそういう行動や話をしないようにはしていた。
硬派な男でありたい風太は、「エロ」も恋愛と同様に優先順位が低いものだと考え、カッコ悪いものだと思い込んでいた。
(おれはエロじゃない……!)
しかし現在、周りには誰もいない。つまり、美晴の身体をどのように扱うかは、全て自分で決めることができるのだ。
風太は激しく葛藤し、小学6年生男子の脳には様々な考えが浮かんだ。
「裸を……見る……か……?」
前に突き動かすものは、4つある。
まず、「今日はたくさん汗をかいたので、身体を清潔に保つためには、入浴をするべきだ」という気持ち。
次に、「そもそも、どうして美晴のプライバシーなんかを気にしなくちゃいけないんだ」という気持ち。
そして、「もし、しばらく入れ替わり生活が続くのなら、一度も裸体を見ずに生活するなんて、絶対に不可能だろう」という気持ち。
最後に、「見たことがない物に対する純粋な興味」だ。
「いやいや……! 見ない……でおく……か……?」
この4つを抑えこんでいるものは、2つ。
まずはプライド。一度「エロ男子」になったら、二度と硬派な男には戻れない。「おれはヘンタイかもしれない」と思いながら生きていくのは嫌だった。
そしてもう一つは、5年生の時に雪乃が言ったある言葉だ。
*
去年の修学旅行の日。月野内小学校の5年生は、とある旅館に泊まることになった。
風太や健也を含む男子グループと、雪乃や実穂を含む女子グループは、早めに温泉から上がり、マッサージチェアなどがある休憩スペースで、みんなでトランプをして遊んでいた。
するとその最中、女湯の方から「キャーーッ!!」という悲鳴があがった。
すぐに先生たちが駆けつけ、原因を調べると、その原因は自称「エロ・スペシャリスト」の少年、勘太だった。一応、風太のクラスメートである。
勘太は、女湯の脱衣所に「潜入捜査」していたらしい。
その後、女子からは「勘太キモすぎ」「最低」「死んじゃえ」、男子からは「またやってるよアイツ」という感想をもらった勘太は、複数の先生からこっぴどく叱られ、事件は無事に解決した。
風太と健也は、その様子を遠巻きに見て、「まぁ、勘太がこのチャンスを逃すわけないよな」「やるとは言ってたけど、まさか本当にやるとはな」と、冗談めかして笑っていたが、雪乃だけは不快感を示し、「笑いごとじゃないよ。本当に傷つく女の子もいるんだから。風太くんも健也くんも、絶対にあんなことはしないでね」と、真剣な顔で注意してきたのだ。
*
雪乃のその言葉が、今になって心の奥で響いている。
『美晴』は、すでに服の襟に指をかけていたが、その言葉の力で踏みとどまっていた。
(さっき美晴は、目を閉じるように言ったけど……やっぱりそういうことなのか? もしも美晴が、「本当に傷つく女の子」だったとしたら、おれは……!)
雪乃に顔向けできない。雪乃や美晴のことを考えるなら、これ以上進むわけにはいかない。
そしてまた、風太の中での葛藤はしばらく続いたが、その結末は不意にやってきた。
「ん……?」
グイグイと引っ張り続けて緩んだ襟元から、自分の右肩のあたりがチラリと鏡に映った。
(なんだ? 今の……)
『美晴』は、チラリと見えたものを確認するために、右腕の袖をまくった。肩までまくって鏡に映すと、それが何かハッキリと分かるようになった。
(なっ!? え、えぇっ!?)
青黒いアザ。痛々しく内出血している。
服で隠れているせいで、今まで気付くことができなかったのだ。『美晴』は左手をそこへ近づけ、恐る恐る擦ってみた。
「うぁっ……!!」
思わず、声を上げた。強い痛みによるものだ。
そこに少しでも力を加えると、ビリビリと激痛が走る。
(ここって、まさか……)
初めて美晴と出会った時に、風太がぶつかってしまった箇所だ。
この青アザの原因が、激突した風太なのか、それより前からできていたものなのかは分からない。しかし、少なくともあの時の美晴が、この激痛を声も上げずにガマンしていたことは確実に分かる。
(なんでだよ……! なんでガマンしたんだ……! おれが悪いんだから、おれを責めればよかったのに……!)
『美晴』は、鏡に映った自分を……彼女を直視することができなかった。
そいつが、極悪人であってくれれば、こんなに悩むことはなかったのだ。戸木田美晴という少女の優しさになんか、触れたくなかった。
*
服は一着も脱がず、もちろん風呂にも入らず、濡らしたタオルを右手に持って、『美晴』は部屋へと戻った。
そして、上を向いて目を閉じながら、自分の服の中に手を突っ込んで、全身を一生懸命に拭いた。入浴ができない故の、苦肉の策だ。
「……」
首を拭き、腕を拭き、腹を拭いたところで、次に胸に取り掛かろうとした。
「……?」
がさっ。
「……!」
しかしそこには、布。成長中の胸を優しく包む布が、素肌に触れさせてくれなかった。
(こ、これは美晴の……! ブ、ブラ、ブラジャー……!)
タオルを握った手を少しずつ動かし、ブラジャーごしに膨らみの形を確かめる。
(うわっ! あ、あるっ……! ど、どど、どうしよう……!)
考えないようにしていたものに、ぶつかってしまった。『美晴』は手を止め、一度服の中から手を抜いた。
しかし、目は開けない。開けるわけにはいかない。そして脳内に雪乃を呼び出し、もう一度あの言葉を言ってもらう。
「本当に傷つく女の子もいるんだよ。風太くん」
忘れてはいけない。
(とりあえず、ここは保留にしよう。触るな、触るな……)
できる限り全身を拭くつもりだったが、胸だけは避けることにした。
そして、それが終わると、疲れきっていた『美晴』はベッドに横になり、そのままぐっすりと眠ってしまった。
*
翌日の朝。
「ん……」
瞳を覆い隠すような前髪をかきあげ、上体を起こす。
(全部夢だった……なんてことはないか)
部屋を見渡しても、本来の自分の私物は一つもない。『美晴』は小さくため息をつき、脚をベッドから降ろして立ち上がった。
「学校……行かない……と……」
まずは着る服を探す。
スカートをはくことには抵抗があったので、デニムパンツをクローゼットから見つけだした。
「……」
本日着る予定の服をベッドの上に並べ、これから潜水でもするかのように大きく深呼吸すると、『美晴』は覚悟を決めた。
目を閉じて、着ていたルームウェアを全て脱ぎ捨てる。そして、下着姿のままベッドの上の洋服に手を伸ばし、着る、はく。少し袖口が迷子になり手こずったが、結果的には無事成功した。手触りでミッション完了を確かめ、ゆっくり目を開ける。
(よし、着替えられたな。雪乃も美晴も、これで文句はないだろ)
最後に、新しいブラジャーとパンツを手早くクローゼットの奥から引っ張り出し、適当な袋に包んで赤いランドセルにつっこんだ。
(下着は、こうするしかない……)
とにかく、やれるだけのことはやった。
その後、『美晴』は朝の準備を一通り済ませ、美晴のお母さんと一緒に玄関を出た。
「美晴、いってらっしゃい」
「いってきます……」
新しい自分になっての、初めての朝。
(はぁ……。さっさと終わりにしたいな。こんな不便な生活)
集団登校に合流したが、いくつかの地区の集団が混ざり合っていて、結局みんなバラバラで登校している。
周囲の下級生たちが友達と仲良く登校するなか、『美晴』は一人でトボトボと、通学路を歩いていた。
(ここにおれがいるってことを、誰も意識してないな……。なんだか、風景の一つになったみたいだ)
そう思うと少し寂しくなって、『美晴』の歩幅はどんどん小さくなっていった。話し相手のいない、独りぼっちの通学路は、とても長い距離を歩いているように感じた。
「おはよー、美晴ちゃん」
バシッ!!
突然、誰かが背中の赤いランドセルを、乱暴に強く叩いた。『美晴』が少しよろけて振り返ると、そこには丸い目をした女の子が立っていた。
「昨日は楽しかったね。今日もがんばってね」
その子と目を合わせると、『美晴』の心臓の鼓動は、急激に速くなった。




