二人暮らし
「ただいま、美晴」
玄関には、ビジネススーツを着た大人の女性が立っていた。
キレイに分けられた前髪と、うなじのあたりで束ねられた長い後ろ髪。右肩にはバッグを提げ、左手にはスーパーの買い物袋を持っている。
口元には笑みがあったものの、その女性は完全に疲れきった顔をしていた。
「お、おかえりっ……!」
反射的に、『美晴』は返事をした。
しかし、さっきまでとは違い、自然に大きな声が出た。まるで雪乃みたいな、女の子らしく可愛げのある元気な声だ。
(美晴って、こんな声も出せたのか)
『美晴』が自分の出した声に驚いていると、その女性は『美晴』が持っているおはなしボードからマーカーを取り、さらさらと文字を書いた。
《すぐに晩ご飯の用意をするから、お部屋で待っててね》
そして、呆然と立っている娘の横を通り過ぎ、奥の部屋へと入っていった。
(今の人が、美晴のお母さん……)
『美晴』はそれを黙って見送ったが、「ご飯」というワードを見てしまったせいで、お腹の方は黙っていられずに「グウゥ~」と声を上げた。
(ああ……そういえば、この身体になってから何も食べてないな)
時間もかなり遅い。普段の生活なら、とっくに晩ご飯を済ませて、もうリビングでテレビでも見ている頃だろう。
とりあえず、『美晴』は大人しく「みはるのへや」で晩ご飯の用意を待つことにした。
*
美晴の部屋の内装は、一言で言うと「地味」だった。同じ年ごろの女子でも、雪乃の部屋はもっとハデハデでゴチャゴチャしている。
濃い色や派手な色の家具はほとんど無く、全体的に淡い。ただ、ぬいぐるみやクッションなど、部屋にある可愛い小物が、ここが女子の部屋であるということを証明していた。
黒い電気スタンドがあるのは学習机で、その机の上には、さっきまで『美晴』が背負っていた赤いランドセルが置いてあった。ランドセルからは体操服袋が外されているので、おそらく『風太』はその辺りを中心に片付けたのだろう。
「……」
そして、この部屋で一番目立つ存在は、大きな本棚だった。マンガや雑誌も少しは置いてあるものの、童話や小説、伝記や図鑑あたりが本棚の大半を占めている。
(本が好きなのかな? まぁ、あいつの見た目だとイメージ通りか)
今は自分が「あいつの見た目」になっているということを忘れて、地味な美晴が、地味に教室のすみっこで読書をしている姿を、『美晴』は想像した。
*
しばらくして、美晴のお母さんの呼ぶ声が聞こえたので、『美晴』は地味さの塊のような部屋から出て、奥の部屋へと入った。
(知らない女の人と二人きりで食事か……)
リビングとダイニング、そしてキッチン。LDK。
ダイニングの机の上には、2人分の食事しか用意されていなかった。というのも、風太の家は両親と兄と自分の4人家族で、ダイニングにはいつも4人または3人分の食事が用意されているので、美晴の家の食卓がとても寂しいものに見えてしまったのだ。
(おっ、エビフライだ)
戸木田家の晩ご飯。レンジで温められたばかりの市販のエビフライ弁当が、テーブルの上で風太を待っていた。
「いただきます……」
二人でテーブルを挟んで、互いに無言のまま、黙々と食べ進める。美晴のお母さんはかなり疲れているらしいので、『美晴』としても無理に会話をしようとはせず、エビフライに集中した。
しかし、まだ半分近く弁当が残っているあたりで、『美晴』は満腹になってしまった。普段ならば、こんな少量で満腹になることはあり得ない。
(まさか……食べられる量まで、美晴になってるのか?)
美晴の身体なのだから、胃袋の大きさも美晴になっていて当たり前。しかし、こんなところまで美晴化の影響が出ていることに、『美晴』は少し怖くなった。
「無理して食べなくていいわ。残すなら、そのまま置いておきなさい」
美晴のお母さんがそう言うので、『美晴』はしばらく迷った挙げ句、弁当をそのまま残した。
その頃には、美晴のお母さんはすでに食事を終えて席を立ち、キッチンシンクで洗い物をしていた。
*
ベッドのそばにあるデジタル時計は、21:00を表示した。
『美晴』は再び美晴の部屋に戻り、学校へ行くための準備を始めていた。今日はとにかく時間がなかったので、明日学校でまた『風太』に会い、今度こそしっかり時間を作って話し合うのだ。
「えっと……。明日……持っていく……教科書……は……」
時間割を確認し、明日必要のない教科書やノートを、ランドセルから取り出していく。明日は国語の授業がないため、何冊か取り出した本の中には、美晴の国語のノートもあった。『美晴』はなんとなく、興味本位でそれを開いた。
(うわぁ、キレイな字だ……。丁寧にまとめられてるし、読みやすいな)
風太の「文字が太くてムダに大きい、落書きだらけのノート」とも、雪乃の「良い香りがするペンや蛍光マーカーで、カラフルにデコレーションされたノート」とも違う。美晴のは「授業の要点を分かりやすくまとめた、キレイで見やすいノート」だ。
(あいつ、国語が得意なのかな)
続いて、理科のノートも広げてみる。
やはり、それもキレイにまとめられていて、授業をマジメに聞いていることが分かる。
(ふーん、美晴はマジメ系か。まぁ、大人しい女子って、だいたいしっかり勉強してるもんな)
「大人しい女子」は、「活発な男子」である二瀬風太とは、正反対の存在だ。しかし今の自分の姿は、その正反対の存在に変えられてしまっている。
とりあえず明日は、戸木田美晴として月野内小学校に行かなければならない。余計な騒ぎを起こしたくなければ、美晴のようにマジメに授業を受け、教室のすみっこで静かに大人しくしていなければならない。
(う……。不安だな。男子として自由に生きてきたおれに、そんなことできるのか……?)
ふと振り返ると、クローゼットの手前にある姿見が目についた。
そこに映っているのは、相変わらず風太ではなく『美晴』。周りの人間からはこう見えているぞと、改めて教えてくれている。
「おれが……この女子の姿で……学校……に……?」
ドクン。
「ん……!? なんだ……!?」
心臓がドクンと鳴り、鏡に映る自分の姿がブレた。それが二度と三度と続き、次第にドクンドクンと止まらなくなっていった。
(き、緊張……!? なんで緊張してるんだ!? 急にどうしたんだよ、この身体はっ!!)
胸が苦しくなり、呼吸がし辛くなる。
それと同時に、『美晴』の脳裏には一つの言葉がチラついていた。
「学校……?」
学校。義務教育を受ける場所。小学生が、毎日行かなくてはいけない場所。教室という閉鎖空間で、自分と同じ年齢の子たちと一緒に過ごし、何時間もの苦痛に耐える場所。
「はぁ……はぁ……。学校が……なんだよ……! なんで……学校のことを……考えただけで……こんな風にっ……!」
姿見に映る『美晴』と、目が合った。
哀しそうな目でこちらを見て、何かを伝えようとしている。
「わ……わたし、は……」
バサッ。
向こうからの言葉を遮るように、姿見の上から布をかけ、何も映らないようにした。
「消えろ……! 何が……『わたし』だよ……! おれは……風太だろうが……!」
しかし、姿見を封印したとしても、この部屋の中にあるのは美晴の机、美晴のランドセル、美晴のベッド……。
当然ながら、風太の私物などは一つもない。この部屋の全てから戸木田美晴を感じ取ってしまい、「おれは二瀬風太だ」と自我を強めることができない。
「く、くそっ……!」
不安定な精神を抱えた自分が怖くなって、『美晴』は部屋から飛び出した。
*
「はぁ……。少し、落ち着いた……」
特に目的もなく玄関まで歩くと、そこには靴が並んでいた。美晴の靴の隣には、美晴のお母さんの靴がある。
やはり、この家のどこを見ても、二人暮らしである形跡しかない。
(そうか。美晴には、お父さんがいないのか……)
死別か、または離婚か。
『美晴』は腰を降ろし、保健室で『風太』に掴みかかったことを思い出して、少し反省をしていた。「あんなことをするんじゃなかった」と、すぐに感情が昂ってしまう自分を恥じた。
するとそこへ、美晴のお母さんが後ろからやってきて、玄関で座り込む娘の背中に向かって、こう言った。
「先にお風呂入ったわよ。美晴も早く入りなさい」




