第73話 勇者様、連絡を受ける
ー世界樹ー
魔界に広がる森の生命の源である世界樹は、万物を包み込んで遥かな天空へと伸びている。その圧倒的な巨大さは、枝の合間に生まれる隙間にさえ、人々が生活できるほどの空間を作り上げるほどだ。その枝葉が絡み合い生み出す天蓋の中には、時折陽光が斑模様となって差し込み、まるで自然に発生した生態系の一部であるような居住空間が広がっている。また、それ以外にも、自然のくぼみや空洞を巧みに利用し、ドリアードたちは世界樹を一切傷つけることなく暮らしている。
彼らにとって最も重要な女王の間も世界樹に自然にできた空間を利用したものだが、外側からはそれが何処にあるのか、一切分からないように隠され、さらに強力な魔法の防壁で守られている。世界樹が持つ魔素を利用した防衛術は、物理的な攻撃も魔法的な侵入も容易には叶わない。その場所は、ドリアードにとって神聖でありながら、有事の際には戦略的な拠点として機能する。
一般的な居住区とされる場所は、ドリアードが持つ独自の色彩感覚で装飾され、それは人間の感性とは少々異なる。世界樹の周辺で採取された天然素材を使った布に顔料を使い、過剰なほど色彩豊かに装飾された光景は、咲き乱れる花々を連想させるほど芸術性に富んでいる。
世界樹から発生する魔素はその大きさに比例して膨大で、彼らの生活を支えるのに十分な量を供給している。ドリアードはこの魔素を利用した魔法を駆使し、空気や水、そして光の循環と浄化を手助けしている。この仕組みにより、居住区の内部はいつも澄み切った空気が漂い、透き通るような清水が枝の間を流れる。光は幹を透過し、柔らかな明るさをもたらすため、人工的な明かりに頼る必要がない。こうした環境は、自然そのものと調和しながらも、快適で豊かな暮らしを実現している。
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オレンはフェイに連れられ、世界樹の上部、主枝の分かれ目に開けた広場へと足を踏み入れた。その場所は、大地が霞むほどの高さであるはずなのに、生い茂る葉むらによって風は穏やかに流れ、陽光は柔らかく降り注いでいた。
その広場には、細身のドリアードたちの中でもひと際逞しい体格の者たちが集まっていた。フェイはそのうちの槍を携えた男に近づき、軽く頭を下げて声を掛ける。
「モラード隊長、こんにちは。」
「おや、フェイか。珍しいな、こんなところに。…ん?」
目線を上げたモラードの視線はすぐにオレンへと向けられた。その瞳には信念と鋭さが宿り、見る者を射抜くような力があった。
「お前が、あの少年か。なるほどな…。」
モラードは、オレンの顔を一瞥しただけで、二人がここに来た理由を一人納得し頷いた。そして、オレンの価値をまるで嗅ぎ取るように鼻を鳴らしながら呟いた。
「…、ふん。このような人間をこの地に留めて、女王も一体何を考えておられるのやら…。」
「女王のお心を計り知るなど、我々の及ぶところではありません。」
ため息交じりの囁きに、フェイは表情を崩さず、二人のどちらにも敬意を込めた口調で答えた。
モラードはふと肩をすくめ、オレンに視線を流すと、今度はハッキリとした声で話した。
「まあ、それは、な。だが…、見たところ、戦士としては使い物にならんだろうな。」
「ええ、そうでしょうね。」 フェイは微かに笑みを浮かべながら頷き、続ける。
「この子は、カルダバの所へ連れて行くつもりです。その前に、この世界樹で暮らす我々を知ってもらおうと思いまして。」
モラードは納得したそぶりを見せた後、手にある槍を無造作に構えた。そして次の瞬間には流れるように、その槍先をほんの少しの揺れもなく、オレンの胸元に向けた。
「…なあ、少年よ。」 その声には低く響く威圧感が滲む。
「お前にもし邪な心があると分かれば、その時はこの槍が、お前の心臓を貫くだろう。」
刃先に反射した光が、目を刺すように煌めく。オレンは思わず息を呑み、その場に立ち尽くした。しかし、モラードは槍をすぐに下ろし、口元をわずかに歪めた笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「精々、そうならんように励めよ。ハハハ…。」
その言葉を最後に槍を背に構え直し、モラードは踵を返してその場を離れた。オレンは冷や汗と共に、深く息を吐き出しながら、先ほどまでの気迫が残る空気の中に、かすかな寒気を感じていた。その一方でフェイは、こうなることが分かっていたかのように、何事もなく微笑み、次へと先を促した。
フェイはオレンを世界樹の隅々まで連れて行った。モラードが釘を刺したように、もし新参者に悪意があれば、その行為は不用心とも思えたが、フェイは全く気にする気配もなく案内を続けた。その先で出会ったドリアードの人々の反応は、他種族であるオレンに対して必ずしも好意的とは言えなかった。しかし、それでも女王の威光のおかげか、あからさまな敵意を向けられることはなかった。
そして、日が落ちかけたころ、フェイはこれまでにも見てきた中でもとりわけ異質な場所にオレンを連れていった。その場所は、世界樹の内部で黄金色に輝いていた。その光の源をよく見てみると、それは世界樹の樹液だった。固化した樹液がガラスのように磨かれ、部屋の四方を囲むように配置されている。まるで金色の温室のようなあたたかい光に包まれた部屋の中央には、まだ固まらぬ樹液が流動し、それを静かに見つめている男がいた。その男は我々に気づくと、軽く会釈をし、挨拶をした。
「やあ、フェイ。それにオレン君。ようこそ、待っていましたよ。」
その意外な挨拶と、自分の名前を知っていたことにオレンは驚いたが、フェイは何食わぬ顔で言葉を返した。
「すいません。遅くなってしまいました。」
そんな二人を見て、男はほのかに笑みを浮かべ、ここに来るまでの行動を見て来たとでも言うように言葉を続けた。
「何も知らずにここに来て、戸惑うことも多いでしょう。新しい世界の様々なことを一度に見聞きして、お疲れかとも思います。ですが、もう少しの辛抱を。
私カルダバから、君にとって最も重要なことをこれから教えましょう。」
カルダバの落ち着いた声と、穏やかな笑みを浮かべて語る言葉は、オレンの心を引き込んだ。
「我々は母なる世界樹の恩恵を受け生活しています。そしてここでは、その恩に少しでも報いる為、ささやかではありますが、世界樹の繁栄のお手伝いをしています。」
「この世界樹の樹液は、いわば体を巡る血液のようなものです。大地から吸い上げられた養分とともに、魔素を蓄え、世界樹の隅々にまで行き渡らせています。こうして流れ続けることで、世界樹はその巨体を維持し、成長し続けるのです。」
「しかし、それだけでは十分ではありません。これほど巨大となると、蓄えられた樹液は時に淀みが生じ、内部で滞留し、枯渇する部分も出てきます。私たちはそれを防ぐため、魔素の流れを管理、調整する役割を担っています。」
「そして、これからは君にもそのお手伝いをして頂きます。」
「…、えっ?!…」 その突然の提案は、ただただオレンを驚かせた。
「君には、まずこの魔素の流れを知ることから始めてもらいます。そして、世界樹と意識を同調させ、その流れを感じ取り、いずれは自ら制御する術を学んでもらいましょう。」
オレンはその説明を聞いて、戸惑いながらも口を開いた。
「でも、僕は魔法など使えませんよ。」
「それはご心配なく。」 カルダバは、その答えを予見していたように微笑んだ。
「魔法のエネルギーとなる魔素は世界樹が与えてくれます。この世界樹と意識を同調できれば、魔素を生み出す魔子がなくとも、世界樹の魔素が応えてくれるはずです。ただ、魔法を使ったことが無いのであれば、少々訓練は必要でしょう。」
その言葉は、オレンにとって信じがたいものだった。オレンが知っている魔法とも、魔子回路とも異なる理論体系だった。しかし、オレンの世界では魔素が潤沢に溢れる場所など見たことも聞いたこともない。そんな世界の常識が違うのなら、それも全くの荒唐無稽とも言い切れない。だがそれでも、自分に魔法が使えるなど、想像すらできなかった。
いや、そもそもなぜ自分に、そんな役割を任せるのだろう。
思い悩むオレンをよそに、カルダバは変わらぬ穏やかさで言葉を続ける。
「…、そうですね。もう日が暮れてきましたし、訓練を始めるのは明日からにしましょうか。
今日一日、ゆっくり休んでください。また明日、ここへおいでなさい。」
まるで客人をもてなすかのようなその口調に、オレンは感謝よりも戸惑いを覚えた。ここに来る前、己の死すら覚悟していた彼にとって、この思いがけない厚遇はあまりにも現実味が薄かった。心の整理が追い付かない一方で、明日から始まる新しい日々がどのようなものになるのか、わずかな期待と不安が胸の中でさざめいていた。
フェイと共にカルダバのところから出ると、ちょうど日が沈もうとしていた。山をも越える世界樹からの景色は、遮るものが何もなく、地平線の彼方へと沈んでいく太陽の姿に、オレンは内なる不安を忘れ思わず目を奪われる。世界樹から見晴らす美しい茜色とそれに続く紺色に見惚れていると、視線の外からふと声を掛けられた。
「見てたわよ。」
その声にオレンが視線を戻すと、その声の主が長く伸ばす影の半分ほどの背丈の少女が目に映った。その少女は、ドリアードにしては珍しい単色の水色の髪をしていた。
「あなたが外から来た人ね。私は、ウィーナ。よろしくね。」
大きな眼鏡に夕日を映しながら笑顔を見せる少女は、そう言って握手を求めてきた。思わぬ登場にオレンは驚いたが、その小さな手に引き寄せられるように、少女の手を握った。
「オレンです。よろしく…、お願いします。」
その手の感触と、人懐っこい少女の仕草は、ドリアードとは違う懐かしいというにはまだ程ない人間味を感じさせた。それはオレンに、自分と同じ境遇の人がいるのかと思わせた。しかし、それにしては彼女はのびのびと奔放で、そして幼く見えた。
「ねえ。あなたは何処から来たの? 年は? 好きな食べ物は?」
距離感が掴めず戸惑うオレンに、興味津々なウィーナは目を輝かせて躊躇なく質問を投げかける。答えるのを待たずに重ねられる質問に、オレンは困り果てた。
「ほらほら、ウィーナ。困っているでしょう。彼も疲れているから、また明日にしなさい。」
それを見かねたフェイは、まるで少女の母親の様に振舞いウィーナをたしなめた。
「う~ん、残念。でも仕方ないわね。じゃ、また明日ね!」
ウィーナは肩をすくめながらも意外と素直に引き下がると、小さく手を振って、軽やかにどこかへ走り去っていった。仲の良い友達にでも送るようなサインを受け取ったオレンは、少し照れながら自然と口が緩んだ。
「変わった子だな…。」
「確かに、ちょっと変わっているわね。」
オレンの漏れた本音を聞いたフェイは微笑みながら、どこか楽しそうにその言葉に同意した。
その後、オレンは居住区へと案内された。そこで用意された食事と寝床は、決して贅沢とは言えなかったが、少なくとも飢えをしのぎ、疲れた体を休めるには十分なものだった。それには、オレンが覚悟していた扱いを遥かに上回る温かさがあった。
夜になり、一人の静けさが訪れると、オレンは今の状況を整理しようと考えを巡らせた。しかし、いくら思案を重ねても、なぜ自分がこんなもてなしを受けているのか、その理由はわからなかった。ドリアードたちの対応には、依然として拭いきれない疑念と不安が残り、だが同時に、どこか安堵に似た感情も生まれていた。相反する感情が胸を満たし、心の中で混ざり合う。そうして、答えの見つからぬまま、オレンの長い一日は幕を閉じた。




