第72話 勇者様、決められない
ページの言葉は、意味の重さに対して、あまりに軽すぎてどう捉えていいか分からなかった。ミーヤはまず深呼吸をした。何かの悪い冗談か、あるいは夢でも見ているのかと思ったが、そんな訳がないと心を落ち着かせる。じゃあ、その言葉の真意はどこかと、ミーヤが顔を上げるのを待っていたように、ページは話始めた。
「このみかんは、世界樹の実から生まれた子供のようなものです。死者を生き返らせるほどの強力な魔子を秘めた世界樹の実ほどではありませんが、このみかんも魔子を含む魔法植物の一種です。
さて、ではこのみかんを口にすれば、どのような変化が起きるのでしょうか?」
ページはまるでミーヤに対して講義でもするかのように、丁寧に分かりやすく話を続ける。
「魔法植物を口にすれば、体内に取り込まれ魔素となり、一時的に魔法力が増強される。一般的に魔法植物の効果とは、摂取した者の生命力や魔法力の向上に結びつくことが多く、このみかんもまた同じと考えるのは、自然な仮定です。」
彼の論理立てた言葉には反論の余地がなく、それは静寂を連れてくる。
「ただ、魔子というもの自体は、目に見えるものではありません。我々は、強い魔子によって生み出される魔素が、エレメントに干渉して起きる魔法現象の観測をもって、間接的に魔子を計っているにすぎないのです。」
ページは淀みない言葉を一区切りし、視線をミーヤに向けた。
「…では、もしもその魔子を長期間にわたり摂取し続けた場合、果たしてどうなるでしょう?」
ページの声は静かながらも、隠された鋭さが潜んでいた。彼の視線がまっすぐ貫き、ミーヤは理解する。この問いかけが示す対象は、自分自身であることを。
「本来、人に宿る魔子は、生まれてから大きな変化を見せることはありません。魔法に習熟することでエレメントとの相性が高まり、魔法の威力や精度が向上することはありますが、エネルギー源となる魔素を生み出す魔子そのものは成長しないとされてきました。」
これは魔法の基礎としてミーヤもよく知っている常識だった。
「ですが…、我々はある予想を立てています。長期にわたり魔子を摂取し続けることで、体内に魔子が蓄積され、変質する可能性があるのではないかと。」
その常識から外れたページの予想の意味するところをミーヤは理解する。
「…、魔法植物というものは極めて稀少であり、それを定期的に摂取した事例など、これまで存在しません。しかしもし、長期にわたり摂取された魔子が、一滴一滴が集まり泉を形成するように少しずつ流れ留まり、大きな塊となるとしたら…。」
ページは明言を避けている。ミーヤが極めて例外的な存在であるかもしれないことを。それを明言しないのは、まだ可能性の段階であるからと、そして何より、ミーヤがそれを受け止められない可能性もあるからだった。
「ただ…。」 ページは目を伏せた。
「それは必ずしも人体に良い方向に作用するとも限りません。身に余る大きな力は、ときに自身を滅ぼすことにもなります。資格の無い者が強い魔子を取り込んだところで、良い結果には繋がらないでしょう。」
ページは伏せた目を上げ、ミーヤを見つめる。
「しかしですね、一つ重要な兆候があるのです。
それはー、この実を『美味しい』と感じること。
その感覚を魔法属性の相性の一種だと仮定するならば、この実にうまく適合し調和している証といえるでしょう。」
ページは再び目を伏せ、一呼吸おいてから、重圧と期待が入り混じった複雑な眼差しを向けた。
「…、すいません。まだ分かっていないことだらけで、聞き苦しい推測ばかりを並べ立ててしまいました。
…ですが、我々はその解明のためにも、ぜひあなたに協力して欲しいと思っています。」
ミーヤはページの視線から目を逸らした。それは自信の無さの表れだった。しかしそれは当然のことなのかもしれない。勇者からの期待に応えられる人間など勇者以外にいないのだから。勇者をよく知るミーヤだからこそ感じるその重みに押しつぶされそうになりながらも、それでもミーヤは顔を上げた。
「だけど…、でもそれなら、今頃私は、もっとすごい魔法が使えるようになっているのでは?」
ミーヤの震える問いには、隠しきれない自信の無さがありありと見て取れた。ページはそこまで見抜いた上で、ほんの僅か考えて言葉を返した。
「…、そうですね。もし自覚もなく少しずつ魔子が大きくなっていったとしたら、その力の使い方がわかっていないだけかもしれません。勇者の力を持つ我々も、赤子の時から強力な魔法が使えた訳ではないですから。」
「……。」 その答えにミーヤは納得し、深く息をつき、そして力なく俯いた。
その仕草を見たノエルは、慈しみのまなざしを向け、ミーヤに柔らかな声を掛ける。
「お嬢ちゃん…。
ページはアンタに協力して欲しいと言ったが、アタシは逆さ。アタシはアンタに協力したいと思っている。
だからね、もし本当に嫌なら、全部断ってお家に帰ればいいんだよ。誰にも無理強いする権利なんて、これっぽっちもないのさ。」
ノエルの笑みを帯びた言葉に、ミーヤが視線を向けると、その視線を捉えるようにノエルは続けた。
「ただね、アタシたちが想像する通りに、お嬢ちゃんの中に力が眠っているのだとしたら。その使い方を知らないままでいるのは、なんとももったいない話だと思わないかい?」
ノエルの冗談めいた言葉は、ページの言葉をより軽く、より簡単にさせた。けれども、それでもまだミーヤには重く感じる。
「お嬢ちゃんには、そうじゃないほうが幸せなのかもしれないね…。
まあ、たとえそうだとしても、アタシはアンタを気に入った。どんなことでも力になるよ。アタシはアンタの味方さ。」
その重荷をできるだけ取り除くようにノエルは言葉を重ねる。ミーヤはせめて、その優しさには応えた。
「ありがとう、ございます。でも…、今すぐには、決められないです。」
ノエルはミーヤの答えに静かに頷いた。彼女は何も言わず、少しだけ微笑みを返した。そしてそれを代弁するように、ページが口を開いた。
「わかりました。それは、当然だと思います。
恐らく、我々の提案はあなたの人生を左右するものになるでしょう。ですからどうか、納得いくまで時間を使ってください。」
ミーヤを気遣いながらも、ページの声には柔らかさの中に芯が通っている。
「ただ、これだけは言わせてください。
もし我々の予想した通りであるなら、君は勇者になるべきだと、僕は考えています。」
そして、最後にページが口にした言葉は、折角ノエルが軽くしてくれた荷をあえて元に戻すかのような重みを持ち、ミーヤの心に深く響いた。それは、ページの立場を打算的に考えれば、ミーヤに今言うべきではないものだった。それは、ページが僅かに見せた焦燥だった。
ミーヤの落とした小さな肩にノエルが手を回して魔導院をあとにする。ページはしばらく二人を見送ると、すぐに自分が抱えている他の問題に取り掛かり始めた。まるで、過ぎたことを後悔するいとますら惜しむように。
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その日の夜、ミーヤはまだ決断できずにいた。
魔導院から戻った後も、ノエルは震える子猫をあやすようにミーヤに接した。それはルーナから感じた魅力とはまた違う、包み込むような優しさに溢れていた。それはとても嬉しかったが、ミーヤが抱える問題が消えてなくなる訳もなかった。
エリートが集まる名門の魔法学園の生徒でもあれば、直々に勇者に勧誘されるなど飛び跳ねて喜ぶようなこれ以上ない誉だろう。そうある才能を持ち、家族からも期待され、そのための努力をしている彼らには、それは夢の実現を意味する。しかし、ミーヤはそんな彼らとは違っていた。
ミーヤが持つクレメンタインへの憧れは、その美しい容姿や圧倒的強さ、崇高な存在へのもので、自分がそうなりたいと願う事とは次元が違っている。眩い太陽を神として崇めはしても、神になりたいと人は思わないように。
今日の話は、そんなミーヤの心の奥底に問いかけるものだった。でも、もし、ひょっとして、自分がそこまで届くのだとしたら、どうしたいんだろう。今の自分が背負っている様々な制約、そう意識すらしていない束縛を全て振り払い、その問いの答えに辿り着くには、深さに応じた時間をまだ必要としていた。
ミーヤは夕暮れに立っている。
今ならまだ引き返すこともできる勇者への道。その道は才能や憧れだけではどうにもならない夕闇の先に続いている。クレメンタインやノエル、他の勇者たちが瞬く星のごとくその闇を照らしてくれるが、闇は深く、遠く、暗い。けれど、この夕べに感じた迷いと小さな希望は、ミーヤの心を音も無くゆらゆらと照らしている。




