第68話 勇者様、頑張る
夕闇が空に青みを帯びさせ始めた頃に、ミーヤはシュレと共に家に帰ってきた。送ってくれたペールグランに丁寧に礼を言い、最後にオレンのことをくれぐれもと頼み別れた。
そして家に入ると、中ではリシャが待っていた。灯された穏やかな明りが、彼女の顔に不安と安堵が交差する影を落としていた。二人は心配するリシャに、魔導院で聞いた事を伝えた。話をするミーヤの声からは、普段通りとは言い難い心の揺れが如実に伝わる。しかしそれでも、話ができるほどには心の平衡を取り戻していた。
リシャは話を聞いて、オレンの行動を後押ししたことを激しく後悔した。オレンが世界樹の実と引き換えに自分自身を犠牲にする魔法契約を結んだことは、それはそのまま、十二年前にオーシュとオーリーに起こった事かもしれないと想像させる。それは、リシャの胸を強く締め付けた。
だがその反面、オレンが大切な人の為に勇気を持った行動を取ったことを褒める矛盾した気持ちが、心の片隅に微かな光を灯していた。それは、本当の家族のように過ごしてきたオレンが、一人の男として確かな成長を遂げていたことを示す証でもあった。
「オレンは、きっと、生きてるさ。
だから…、いつ帰って来てもいいようにしとかないとね。」
リシャは自分に言い聞かせるように、二人に言葉をかける。何とかしてやりたいが無力な自分にはどうすることもできない、せめてもの励ましだった。
「今年のリンゴも、もうあとわずかだからね。最後まで私が手伝うよ。」
「だからね、ミーヤ。
周りの心配なんていらないから、あんたはあんたで、しっかりと顔上げて頑張りな。」
「オレンがこんなことをしたのは、あんたを不幸にするためじゃない。
そのくらいわかるだろ?」
リシャの言葉には、二人への信頼が溢れている。それはたとえどんな状況になろうと変わることのない絆だった。だがその反面、かつて自分が体験した悲劇が巡り巡って二人にも降りかかったことは、リシャの胸に重くのしかかっていた。
(オーシュ…。あんたは世界樹で、一体何をしたんだい…)
それは、今となっては確かめようのない追憶をたどる痛みだった。
その夜、ミーヤはようやく落ち着いた時間を過ごすことができた。その時間はミーヤにこれからの事を考えさせる。どれだけ兄を心配しても、どうすることもできず、ただ、待つしかできない。どうしてこんなことになったのか、どうしてそれが兄だったのか、どれだけ考えを巡らせたところで、堂々巡りするだけで答えには辿り着かない。
ただそれでも、ミーヤには心の中の不安や心配と向き合う時間が必要だった。人からみれば無駄に見えるその時間こそ、これからの彼女の人生を左右するほど重要な時間だった。取り留めもなくあふれ出す不安と何度も、何度も対峙して、それから、夜の静寂が広がり切る頃になって、ミーヤは自分の答えを導き出した。
(いつまでも考えたって仕方ない…。
お兄ちゃんのことは心配だけど、私は私のできることを頑張ろう。)
それは人からみれば月並みに見える答えだったが、ミーヤにとっては大切な答えだった。
ーーーー
ー世界樹ー
深く、広く、長い、闇。
全ての感情や感覚、自分自身すら飲み込む暗闇。
死そのものと等しい暗黒の中に、オレンはただ静かに身を委ねていた。
その中にあって彼が恐怖に囚われなかったのは、自らそう望んだであることと、
それと引き換えに叶えた願いが、この暗黒の中で唯一、鮮やかに輝いていたからだ。
冷たく、無情な絶望を予感させる暗黒の中にあって、オレンは満たされていた。
その術は、オレンが世界樹に吸い込まれた時と、魔王がルピアを救助した時に使われたものと同じ闇魔法である。呪いの応用によって体内に刻まれた闇魔法は、術者の思い通りに動く傀儡を作り上げることすらできる。この闇魔法は、オレンが受け入れた魔法契約によって、その強度がさらに一層高められていた。
それは、タワーの魔法障壁を超える術の無かったかつてであれば、それを受けた身のままでは障壁に阻まれる性質のものである。しかし、勇者たちに紛れオレンは無事に戻ってこれた。そして、障壁を超えて発動してしまえば、障壁の性質上、こちらから魔界へ渡る際には一切干渉されることはない。
長い闇を抜け、オレンは契約魔法の術者である世界樹の女王の前に再び戻された。
エルフとも異なる独特の尖った耳と、血の気を感じさせない青白い肌。そして最も目を引くのは、まるで花が咲き誇るかのような鮮やかな色彩を持った髪。そのドリアードの女王と彼女を取り囲む者たちは、召喚されたオレンを待ち構えていた。
女王の傍らに控えていた側近が、影の中から姿を現したオレンを目に留めると、声を響かせた。
「契約は果たされた。この者は、今をもってアビシニア女王の所有物である。故に、何人もこの者に命じることが許される。故に、何人もこの者の命を奪うことは許されない-」
その声は、定められた儀式の文言を詠じるように流暢で、言葉は長々と続いた。オレンはただその場にひざまずき、静かにその言葉を受け入れていた。
その言葉は、オレンにとってはただの空虚な響きでしかなかった。
オレンが世界樹に辿り着いたあの時、この荘厳な場に響いたのは、女王本人の静かでありながら威厳に満ちた声だった。女王はオレンを見つめ、その心の奥底まで見透かすような鋭い眼差しを向けた。
「これがあなたの望みなのでしょう。」
そう言いながら、女王は黄金に輝く世界樹の実を掲げた。そして、次に彼女の口から語られたのは、その実の美しさに潜む鋭い棘のような取引の提案だった。
一日の猶予を条件に、この実とオレン自身を引き換えにすること。そして、それを決して誰にも明かしてはならないこと。
一瞬、その場の空気は張り詰めた。しかし、その一瞬で誰もが理解できるほど、この取引は単純明快だった。それでも、オレンは迷うことなく、女王の契約を受け入れた。その答えは、彼自身の運命に対する覚悟を物語っていた。
すべてが終わり、すべてが成し遂げられた今、彼の胸に渦巻くのは、死刑を待つ囚人に近しいものがあった。
しかし、そんな彼の前に、予期せぬ言葉が投げかけられる。
「ーさて、この契約をもって、お前はこの地の住人となった。まずは、この地での生活に慣れられよ。」
その一言に、オレンは思わず顔を上げた。驚きと戸惑いが入り混じる表情を一瞥し、側近は淡々と、その場に控えていた取り巻きの一人に目を向け、通達した。
「フェイ、お前にこの者を任せる。」
「承知しました、リンキッド様。」
フェイは静かに一礼し、オレンに向き直った。驚きに目を見開くオレンを見つめるその瞳には、リンキッドの冷徹さとは対照的な温かさがあった。そのまなざしは不思議な力を帯びており、オレンが忘れかけていた生きている実感を、ゆっくりと心の奥底から呼び覚ました。
「まず、ここでの掟と習わしを少しずつ覚えていきましょう。」
女王の間での謁見を終えたオレンに向けるフェイの声は柔らかく、それでいてどこか毅然としていた。
「この世界樹で私たちと共に暮らしていくには、森の声に耳を傾けて、いろいろなことを謙虚に学んでいくのが大事なの。」
その言葉に、オレンの胸には奇妙な感情が湧き上がっていた。覚悟していた結末、良くて一生奴隷として縛られるか、あるいは儀式の生贄として命を絶たれるか、そのどちらにも当てはまらない、予想外の優しさに触れた。
驚きと戸惑いに押されるように、オレンは思わずその想いをそのまま口にする。
「ふふっ、私たちはそんな野蛮なことはしませんわ。ただー」
その言葉に、フェイはわずかに微笑んだ。陽の光が葉を透かして揺れるようなその笑みは、どこか軽やかで、世界樹の緑に溶け込むようだった。
「あなたの行い次第では、世界樹はあなたを受け入れてはくれないかもしれないわ。」
フェイはゆっくりと目を細め、その視線をオレンの心の奥底を見透かすように向けた。その声には、穏やかな優しさと共に、森の掟を守る者としての威厳が込められていた。そしてその言葉は、絶望の淵にいたオレンに再び、かすかな灯火をともし、新たな希望の種を芽吹かせ、命の意味を形作ろうとしていた。
この地で生まれた新たな運命が、静かに、けれど確実に動き始めていた。




