第65話 勇者様、約束する
ー魔王城ー
それは魔界の果て、闇に閉ざされた地に確かにそびえ立っている。いつの時代に築かれたか誰も知らない黒々と苔むした石壁に囲まれ、不気味な沈黙の中に重厚で堅牢な門が鎮座し、その恐ろしく深い静寂が城全体を支配している。
そして内部の広大な中央広間を、左右に十三本の天を貫く大柱が規則正しく並び支える。その中央広間は三層に分かれ、層を繋ぐ階段は、およそ人間など考慮していない寸法で積み上げられている。そしてその最上層に構える玉座には、冥府の衣をまとった魔王が悠然と座していた。
魔王の視線の先、中央広間の中層に影が広がる。広がった影は徐々に霧散し、そのあとに残されたのは、もはや原形すら留めていない痛々しい姿になり果てたルピアだった。あの美しかった金色の面影は跡形もなく消え去り、それが彼女だとは、直接戦った勇者たちですら分からないほど残酷に変わり果てていた。
そのルピアを最下層から堂々と見上げる大男がいる。
その男は、巨大な馬をも超える身の丈と、筋骨隆々たる肉体を誇り、その引き締まった浅黒い肌には、細かな風紋のような刺青が腕から肩に刻まれている。その紋様から男の呼吸に合わせて風が吹き起こり、銀と青色が入り混じる長髪を滑らかに波打たせる。何を言うこともなくただ腕を組み、切れ長の目の奥に潜む翡翠色の鋭い光が、ルピアを捉えていた。
さらに、中層の大柱の陰からルピアを見つめる影があった。
身を隠すように全身を黒々としたローブで覆うその姿は、あまりにも不吉で異様な気配を漂わせていた。顔を覆うフードの隙間からかすかに覗く口元からは、低くかつ冷ややかな呪詛のような言葉が途切れることなく流れ出ている。その声は、深淵の底から這い上がる蟲音のようにさえずり、闇から漏れ出た不協和音をまとい、聞いた者の耳を這い蝸牛を毒爪で掻きむしるような底知れない恐怖を植え付ける。
そして、魔王の玉座の脇には、黄金の鎧を着た騎士が控える。
魔王城において異様な輝きを放つ黄金の全身鎧は、細やかで丁寧な装飾が施され、神々しくすらある神秘的な力を感じさせる。だが何よりも異質だったのは、分厚い鉄扉ほどある、その尋常ならざる装甲の厚みだった。その厚みによって騎士の腕は三倍に膨れ上がり、全身の輪郭はもはや人ではなく、歪な丸みを帯びた卵のような形状となっている。その異形の鎧をまといながら、騎士はその鎧と同じ量の黄金で作られた巨槍を、動ずることなく垂直に握り構える。まるで不動の要塞の如き風格を漂わせながら、魔王を前にルピアを捉える眼光は、仲間に対してのものでなく、一切の油断のない鋭い威圧が込められていた。
それらの視線を集めるルピアには、もはやそれを感じる力があるかどうかすら疑わしかった。
「……ヶ……」 だがそれでも、ほんの微かに言葉にならない声を発した。
「よいのです。勇者十人を相手に一人でよくぞ、戦ってくれた。」
それを受け、ルピアの言葉を過不足なく聞き取れているように返す魔王の声は、穏やかでたおやかな女性の声だった。
「…………ヶ……」
「ええ、今すぐに。」
そう言って魔王は、しなやかな細い腕をかざすと、その指先からルピアへ魔法の光を放った。
「ァ………………ゥ」
「その呪いの正体は心得ています。安心なさい。」
「……ゥ…………」
「だって、あれ作ったの私だもん。」
光に包まれるルピアと交わすその悪戯じみた可憐なささやきは、不釣り合いな魔王の城に溶けていく。そして、ルピアを包む魔法の光が徐々に収束し完全に消えたとき、そのあとに残されたのは、あの美しい金色をまとうルピアだった。
「少々、おまけをして差し上げたけれど、いかが?」
「ウンッ! スゴイ!!」
完全復活したのみならず、さらに強力な魔子を宿したルピアの無垢な笑顔で喜ぶ声が魔王城に響き渡る。それを見てほほ笑む魔王の口は、秘めやかに閉じられた。
ーーーーー
月明かりに照らされながら、透明な夜の闇を二人は抜けていく。緩やかな風に抱かれて、オレンは夢の時間の中にいた。たった一日のオレンの冒険は終わり、その果てに手に入れた報酬に満たされる。その焦がすような感動は、勇者たちにもうこれ以上関わらない、と決めたオレンの決意を鈍らせた。しかし、その裏側に張り付いたどうにもならない現実が、こんな奇跡は自分の人生でもう二度と起こらない、と確信させる。
オレンは最高の望みと引き換えに、あまりに出来過ぎた物語の中にいる己のあまりの無力さを実感していた。
勇者の力は望んだところで手に入るものではない。その祝福を授かる運命は、何人の作為も及ばない。この世界の理は、自分がヒナの隣に並ぶなど、決して許さない。オレンはそれでもよかった、わずかでもヒナの力になれるなら、それだけでよかった。
けれど、ヒナが死んだことで、それも全てが崩れ去った。
戦いが勇者の使命であると、頭で理解することはできても、その原因を自らが作ってしまった浅はかさを悔やんだ。どうにもならない現実を前に、それでも自分を信じてくれた人たちの為、せめてオレンは全てを背負う覚悟を決めた。
二人を乗せた箒は尾を引いて、静かな夜空をどこまでも滑っていく。
今、手を伸ばせばすぐ届くのに、でも届かない距離にいるヒナは、自分のことをどう思ってるんだろう。ずっと知りたかったその気持ちを、オレンは聞けないままだった。このままずっと一緒に飛び続けられればどれだけいいか、その望むわけにはいかない奇跡を、それでも期待せずにはいられない弱い心を、オレンはどうしても捨てられなかった。
本当は、母の日記を読み解いたあの夜に、オレンは気付いてしまっていた。それは、知りたかった世界樹の実の秘密は分からないまま、代わりに手に入れたみかんの価値が教えてくれた。
ヒナが「特別」だと言ったのは、それは自分ではなく、みかんのことだったのだと。特別なみかんをくれるただの普通の人、言われてみればその通りの自分の価値を、ほんの一握りの意地が支えていた。
オレンの家に近づくにつれ少なくなる地上の灯は、この旅の終着を暗示する。
巡り巡って元に戻った旅路の果てを、オレンの翡翠の指輪は照らす。オレンはそれを、いくつかの戻れないものと一緒に、そっとしまっておこうと決めた。
ゆっくりと箒は地上に降り始め、とうとう足が地面に触れた。それから、オレンはヒナに笑顔を向けた。
「ありがとう。またさ…、みかん、欲しくなったら来てよ。」
それは、感謝の言葉と同時に、言う訳にはいかない言葉を飲み込んだ、別れの言葉だった。
「うん、約束する。」
その約束は、たった一つの繋がりとなった。その約束に、オレンは救われた。
家に帰ったオレンを、ミーヤとリシャが待っていた。二人と顔を合わせたとき、まず何よりも、三人は抱き合った。そんなことをしたのは、両親が死んでから、リシャが二人を引き取ると決めた時以来のことだった。だんだんと肩にかかる力が緩んで、ちゃんと向かい合うことができたとき、オレンはリシャの顔を見て謝った。
「ごめん…。」
リシャの瞳に映るその顔と言葉は、かつて、オーシュが全く同じ顔で、全く同じ言葉を向けた瞳の記憶を蘇らせる。その思い出は、リシャの心を激しくつねるが、その痛みを誤魔化すように、リシャは笑ってオレンを撫でた。
「…、まったく…、何言ってんだい、この子は。謝ることなんて、何もないだろ?」
それからその夜は遅くまで、それぞれにあった沢山のことをその話が尽きるまで、三人で食卓を囲んで過ごした。
明くる日、オレンたちに小鳥のさえずりが日の出を教える。二人は今日もとても心地よく目覚めた。二人は食卓でいつもの様にそろって食事を摂っている。日常の中に戻ったオレンは、普段の他愛無い会話の終わりに、昨日リシャの前では言えなかったことをミーヤに話す。
「…、ミーヤはさ、勇者に憧れるだけじゃなくて、自分が勇者になりたいとは思わないの?」
「…え? いやいやいや、何言ってんの? 私なんかが勇者になれるわけないじゃない。」
「そっか…、うん。でもさ、兄ちゃんはさ、好き勝手したから、だから、ミーヤも好きに生きていいからな。」
オレンは少し照れながら続けた。
「勇者って、色んな人がいるんだ。兄ちゃんは、ミーヤみたいな勇者がいたっていいと思うよ。」
「もし、そうなったら全力で応援するから。」
黙って聞いていたミーヤは一言漏らす。
「…、なによ、きもちわるい。」
そう言ってそそくさと出て行く妹を追って、オレンも食卓を後にした。
その日一日、オレンはこれまでと同じ日常を過ごした。リンゴを収穫し、市場に向かい、シュレに会い、居なかった数日を埋めるように、念入りに果樹園の整備をして、その日を終えた。
夕日が沈みかけた空は、オレンジから黄色、藍色に繋がる美しいグラデーションに包まれる。ミカビ村の山々は夕焼けに染まり、夕日の輝きを映す小川はきらきらとせせらぎ、果樹園を潤す。冬の訪れを告げる涼やかな風が吹くたび、木の枝葉がちらちらと揺れ、夕陽の光が美しい影絵のように地面に踊る。残り少なくなった果実は、夕日に照らされて一層深いルビーのような深紅に輝いている。この美しいリンゴの果樹園を親から継いだ緑髪の少年は、その光景を陽が落ちるまで眺めていた。
そして、その夜、少年は姿を消したー
勇者様は裏切らナイ 第一幕 約束の指輪 完




