第64話 勇者様、月の中に消える
ルピアを退けた勇者たちは、敵の追撃を警戒しつつ来た道を急ぎ戻っていった。幸い、道中で何者の妨害も受けることはなく、一行はタワーの魔法障壁を抜けて無事に人間の世界へと帰還した。その頃にはすっかり日も沈み、夜の帳が降り始めていた。オレンは一刻も早くヒナの元へ向かうため、勇者たちの移動魔法によりそのままユーザの教会へと飛んだ。
再び訪れた教会の小さな礼拝堂は、あの夜のまま重々しい空気を纏い、ひっそりと静まり返っていた。そしてその中央には、あれから全く変わらぬヒナが横たわり、そしてその体の上にはピアがちょこんと身を丸めていた。
「ありがとう。守ってくれて。」
本当にあの時からずっとここにいたかのように、小さなピアは蹲りさらに小さくなってじっとしていた。その姿を見てオレンは、労わるように優しく声を掛けた。しかし、ピアは彼の声に応える気配すらみせず、ただそこに丸まっているだけだった。
オレンが手に入れた世界樹の実は、まるで自然の生命力を凝縮したような神秘的なオーラを放っていた。リンゴほどの大きさがあるその実は、みかんのような薄い膜に包まれた十二の房が一つの玉に収まっている。果肉は適度に引き締まり、指先で触れるとしっかりとした重量感が伝わってくる。それは正に、命の重みであるかのように期待させた。ナイフで世界樹の実の房を一つ切り取ると、淡い金色を帯びた果汁がわずかに溢れ出した。その果汁を丁寧に杯に注ぐと、芳醇な香りが立ちのぼった。
小さな礼拝堂の中央でメティスの大盾が立会い、オレンがヒナの口へ杯の果汁をほんの少しずつ、唇を濡らすように染み込ませていく。ゆっくりと慎重にその一滴一滴に祈りを込めて、オレンはヒナの顔を見つめ続けた。
しかし、しばらくの間どれほどそれを繰り返しても、ヒナの体には何の反応もなく、その無垢な顔は静寂の中で眠ったままだった。それでもオレンは、さらに心を込めてその作業を繰り返す。だが、どんな些細な変化も訪れることはなかった。
それ以上オレンとヒナを見守るのは忍びなく、やがて大盾の三人は闇に紛れるように一人ずつ静かに礼拝堂を後にした。それに気づかないほどオレンは集中していたが、ついには杯も枯れ果てた。
それはか細い希望だった。母の残した日記だけを頼りに、多くの勇者を危険に晒してまで手に入れた世界樹の実に、オレンは自分自身の全てを賭けた。だが、死者を蘇らせる力があるかどうかも分からないまま臨んだ無謀な賭けは、オレンに計り知れない喪失感をもたらした。
得られるかもしれない奇跡を信じ、多くの者たちを巻き込んだ愚かな決意が胸を苛み、罪悪感が身を締めつける。目の前にある冷たい現実が、オレンの覚悟をじわじわと蝕み、深い絶望が押し寄せ、心が軋むように痛んだ。オレンはその痛みに耐えきれず顔を伏せて手で覆い、まるで全ての力が抜けたかのようにヒナの台座に崩れ落ちた。
声の無い嗚咽が、礼拝堂に灯された蝋燭の火を揺らす。ひんやりとした台座の冷たさが、時の流れを凍らせる。オレンの小さく吐く息が、ただ暗がりの中に溶けていった。
その止まった時の中、ずっと動かなかったピアは音も無く起き上がると、しなやかに前足を伸ばし小さく欠伸をした。そして、そっとヒナの体から降りて、台座で打ちひしがるオレンに近づく。ピアは素知らぬ顔でオレンの腕に強引に割り込んで、そしてそのままそこに居座った。その命の温もりに、オレンは思わず顔を上げた。
その瞬間ー
「待って! 行かないで!」
突然、静寂の中に今まで聞いたことのない大声が響く。勢いよく体を跳ね起こして、そしてゆっくりと、夢の続きを追いかけるような寝ぼけた顔がオレンに向けられた。オレンが確かに感じ取ったその声と顔の持ち主は、紛れもなくヒナだった。
たとえそれが、蝋燭の光が作り出した幻想であったとしても構わないと思うほど、焦がれた望みが叶った幸福に満たされて、オレンの感情は一気に弾けた。
「あははははっ!」 最高の笑みを浮かべてオレンはヒナを抱きしめた。
「よかった…。本当に…」
オレンの後先考えない抱擁をヒナは抵抗なく受け入れていた。腕に伝わる体温が、確かに生きていると確信させる。只々そのままひと時が過ぎ、胸を安堵が満たすにつれて、頭の高揚は冷まされていった。それは次第に今の状態を理解させ、オレンは少しずつ、ヒナから手を遠ざけた。
「…………。」 二人の間に微妙な沈黙が生まれる。
オレンには言いたいことが山ほどあったが、あり過ぎて、ましてヒナを間近にして全てが霧散した。それでも何かを言おうとしたとき、それより早くヒナが口を開いた。
「ありがとう。うれしかった。」
その短くて単純ないつものヒナの言葉は、その言葉の意味を超えてオレンの心に強く響く。その正体が何なのか分からないまま、全ての言葉を飲み込んだ大粒の涙が一滴、オレンの笑顔を伝った。
ーーーー
その夜、ルガーツホテルにて夜宴が開かれた。ヒナの復活を祝うパーティーに、他の勇者たちと共にオレンも主賓としてもてなされた。急遽開かれたパーティーは、オレンとヒナが初めて出会った時ほど盛大なものではなかったが、偶然居合わせた客などを交えた開かれたものだった。
無礼講で勇者に近づける機会などそうそう無いことも手伝って、主催のカラダリンには多くの人が集まっていた。主役のヒナを差し置いて彼を囲む人だかりは、大都市ユーザにおける彼の重要性を示すとても分かりやすい尺度だった。それでもオレンを見かけると、カラダリンは誰よりも優先してオレンの元へとやって来た。
「どうですか? 今回の主役なのですから気兼ねなく、ぜひ楽しんで行ってください。」
慣れない場所に放り込まれたオレンにとって、カラダリンの気遣いは有難かったが、それよりもまず感謝の気持ちを素直に表した。
「カラダリンさん、本当に色々お世話になりました。ありがとうございました。」
深々と頭を下げ、オレンは心からの感謝を述べる。その肩に、カラダリンは手を掛けた。
「お礼を言わねばならないのは、こちらの方ですよ。あなたには本当に、驚かされてばかりです。」
そういって労うカラダリンとの会話を、オレンはしばらく楽しんだ。常に笑顔で話すカラダリンとは対照的に、その隣に無言で寄り添うアンシアの表情は曇る。それは最初に出会ったときにオレンへ向けた忌避とは違い、どこか哀れみを含んだ悲しいまなざしだった。
また別のテーブルには、当初の契約通りに世界樹の実の残りを手に入れ満足げなページたちがいた。ページは世界樹の実について、あれやこれやと興奮気味に仲間内で会話をしていた。その内容は、効果の検証からメカニズムの解明方法、さらには試験に必要な物品の手配など、とてもオレンが理解できない高度なものだったが、そのページの姿はまるで、手に入れたおもちゃをすぐにその場で開けて遊びたい衝動を抑え、空想で我慢してる子供のようだった。
オレンはコハクフクロウの人たちにも、きちんとお礼を伝えておこうとも思ったが、そんなページを微笑ましく見守る団らんの邪魔をしようとは考えなかった。
「ヒナァ~~! よかっだぁよ~~~~!!」
そして主役の席には、お酒が入ったルーナが大声で泣きながらヒナにウザ絡みしている姿があった。力いっぱい抱きしめるルーナに一切動じることなく、頭にピアを乗せたヒナは平然としてされるがままになっている。そんなヒナをみて微笑んでいる陸奥と、笑っているブラッドは本当に楽しそうで、オレンの心を躍らせた。
その思い焦がれた光景があまりに完璧すぎて、目が眩むような熱がこみ上げ、オレンは一度その場を離れた。出来るだけひと気の少ない場所を探していると、まるで待っていたかのようなショーゴに救われた。
何の説明もなくショーゴに連れられて、誰もいないバルコニーへ出たオレンを迎えたのは、ひときわ煌めく星空だった。
「よく帰って来てくれたよ。おめでと。」
「ありがと。」
一杯のグラスを差し出されながら、普段から冗談を言い合っている二人の会話は短かった。ほどよい冷たさの夜風と、一杯のグラスがオレンを心地良く冷ます。ふと見渡すと目に映る、美しい庭園からさらに広がる街並みの灯は、ほんの数日で起こった様々なことをオレンに思い出させた。
しばらくして、オレンが風に寒気を感じ振り向くと、いつの間にかショーゴの姿は消え去って、それはまるで魔法のように、代わりにヒナが静かに佇んでいた。
「もう、帰るの?」
その唐突な出現と質問にオレンは少し戸惑ったが、華やかなパーティーと、ヒナと二人きりの時間、それは問うまでもない選択だった。
「あの時みたいに送ってくれる?」
主役のいなくなったパーティーを残して、いつかの夜のように、二人は月の中に消えていった。




