第63話 帰還
決着のあと、徐々に草木のざわめきや木々を抜ける風が森に帰ってくる。涼やかに流れる空気は、再び森に息吹を運ぶ。風に揺れる葉の隙間から僅かに差し込む光が、二人の姿に柔らかな陰影を作り出す。それは、ルピアが苦痛に浸食され、音を発することすらなくなった姿を映し出した。
そのルピアを前に、カラダリンは問いかける。
「あなたは、一体何者なのでしょうか?」
カラダリンはその問いに、答えが返ってくるとは思っていない。カラダリンが見ているのは、この言葉に対するルピアの僅かな反応、ただそれだけだった。
カース・グレイルの呪いは、逃れることも耐えることもできない苦しみを与え続ける。しかしルピアは、その呪いを受けてなおも生きる意志を奪われていない。健気ですらあるその生命力の根源が、自己にあるのか、あるいは他者にあるのか。カラダリンの問いは、ルピアが戦う理由が何処にあるのか、を問うていた。
カラダリンの質問に、ルピアは微動だにしない。カラダリンもまた一歩も動くことなく、ルピアを静かに見据える。二人の間の時間は森の闇に吸い込まれるようにかき消えていく。ただそれだけの何の変化もない時間を無為に費やすことは、カラダリンにとっては意味があることだった。
ルピア一人を仕留めるのに、これほどの勇者を投入しなければならなかった現実は、カラダリンを悩ませる。ルピアのような存在が、魔界にどれほどいるのか。その答え次第では、目先の勝利など何の価値も無くなることをカラダリンは予見する。だがもし、ルピアの戦う理由が他者にあるのなら、戦い以外の解決策を見出すことができるかもしれない。その可能性を問う質問は、悪魔じみた手を使いながらも、カラダリンの本質が理想家であることを浮き彫りにした。
その沈黙の中、ふとルピアの影が僅かに陽炎のように揺らぎ、ルピアが動いたような錯覚をカラダリンに与える。その微細な異変にカラダリンが気付いた次の瞬間、ルピアの影は広がり影から伸びた多数の闇の手がルピアを引きずり飲み込んだ。その一瞬の出来事に、カラダリンは慌ててルピアへ接近しその伸びる手へ一閃を加えるが、その刃は空を切り、そして後には何も残らなかった。
カラダリンは周囲を警戒するが、一切の気配は消え失せて、ただ森の平穏だけが残された。ルピアをここまで追い詰めておきながら、まんまと取り逃がしたことにカラダリンは深くため息をつく。この結末は、カラダリンが知りたかった答えの一端を示したが、よりカラダリンを悩ませた。
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ールピアとの戦いのあとー
「…、う~ん。こっちの腕はもう上がりませんね~。」
ルピアとコハクフクロウが戦った湖畔では、ページとタンゴールがワイ・バーンの動作チェックをしながらメンテナンスをしていた。魔子回路を介した魔法と物理を併せ持つ機構は、ワイ・バーンに双方の力を発揮させる反面、その両方の反動を機体は受けることになる。ルピアを打ち付けたワイ・バーンの腕が受けた衝撃は、その関節を魔子回路ごと破壊していた。
「このまんま帰るだけなら、ま、何とかなるでしょ。よく頑張ってくれたよ、この子も。」
タンゴールは、ルピアという難敵との決戦で傷ついたワイ・バーンを誇らしげに撫でる。その戦いの中で、確かに問題や欠点が表面化した部分もあったが、それでも、二人が作り上げたワイ・バーンは偉業というべき戦果を成し遂げ、二人は笑顔だった。
その光景をノエルとペールグランが、少し離れて見守っている。ルピアとの戦いで見た目以上に疲労していたノエルは、ペールグランから治癒魔法を受け、不本意そうに大人しく座っていた。
「はぁ~…。アイツをきっちり仕留めてさえおければねぇ。」
ページの笑顔はノエルの未練をあぶり出す。ワイ・バーンにどれ程の財と労をつぎ込んだかを知るノエルには、ルピアを取り逃がしてしまった事実は、あまりにも釣り合わない対価だった。その差額の大きさに、ノエルの口から不満が漏れた。
「過ぎる結果を求めても、全てを手に入れることは叶わないものですよ。」
そのノエルに対し、ペールグランは冷静に説く。その反論の余地のないこの世の真理は、ノエルを逆に意固地にさせた。
さらに離れた木陰では、アンシアの治療を受けていたブラッドがようやく動けるほどに回復していた。しかし体の状態とは裏腹に、朧気ながら視界に入っていたコハクフクロウとルピアの戦いは、ブラッドの心中をかき乱した。
ブラッドは、自分たちの完璧な連携攻撃を上回ってみせたルピアに敬意すら感じていた。そのルピアを見事に返り討ちにしたコハクフクロウたちの笑顔は、ブラッドには眩しく刺さる。自分たちでは到底実現不可能な圧倒的な彼らの戦い方は、己の不甲斐なさを痛感させた。それは、ブラッドたちが戦う前の万全の状態のルピアであれば、どうなっていたか分からない紙一重の勝利だったのだが、ブラッドの目にはそうは映らなかった。
後悔が残る戦いであったなら、そこから次へ繋げる道も開けるが、最高の攻撃を跳ね返されたこの敗北は、ブラッドに次に進む道を見失わせる。その不安定な心の隙間を、ルピアを退けた安堵や、治療魔法から受ける安らぎが埋めた。その麻薬のような依存性は、ブラッドが背負っていた重圧を解き放ち、無自覚にブラッドの顔を歪ませた。
「あんな化け物相手にして、生きて帰れただけで、俺ぁめっけもんだと思いますがね。」
その場に居合わせたハックナインは、独り言にしては大きな声でそう呟く。それは誰に向けたものでもない、楽観的なハックナインのただの本音だった。その偽りの無い言葉の傍らで、アンシアは何も言わずに黙って佇んでいた。
束の間の沈黙のあと、ブラッドは顔を上げた。
「オレンは?」
そのブラッドの質問に、アンシアは過不足なく即答した。
「まだ帰って来ていません。今、そちらのお二人が世界樹まで迎えに行っているところです。」
その返答は、ブラッドの心を強引に引き戻した。この作戦を立てたとき、たとえ自分の命を犠牲にしても、オレンの命を必ず守ると誓いを立てた。過去に破られたこの誓いを、もう二度と破るわけにはいかなかった。陸奥とルーナに任せたまま、まだ終われない勇者の責務が、ブラッドを再び奮い立たせる。
ブラッドはメティスの大盾のリーダーとして、二人を追いかけるため、二つの命を救い上げるため、再びその手に大剣を掴んだ。
その矢先ー
「ブラッドさん!」
その大声に振り向いたブラッドの視界に、オレンの姿が飛び込んだ。陸奥とルーナに付き添われ、森から怪我もなく元気にやってくる。ただ、オレンが無事であったことにブラッドは安堵した。
そして遅れて捉えたオレンの手元には、しっかりと世界樹の実が握られていた。その実を携えたオレンの嬉しそうな笑顔は、ブラッドを微笑ませた。
その後すぐにカラダリンとも合流し、オレンと勇者たち一行はその目的を果たし、無事元の世界へと帰還を果たした。




