第61話 希望
魔族の領域にどこまでも深く、世界樹の樹海は広がっている。その森を抜けた先を、未だ人類は知らない。
それ程までに広大な森を、ルピアは自分の庭のように迷いなく奥深くへと分け入っていく。勇者たちの追撃を警戒しつつ、負った傷を安心して癒せる場所へと、飛ぶように走り抜けていった。
「ツギハ、カナラズ、コロス…。」
ルピアは傷口から血を滴らせながら復讐を誓う。その言葉の反芻は、生への強い執着を燃え上がらせる。その執念は身を焦がし、その意志の力は体を急速に回復させる原動力となる。この傷が癒えたとき、ルピアはより強い戦士へと生まれ変わるだろう。
それは近い将来、勇者たちに悲劇的な結末をもたらす可能性を孕んでいた。
森は深くへとルピアの意地を飲み込んで重く沈む。
その中にー
「「フォオオオォーン…」」
突如として力強い角笛が鳴り響いた。
その振動は荒々しく森の木々を揺らす。森の静寂を破る鋭い音は、森の生き物以外の何者かの存在を知らせた。ルピアは足を止め、その発生源に注意を向ける。その何者かに警戒しながらも、音色が持つ野性的な残響はルピアの本能に安らぎのようなものを感じさせた。
しかしその刹那、ルピアの意識に紛れ、背後から一閃が音もなく閃いた。
「ギャフッ!」 完全に気を抜いた瞬間に攻撃を受け、ルピアは木の上から転げ落ちた。
地に臥せるルピアの前に、一人の男が姿を現す。青い目をしたその男は、明らかにそれを行った犯人であるはずにもかかわらず、他人事のようにルピアに語りかけた。
「今ので仕留められないとは、中々頑丈ですね。」
ルピアのうなじに痛みが走る。しかし敵の刃は、急所への不意打ちだったにもかかわらず、強大な魔子に起因する生命力の高さと、獣人特有の強靭な体毛と筋肉に阻まれ、命までには届かなかった。
増えた傷から感じる熱が首筋へと流れ滴る。それが地面を濡らすや否や、ルピアは猛然と男との距離を詰め、そのまま左手の爪を振り上げ刺し貫いた。
その男が全く無防備に攻撃を受けたことは、ルピアですら意外だった。しかし、確かに感じた手ごたえの中には、身に着けている装備や、肉や骨の感触はあったものの、命は無かった。ルピアがその違和感を感じると同時に、男の身体は霞と化す。そして再び、横から男の声がルピアに語りかけた。
「これは『双子如来』という神器でございまして、元々は神事の際の演舞で使われていたものです。」
「その効果は、演者と左右対称の動きをする実体を持つ虚像を作り上げます。」
そう言って男が差し出すように伸ばした手の平には、丁度その手に収まる大きさの二体が隣り合わせで繋がった如来像があった。
しかし、ルピアにはそんなことはどうでも良く、再度男に突進し爪を振るった。ルピアの爪は男の全身を覆っていたローブを貫く。先ほどとは違い、今度は男のローブはそのまま実体が残る。しかし、またもやその中身は無かった。
ルピアの攻撃を躱した男は、ルピアの攻撃性を全く意に介さず何事もなかったかのように落ち着いて話を続ける。
「そしてこれは、あなたに最初に使わせていただいた『黄金のショファル』でございます。」
「この黄金の音色は、聞いたものを強制的に安息へと誘います。」
ローブを脱いだ男の姿は、その冗談めかした振る舞いとは真逆の印象を与える。ローブの上からでは分からなかった鍛え上げられた肉体を、体の凹凸に沿ってピタリと吸いつくように薄い革鎧が固める。その独自の武装は、防護より動きやすさを考えた危うさと隣り合わせの機動力を持ち、熟練した戦闘技術を有している事をうかがわせた。
そしてそれを際立たせるかのように、剥き出しの左腕の肩には三本のグラディウスが重なったデザインの刺青が目を引いた。
その出で立ちは、平和的に会話を続ける男の姿勢と相反し、ルピアの警戒心を高める。しかし、男はそのルピアを前にして平然と、手持ちの神器を器用に入れ替え更に説明を続ける。
「そしてこちらは、『人魚の赤蝋』と『偽りの聖杯』。」
「どちらも大変高価な買い物でしたが、ぜひ、その力をご自身で堪能して下さい。そしてー」
男はその手に、液体状の赤い蝋が封入されたガラス瓶と、神器と呼ぶにはみすぼらしい高脚の杯を浮かべる。そして言い終わると手早く神器を再び入れ替え、今度は両手に短剣を持ち変えた。
「こちらが最後の神器、『折れたままの聖剣』。」
「その切れ味は先ほど身をもって体験して頂いたでしょうか?」
男が持つ歪な形をした二本の短剣は、ルピアの首筋の熱を冷ます。その冷たさは、男の回りくどい発言に、明確な宣戦布告の意志が込められている事を告げていた。
ルピアの意志に関係なく行われた一方的な男の話に最後まで付き合ったのは、それを強制的に止められないほど自分の状態が悪く、時間が欲しかったという利害の一致がある。信じてよいはずのない敵から与えられた情報など価値がある訳もないのだが、なぜか成立した利害関係がその言葉に不思議な信憑性を植え付けた。
全てを言い終えた男の隣に、瓜二つの虚像が生まれる。男は手にする短剣の一本を虚像に投げ渡し、最後に言葉を添えた。
「一人殺るに当たり使用する神器の新記録です。誇りに思ってよいですよ。」
その明らかに余計な言葉は、利害関係をぶち壊す開戦の狼煙となり、双方の衝突を招いた。
当然のように実体に絞り攻撃を加えるルピアに対して、男は躱しながら同時に虚像から攻撃を加える。実体は敵のいない虚空へ攻撃するその動きは、正に演舞のようであるが、その舞は敵との間合いを正確に計り振り付けられていた。
今のルピアには男の小細工を蹂躙できる力はなく、その動きに付き合わざる負えない。特に素早いわけでも、強力なわけでもない男の掴みどころのない攻撃は、残力の乏しいルピアを苛立たせながら、演舞の相手を努めさせた。
すると、男はそのルピアの苛立ちを察し、鎮めるように虚像を消した。しかしその過ぎた配慮は、余計にルピアを焚きつける。迷うことなく実体に迫るルピアに対し、しかし、男は言い放つ。
「まさか、双子如来が左右にしか像を作らないと?」
男が一歩下がったその瞬間、ルピアの背後を強力な一閃が襲った。背中を切りつけられ、反射的にルピアは反転し反撃を試みるが、当然のようにその爪は空を切った。
たとえ背後からであっても、敵の気配に気付かないなどありえない。万全の状態であったなら、この程度の攻撃に決して後れを取ったりはしない。その自負心が汚された屈辱は、背中に走る痛みより強く、男の攻撃の弱さと相まって、それが出来なくなっている現状への危機感を、敵への殺意が覆い隠した。
「…、ナニモナケレバ、オマエニナド…。」
敵への殺意と苛立ちがルピアに言葉を押し出させる。正常であれば絶対に口にしないその言葉を、取り消すことも、恥じることも今のルピアはすることはない。それを口にすることの意味を見失うほど翻弄され、残された抗う術がその言葉だった。
確かに、厄介な神器などなければ、体調が万全であれば、ルピアはこの男には負けないだろう。この互いに共通する認識の奇妙な共有は、男には現実を、ルピアには希望を与える。だがしかし、そんなルピアの希望は現実には存在しない。ルピアもそれが分かっていながら口にした言葉こそまさに、いくつかの神器と引き換えにしても男が手に入れようとしたものだった。
戦局を動かすほどの攻防は未だ為されていないにもかかわらず、勝敗は傾きつつある。ルピアは肉体的な衰弱に加え、コハクフクロウを相手には持っていた冷静ささえ失い、眼前の男への殺意に染まり、本来なら倒せるはず、という希望にすがる。
たとえその希望が絶対に叶わなくとも、希望にすがる者は、決してその手を放さない。
ルピアに自分を殺す事に固執させ、逃げるという選択肢を奪う。たったそれだけの為に男が仕掛けた策略は、絶対に逃がさない、という男の執念を実らせた。
男の謀略を覆い隠すように陽を遮ぎる深い森の中に、男の青い目は怪しく光を放っていた。




