第60話 勝利
人間側の世界から眺める世界樹は、更に巨大なタワーの存在とそれから発せられる魔法障壁によって霞ががかり、魔界の大森林に浮遊する山のような姿をみせる。その大樹の上部は雲に触れ、天候によっては霧雲に浮かぶ城のような顔もみせることもある。
そして、その根元に辿り着いたオレンからは、また違った世界樹の姿が見えていた。
世界樹の根は広範囲にわたり、森林の地面を蛇のように這って広がる。大地の地下深くまで張った根は大量の水をくみ上げ、幹の上部から流れ出る水は、雨水と混じり合い小川を形成する。そして、鳥や小動物たちがその庇護の下で繁栄し、豊かな生態系を作り上げていた。
この大森林の命の源泉である聖域が、もし魔界でなく人間側の世界にあったなら、この霊木は多くの人を惹きつけ、宗教的な巡礼地や祭祀の場となっていただろう。
オレンは岩壁のような幹を前にして、遥か上空にある枝を見上げる。一本一本が巨木程の太さがある枝には無数の葉が茂っているが、ここからでは目的の実があるのかどうか確認することは難しい。そもそもオレンは、どこからどうやって世界樹を登るのかを考えなければならなかった。
「どうやって父さんは登ったんだろう…。」
周囲を見渡してオレンは途方に暮れる。幹に絡まる蔦や突起を足掛かりに登れなくもなかったが、オレンの力で世界樹の上層まで登るのはとても厳しく、ガモットから聞いた話から考えると、また別の方法があるように思えた。
オレンは少し考えたが、他に良い案も浮かばず、意を決して幹に手を触れる。するとその瞬間、何処からか声が響いた。
”人の子よ、おいでなさい”
まるで母親のように優しい澄んだ声に呼ばれたオレンは辺りを見回すが、人影はおろか人の気配すら感じられなかった。気のせいだったかと向き直したその時、オレンは世界樹に沈むように飲み込まれた。瞬間的に暗闇に落とされ、上下の平衡感覚すら曖昧なったオレンは声を上げるのも忘れる。星のない夜空に落ちていく不思議な感覚に襲われながら、その暗闇の果てに辿り着くと眩い光に包まれた。
光の眩しさに目を閉じたオレンが再び目を開けたとき、その目に飛び込んできたものは、玉座に座る麗人の色鮮やかに煌めく髪だった。
ーーーー
ー再び、場面は戦場へと移るー
ページとタンゴールに、ワイ・バーンの打ち下ろした腕がルピアを捉えた感触が伝わる。ワイ・バーンの全力で放った攻撃をまともに受けたらどうなるか、設計者である二人にとってその結果を導き出すのは容易なことだった。
勝利を確信した二人に、油断や慢心が無かったと言えば嘘になるだろう。しかし、押しつぶした敵へ更に追い打ちをかける攻撃手段など元から搭載していない時点で、いずれにせよこれ以上の事は二人にはできなかった。
「ノエルさん。万が一もありますから気を付けて。」
ページはワイ・バーンの中から、最も近くにいたノエルに結果の確認を託した。
「ああ、分かってる。」
ルピアと直接対峙したノエルには、その万が一は十分に想定できることだった。そして、腕が持ち上がるにつれて明らかになる押し潰されたルピアの姿、というある筈のものが無いという結果は、皮肉にもノエルを納得させた。
ノエルの錬成魔法は、無詠唱で行う速さと引き換えに装備の強度を犠牲にしている。それをノエルから口に出すことは決してないが、魔法の基礎的な知識と洞察力があれば、それが見破られることは十分にあり得ることだった。ただ当然ノエルもまた、見破られた場合も考えた戦術をいくつも用意している。
一方、ワイ・バーンの力を利用し地面に潜ったルピアは、深刻なダメージに反して頭の中は冴えていた。土中に埋もれながら置かれた状況を冷静に分析し、自分に残された力の使い道を定めていた。
ワイ・バーンの腕が上がると同時に土中から飛び出したルピアは、一直線にノエルに襲い掛かった。泥と血にまみれたその薄汚い姿からは黄金の輝きは一切消え失せ、野生の獣臭を漂わせる。図らずもそれは、ルピアの意図を誤魔化した。
決死のルピアの攻撃に対し、ノエルは両手に湾曲刀を備え受け止めた。両手の双剣から伝わる感触には、威圧されるほどだった力強さはもはや無かった。
それを感じ取ったノエルは手負いの獣を相手にしてより形勢を確実にする為に、シャムシールに更に仕掛けを加える錬成を施した。
ノエルがルピアの爪を払い除けると、その動きに連動してシャムシールは伸び、鞭のようにしなやかに跳ねた。刃は鋼線で繋がった蛇腹のような形状となって、分割された刃は空気を切り裂く。ノエルの両手から放たれた鋼の双蛇はうねりながら、巻きつくようにルピアを包囲していく。
仕留めるよりまず、捉えることを優先する戦法は、コハクフクロウがルピアに対して徹底して行っている面制圧の戦略に基づいている。ノエルの攻撃の変化は、満身創痍のルピアに対してなおもまだ警戒心を抱いていることを表していた。
ルピアがノエルを狙った理由は二つある。
一つは、もはやルピアに四人全員を相手にする力は残っていなかった。奇しくも、ルピアが仕掛けた攻撃もまたノエルを仕留める為のものではない。ルピアの目的は、ノエルの攻撃に紛れること。その点で、ノエルの攻撃の変化はルピアにとって理想的な形ですらあった。
ルピアはノエルの攻撃に完全に包囲されるより早く、縫うようにして武器の間合いの外に逃れた。そして他者の攻撃が来る前に、更にそのまま戦場からの離脱を試みた。
ノエルにとってルピアの逃走は思いがけないことだった。今のルピアになら一人でも対処できる自信はあったが、自分の過ぎた警戒心が招いた隙を突かれ、それは感情の揺らぎを生んだ。すかさず追撃には不向きな武器を投げ捨てて反射的にルピアを追う。
「追ってはいけません。」 しかし、上空から響くペールグランの声に、ノエルは冷静さを取り戻した。
今の形態のワイ・バーンがルピアを追えるわけもなく、残った二人の内ルピアに追いつける可能性があるのはノエルだけだった。それでも追跡を諦めたのは、それがルピアの策である可能性があったからだ。
ルピアに対して極めて有効だった面制圧の作戦は、ルピアがこちらに攻めてくる前提で成り立っている。逃げるルピアに対して適用すれば、その攻撃範囲はあまりに広大になりすぎ、それだけの火力を用意できるはずもなかった。
最後のルピアの攻撃に仕留めるつもりで立ち向かえば、逃すことはなかったかもしれない。その悔恨にノエルは歯噛む。しかし、もしその選択をしたのなら、傷つきながらも未だ左爪に力を残すルピアとの戦いは、どちらに転ぶかわからない。
今となっては考えても仕方ない分水嶺は、ルピアのもう一つの理由に遡る。それは、ルピアが自分と同種の匂いをノエルから感じ取ったからだった。
速やかに森に逃れ、姿を隠しながらルピアは木々を飛び移る。それは、清々しいほど迷いのない逃走だった。戦うことができなければ死ぬしかない世界に住むルピアにとって、敗北とは戦えなくなること、つまりは死ぬことである。その価値観に生きるルピアには、死から避けるための逃走を成功させたことは勝利ですらある。
半死半生となりながらもルピアが左手に残した残弾は十分に相手を警戒させ、その生存戦略に生かされた。
その一方で、ルピアを退けたコハクフクロウは当初の目的を果たしたと言える。手を崩してまでこれ以上の結果を求めなかった判断は正しい。しかしその正しさは、後味の悪い勝利となった。




