第56話 特異点
銀灰色の塊が、青天に雷槌が轟くがごとく空を割っていく。ワイ・バーンの加速はまだ止まらず、空の終わりを目指すように上昇を続けていた。
ヒヒイロカネ装甲を流れる魔素の揺らめきが、ノズルからの爆発的な魔法エネルギーを受けて、機体全体があたかも燃え上がっているかのような姿にみせる。轟音を響かせ、振動が機体を小刻みに揺らす中で、操縦席の二人は冷静に計器を見つめていた。
ページ「上昇角度、プラス5から7に変更。ロール制御お願いします。」
タンゴール「了解。上昇角度を変更。ロール制御開始。機体姿勢正常範囲内。」
ワイ・バーンは上昇を続ける中で、安定した巡航状態に入るべく、微調整を行いながら滑らかに機体を傾けていく。
ページ「アルカナエネルギーレベル90パーセント。巡航速度まで残り10秒。」
タンゴール「Yユニットからのエネルギー、最適化完了。機体制御を続行。」
巡航速度に近づいていくにつれて、機体は水平に傾いていく。それは、ワイ・バーンの一つの転換点を示していた。
ページ「巡航速度に到達。Yユニットパワーレベル減衰。ワイ・バーン主翼を展開せよ。」
タンゴール「了解。ワイ・バーン主翼を展開します。」
巡航速度に到達し、Yユニットからの推力は徐々に抑えられ、ノズルからの轟音はひそみ始める。ワイ・バーンから伝わる振動が殆どなくなったところで、操縦席を包んでいた主翼が開き、ワイ・バーンは大空に真の姿を晒した。
それは、シロフクロウのような優雅さがありながらドラゴンのように力強い、相反する要素が融合した独創的な姿だった。美術品のようでさえあるデザインは、設計者であるタンゴールの感性が反映されたものだが、それには科学的にも、魔法的にも裏打ちされた確かな技術理論に支えられたものだ。
ワイ・バーンの広げた翼は、音の発生を抑えた形状と施された魔法によって、とても静かに空気を撫でて悠然と滑空する。
タンゴール「巡航モードへ移行、これより目標地点に向かいます。」
ページ「了解。目標地点までの推定時間はー」
ワイ・バーンは、ドラゴンが飛ぶ空のさらに遥か上空を滑空し、ついにはタワーの魔法障壁を抜けて魔界へと侵入を果たした。それは獲物を捉えた梟のごとく、静寂の中、誰に気付かれることもなく飛び去っていった。
ーーーー
一方、ルピアと大盾の戦いは最後の激突を果たす。
ブラッドと陸奥の突進に対して、ルピアもまた襲い来るルーナの弓矢を躱しつつ、間合いを詰める。限界まで近づいた互いの距離のその先で、二人の攻撃より早く、ルピアの爪がまず陸奥を襲った。
水の遺跡での最初の接触を彷彿とさせるルピアの素早い連続攻撃を、陸奥はあの時と同じように打刀を構え、剣技で捌ききる。それは、ブラッドが間に割って入るまでのほんの僅かの攻防でしかなかったが、二人の行動を縛り隙を作るにはルピアには十分な間となった。二人の反撃を体の柔軟性をもって躱したルピアが見据えるのは、その先の浮いたところにいるルーナだった。
凄まじい速さでルーナとの距離を詰めるルピアに対して、それを察知したルーナは距離を取るのではなく、逆に自らもルピアとの距離を縮めた。その好戦的な対応は、ルピアにとっては想定外なことだったが、ルーナにとっては想定内のことだった。
前に出る二人の隙を突き、防御力が低く近接戦が弱そうなルーナを先に獲る、というあからさまで浅はかな考えに対しては、それを絡め取る罠が張られる。この瞬間を狙い、ルーナは呪文を唱えた。
「水と闇の精霊よ。水を渦巻け、影を凍らせ、放て、水影の矢。」
ルピアが眼前に迫った超至近距離で、ルーナは二本の水影の魔矢を放った。しかしその二矢を、その超至近距離でルピアは躱してのける。
その僅かな隙に、ルーナは跳躍し空へと逃れた。ルピアを相手に自由のきかない空へ逃れるのは危険な行為だったが、ルーナが逃れたのはルピアからではなかった。
避けられることすら想定して放たれた水影の矢はルピアの背後で爆ぜ、発動した二矢は逆回転する水影の渦を作り出した。二つの螺旋は高速で回転する糸車のように無数の細糸を周囲に生み出す。その糸は、凍結した水が編み上げた無数の結晶からなり、周囲の水分を捉え凍てつかせた。その水蜘蛛の巣に捉えられる寸前で、ルピアもまた空へと逃れようと動く。
この瞬間こそ、求めていたものだった。
ブラッドと陸奥は水影の渦の死角から、ルーナは空からその一瞬に狙いを定め、ルピアの一点を目掛けて攻撃を集中させた。ルピアの行動の起点を捉えた三人の執念の攻撃は、見事にルピアにたどり着いた。
しかし、ルピアもまた、思考する。先のヒナとの戦いから、そして中指の爪の犠牲から、三人が学び考えたのと同様に。その戦いで、極限まで追い詰められた経験が、死地における感覚と思考を新たな境地へと誘う。
今、迫りくる研ぎ澄まされた一点集中の攻撃を、覚醒したルピアは避けるでもなく、防ぐでもなく、文字通り捕えた。圧倒的な膂力とセンスをもって、研ぎ澄まされた一点であったからこそできる特異点を、見事に捉えてみせた。
その無茶苦茶なルピアの一撃が放った衝撃は、ルーナの矢を叩き落とし、ブラッドの攻撃を弾き、陸奥の刃を打ち落とした。
その結果、ルピアは右腕一本と引き換えに、大盾の完璧な連携攻撃を跳ね返し、さらに追撃を行うのに十分な優位を得る。次の瞬間には、ルピアはルーナを蹴り飛ばし、その反動を使い咄嗟に構えた陸奥の打刀を叩き折り、ブラッドの心臓に左の爪を突き立てた。
千変万化する戦いの中で、百戦錬磨の大盾の取りえた選択肢は、指の数では収まらないが、その決断に間違いはなかった。常に最善の選択を選び、それを実行し続けたことは賞賛されるべきことだ。しかしそれでも、ルピアには足らなかった。ただ、最善であったことが陸奥の打刀を折り、ルピアの勝利を導いた。しかし、最善であったことがルピアの左の爪を割り、ブラッドの命を繋いだ。
金色のルピアの右腕の負傷に対し、メティスの大盾の支払った代償は、傷ついた射手と、刀を折られた侍と、剣を構えるのがやっとの戦士。それは、ほんの一瞬の攻防であったが、互いに払った犠牲には覆し難い明確な差を生み出した。
この長い戦いの幕を下ろすべく、ルピアはゆるりと歩みを進める。右腕の傷の全ては、今負ったものなのか、ヒナとの戦いで受けた傷が開いたのか、その爪の先から滴る血の全ては自分の物か、返り血なのかは、判別できない。
あの時と同じように自分を追い詰めた敵に対して、その胸中に去来するのは、賛辞か、殺意か。
ルピアは、とどめを刺す為の最後の一歩を踏み出した。どう足掻いても勝ち目のない死路の内にある三人は、それでも身構える。しかし、もはや手はなくブラッドは一言呟く。
「逃げろ。」
ブラッドの懺悔の様に絞り出された声に、陸奥とルーナはブラッドの前に立つ。その行動が、この戦いの全てを物語っていた。
三人に悔いは無い。ただ一つの心残りだけが、拭えずにあった。
ーその時、それは空からやって来たー




