第49話 みかん
夜の静寂に、朝を告げる鳥たちの羽ばたきが冷たい風を運んでくる。新鮮な朝露の香りをのせて、夜明けが近いと知らせる。まだ陽の光が届かぬうちに、オレンは母の日記を読み終えた。
母の日記の中にはオレンが望んだ世界樹の実についての記述は全くなかった。
しかしオレン自身は、それを全く悲観的に考えていなかった。目的を見失って自暴自棄になっているのではない。母の日記との語らいは、それ以上ない充実した時間でオレンを満たしていた。濃密な時間の流れは、心に芽生えた決意の花に血を巡らせ、オレンに計り知れない恩恵を与えた。母との思い出は、ただ知識となっただけでなく、想像力や洞察力を磨き上げ、オレンを支える。それは、望んだ答えがなかったという失望を奪い去り、純粋で貪欲な探求心へと昇華させた。
オレンは不思議に思う。どうして、世界樹の実の事が全く書かれていなかったのか、と。母が全く何も知らない、という可能性も確かにある。だがもし、そうじゃないなら、知っていたなら何故書かなかったのか、そこにはどんな理由があるだろうと推測する。
(もし、母さんが世界樹の実について詳しい知識を持っていたとしたら、それを秘密にしたのはなぜだろう?
人間の世界にはない貴重な物なのだから、広く知られることは避けなければいけなかったかもしれない。
世界樹の実のもつ治癒効果が、その希少価値以上の類稀なものだとしたら、それが広く出回るのはいい事ではないのかもしれない。
ひょっとしたら、その秘密はオーリーが世界樹から帰らなかった理由に繋がっているかもしれない。
だから、その秘密を守るために、何も残さなかった?)
オレンの推測は状況を都合よく切り取って、母の心理を当てはめただけで根拠に乏しい。オレン自身も、少なくともこれでは勇者を説得することなどできないと理解する。
しかし、そんな冷静さとは裏腹に、昂揚した心は様々な考えを呼び起こす。そしてそれは、母マリアにも及んだ。
(どうして母は、世界樹の実を知っていたのだろうか?)
それはもはや、母の日記から外れた空想にすぎないのだが、オレンには考える価値があった。ガモットから聞いた父と母の出会いは、オレンに違和感を感じさせた。そしてそれは、母の日記を全て読んでより深くなる。
日記の中で、母は昔を懐かしんだり、故郷を想ういくつもの文章を残していたが、故郷に帰りたい、とは一言も書いていなかった。母は病床でそれが叶わない事が分かっていた。それは理解できたがしかし、日記の中で帰りたいと願うことすらしなかった理由に疑問が湧いた。
(故郷に帰れない理由があった? それとも、故郷は帰れない場所にある?)
その疑問はオレンを、ある一つの確信に導いた。オレンは、母の日記を最初に覗いた時の事を思い出す。
“今日は庭で、子供たちがおもちゃの弓で楽しそうに遊んでいる。オレンはお兄ちゃんなのに、ミーヤの方がうまいのね。それとも、わざと負けてあげているのかしら。そういえば、私も子供の頃、同じように弓をつくって遊んだっけ。あれはそう、ちょうど白鳥のくちばしにある、神秘なメタリシス、植物金属ハーペリア。それを使って友達にも弓を作ってあげたんだ。あの子は今頃、元気にしてるかしら……。”
植物金属ハーペリア、偶然見つけたそのページが、多くの勇者たちとの出会いを導いた。そして今、オレンと母マリアを繋ぐ。植物金属ハーペリアは、ここに記された場所に確かにあった。ここに書いてある事は嘘でも作り話でもなく、魔界の世界の真実だったのだ。
(つまり…、母は子供の頃魔界の側にいた。
こちら側から見ると形がまるで違った湖の形が、母には白鳥のくちばしに見えたのは…、
それはきっと、向こう側から見ていたからだ。)
この閃きは、オレンが今まで信じていたものを一気に崩壊させた。身が震えるほどの衝撃はオレンを戸惑わせるが、同時にさらなる多くの疑問も生み出した。
(でも、それなら、俺もミーヤも半分魔界の人間の血が入っていることになる。だけど、自分が全く何の違いもない人間であることは自分で保証できる。)
(これってどういうことなんだろう?
とても信じられないけど、魔界側にもこちらと同じような人間が暮らしている?
勇者たちが生きて帰って来れないような世界で?
母さんにそんな強い力なんてなかったはずだ。
そんな力を持っていたのだとしたら、俺が生まれる前にどうやってタワーの魔法障壁を超えたんだ?)
疑問は無限に湧き出るが、今は全ての疑問を解決する時間を許されていない。だからオレンは、より先にある答えを探す。母マリアが魔界の人間であったとしても、父オーシュと結ばれて、オレンとミーヤと、家族共に過ごした過去は揺るがない。その日々に、疑念が入り込む余地は一切ない。
六年前に、父も母も亡くなってしまったけれど、唯一両親が残したリンゴの果樹園を、オレンは受け継いだ。それは誰に強制されたのでもなく、ただそれ以外にしたいことも、できることもなかったオレンには、他の選択肢がなかっただけの事だった。
しかしたとえそうだとしても、これまで繋いだ日々が、オレンを導く。まさにそれは、運命づけられた家族の絆そのものだった。家族の思い出の詰まったリンゴの果樹園へと繋がる絆は、そしてその先にあるみかんの木へと巡る。オレンはみかんを眺めながら、リシャの言葉を思い出した。
(リシャは、このみかんはリンゴの木に世界樹の枝を接木して変化したものだと言った。
そんなこと普通ならあり得ないことだけど、世界樹に宿る神秘の力ならできるかもしれない。
そして、その力がみかんにも宿って、母さんは命を繋ぐことができた…。)
(母さんは一体、どこまで知っていたんだろう…。
味だってそうだ、大抵の人間は不味いと感じるのに、母さんとミーヤは美味しそうに食べていた。
みかんに宿った魔法的な効果か、属性の相性なんかが人が感じる味に干渉してる?
ひょっとしたら、このみかんを美味しいと感じることに、意味があるのかも…。
それならー)
今ここにある、みかんという手に取ることが出来る実体が、家族の絆を文字通り確かな物へと変えた。そしてそれは、そのさらに先へとオレンを急き立てる。
オレンが欲しかった世界樹の実の情報もままならず、具体的な勇者たちへの方策も立てられていない。それでも、このたった一つのみかんが、オレンに先に進む覚悟を決めさせた。
心に咲く決意の花が張った根に、覚悟の力が色を添える。しかしそれはまだ、どんな色になるのか分からない。オレンがこれからやろうとすることは、オレンが守ってきた日々とは矛盾する行為だったが、その一度きりの我儘を通すことに迷いはなかった。
オレンはまだ日が昇らぬうちに家を出る。そしてリシャの家に顔を出した後、その足でユーザへと向かった。
なべて世は事もなし、日は何事もなく巡る。
峰を照らす朝日は一日の始まりを告げ、そして弧を描き反対側の地平に落ちて、一日は終わりを迎える。オレンがユーザへと向かってからおよそ半日がたった。空には夜の帳が降り始め、商業都市ユーザは暖炉や油灯、それに魔子回路を介した明りに溢れだす。
そのまばゆい光の渦の中心には、ルガーツホテルがあった。威厳ある古城の姿は、その中でむしろ周囲の光を閉じ込めて明暗を作り出している。内装に派手さはないが、効果的に配置された照明が夜を煌めかせ、気品を感じさせる。それは、このホテルのオーナーであるカラダリンの理念と手腕がまさに具現化した姿だった。
そのホールの一角には、ルガーツホテルを拠点として活動するメティスの大盾の特別席がある。それはカラダリンはもちろん、ホテル関係者や常連客から広く認知されていることだった。そして今夜もその場所で、大盾の三人は今後の話し合いをしていた。昨日の今日のことでありながら、彼らは三人となった現実を受け止め、次の目標を見据えて行動を始めている。そこにはむしろ、いつにもまして近寄りがたい気迫のようなものが漂う。それは、彼らが失ったものが如何に大きかったのかを物語っていたのかもしれない。
その中に、オレンは姿を現した。仕事の為でない理由で訪れたルガーツホテルが、いつもと違って見えたのは緊張のせいだろうか。オレンは一つ大きな呼吸をして目を閉じ、胸元の指輪を握りしめる。自分の決意と共に覚悟を決めると、大盾の三人の前に、一直線に歩み寄った。
「ブラッドさん…。」 ブラッドの前に行き、オレンは話しかけた。
「オレン君。今、我々は重要な会議中だ。済まないが、君の話は後で聞こう。」
オレンを一瞥したブラッドはオレンの言葉を途中で遮り、拒絶した。
確かにオレンの行為は失礼ではあったが、それ以上に昨日の出来事が敷居を高くする。他の二人も俯いたまま、あからさまに無視をする態度をとった。
しかし、それでもオレンは食い下がる。
「待って下さい。ヒナを…、ヒナを生き返らせる為に力を貸してください。」
オレンはそう言って頭を下げた。
しかし、ブラッドたちはそれを聞き、余計に困った様子で互いに顔をしかめる。一呼吸おいて、ブラッドが重い口を開いた。
「…。オレン君…、我々にはそんな荒唐無稽な話に付き合う暇はない。」
「そんな話なら帰ってもらおう。」
オレンは顔を上げ、即座に切り返した。
「荒唐無稽なんかじゃない! 世界樹の実なら、ヒナは生き返るかもしれないんだ!」
思わず感情的に大声を張り上げ追い縋る。しかしすぐさま我に返り、言葉を続けた。
「ごめんなさい…。」
「でも、本当に世界樹の実はあって、俺の父さんはその実を取りに魔界に入って、そして取って帰ってきて、母さんを救ったんです。」
「だから、世界樹の実ならきっと…。」
オレンは懇願するように声を振り絞る。ブラッドはそんなオレンを見据えた上で言葉を返した。
「…、オレン君。君が嘘をついているとは思わない。」
「だが我々は勇者として、絶望から逃れるために、希望に縋るわけにはいかないんだ。」
ブラッドの言葉には、これまで勇者として戦ってきた重みがあった。
その中には、救えた者もいれば、救えなかった者もいる。その命の重みは、死者が蘇るなどという幻想を拒む。
そしてそれは、オレンの心さえ正確に射抜いていた。オレンの行為は正に、希望に縋ったものだ。だが違う点もある。それは、奇妙な偶然と家族の絆が紡いだ奇跡がもたらした希望だった。
だから、オレンはそれでも、希望を語る。
「このみかんは、うちのリンゴの木が世界樹の力で変化したものなんです。」 そう言って、みかんを取り出す。
「このみかんは俺の母さんの命を繋いでくれた。
それに、俺とヒナを巡り合わせてくれた。
これは、今確かにこの手にある希望の結晶なんだ。
だから、世界樹に行けば奇跡にだって手は届くんだ。」
ブラッドたちはオレンのみかんを見て、確かにヒナがそのみかんを持っていたことを思い出す。
ブラッドは少し考えて、呟くようにオレンに一つ尋ねた。
「なぜ君はヒナの為にそこまでする?」
その問いは、オレン躊躇させた。この一日勇者たちを説得するために、考えられるだけ考えたが、自分の心を語る準備はできていなかった。
大盾の三人を前にして覚悟が緩み、緊張が素の自分を連れてくる。
「それは…、
ヒナは…、
アイツは俺の…、
このみかんを美味しいって言ってくれたんだ。」
そのオレンの言葉を聞いて、これまでずっと俯いていたルーナの耳が激しく動く。そして、堪え切れなくなって顔を上げると同時に、一言放った。
「乗った。」 その一言には笑顔が溢れている。
「では、私も。」 笑顔で笑うルーナの横で、陸奥も即座に便乗する。
「おい、お前ら…。」 その二人を見て、呆れ気味にブラッドはたしなめるが、ルーナは止まらない。
「大体あんたさぁ、この少年を殴り飛ばしておいて、何?」
「ここまでする少年をほっぽり出して、それで済まそうっての?」
「私もそれは、勇者として、いや人としてどうかと思いますよ。」
逆に、二人から責められブラッドは言葉を失う。そして、あらためて二人を見ると、諦めた。
「…。ああ、分かった。
我々メティスの大盾はヒナを蘇生させるため、オレンと共に世界樹に向かい、その実を手に入れる。
それでいいか?」
「はいっ!」 オレンは涙を堪え、声を震わせて応えた。
事の成就を考えるならば、まだようやく出発点に辿りついたに過ぎないが、オレンはかけがえのない一歩を踏み出した。
「…、ねぇ、このみかんて、そんなに美味しいの?」
その傍らで、ルーナはオレンのみかんに手を伸ばす。それを見たオレンが説明をしようとするより早く、ルーナはその実を口へと運ぶ。次の瞬間、ルーナの顔は今まで見たことのない独特な表情を浮かべた。




