第46話 青天
リシャがそう切り出したのは、父親の言葉がきっかけではあったが、本心を包み隠さずさらけ出したオレンに自分も報いようとしたからだ。
その対価として、オレンの両親との思い出を思いついたのは、野ウサギとリンゴのスープが結び付けた偶然だった。
「オレンは小さい時の事はどこまで覚えてる?」
リシャの質問は今のオレンには苦しい。思い出そうとすると、ごく最近の事ばかりが浮かぶ。それでも幼い頃の記憶を思い出そうとすると、それは果樹園の思い出ばかりだった。
「…、みんなでリンゴ取ってる記憶しかないや。」
リシャは少し考えてから、オレンに少し唐突に尋ねる。
「オーリーおじさんって、覚えてるかい?」
その質問にオレンは全く心当たりがないような反応をみせる。それを見て、リシャは続ける。
「オーシュにはね、兄弟がいたんだ。弟のオーリー。」
「オレンも会ってるはずだけど、小さい時だからね、覚えてないかい?」
オレンは小さく首を振る。リシャには、まだ話をするべきか迷いがあるようだった。
リシャにとってその思い出は、良いものなのだろうか、悪いものなのだろうか、オレンには想像もできないことだった。
一つ深く呼吸をして、リシャは語り始めた。
「…。あれはもう十二年も前のことになるね。オレンはまだ四歳、ミーヤなんてたった二歳だった時の話だよ。」
「みんないて、みんな若かった…。」
「ミカビ村は、今とほとんど変わらない静かで穏やかな村だった。私も、オーシュも、オーリーもこの村で生まれて、外の世界なんてほとんど知らないで、私もそんな村の生活を退屈に思うこともあったよ。」
「そんな生活の中で、ある時マリアが大病を患ってね。生死の境を彷徨ったことがあるんだ。」
「オーシュはもちろん、村のみんなで方々手を尽くしたけど、どんな薬も魔法も効果はなかった。」
「そして、日に日に衰弱していくマリアをどうすることもできずにいた時、オーシュがどこからか、世界樹の実の話を聞きつけて来た。」
「その話は、あの世界樹にだけ実をつけるという神秘的な生命力を宿す実についてのものだった。」
「その実を一口かじれば、どんな病魔に侵された身体も立ちどころに治り、二口かじれば、何者にも打ち勝つ強さを手に入れ、三口かじれば…、なんだったか…、まあ、そんな御伽噺のようなものだった。」
「それでオーシュは、その実の為にタワーを超えて世界樹へ行こうとしたんだ。その話を疑いもせず信じたわけじゃない、ただ、藁をもすがる気持ちだったんだろうね。」
「わたしはね、マリアには悪かったけど、それには反対したんだ。」
「だってそうだろ? 魔子を持たない村人風情が魔界へ入るなんて自殺行為だ。それに万が一の事があったら、オレンとミーヤはどうするのさ、てさ。」
「だけど、わたしの反対も聞かずに、オーシュは、弟のオーリーと、幼馴染のガモットと三人で世界樹の実を取りに向かったんだ…。」
「それから、いつ帰るかも分からないオーシュたちを待って、ただ時だけが残酷に過ぎていくのは本当につらかったよ…。」
「そして三日が過ぎて、オーシュたちは帰ってきた。その手に、世界樹の実を持ってね。」
「でもね…、帰ってきたのはオーシュとガモットの二人だけだった。」
「そこにオーリーの姿はなかったんだ…。」
「向こうで一体何があったのか、オーシュもガモットも何も言おうとしなかった。だから、私も何も聞けなかった…。」
「二人が戻った時、マリアは本当に危ない状態だった。もう一日遅ければ間に合わなかったかもしれない…。」
「それが、世界樹の実を口にした途端、嘘のように良くなってね。本当に、その時は驚いたよ。」
「それでまた、しばらくは元気な姿を見せてくれたんだけど…。」
「ただ、伝承なんてものは、尾ひれがつくもんでね。一年もすると、だんだんとマリアは悪くなっていった。」
リシャの言葉を、オレンは黙って聞いていた。
オレンの記憶にある母親のマリアは病弱だった姿しかない。父親のオーシュはこの話を一度もしたことはなかった。それはおそらく、オーリーに起因するのだろう。
「…オレン、リンゴの果樹園にどうしてみかんの木があるのか、考えたことあるかい?」 オレンは黙って首を振る。
「あれはね、世界樹の実についていた枝を、リンゴの木に接ぎ木したんだよ。そうしたらリンゴの木がみかんのような実をつけるようになったんだ。」
「あの実、食べたことあるだろ? わたしもオーシュもどうにも食べられなかったけど、マリアとミーヤは美味しそうに食べてたね。」
「あのみかんのおかげで、マリアも少しは楽になっていたのかもしれないね…。」
「オレン。確かにあんたは何の力も、才能もないのかもしれない。」
「でもね、それがなんだってんだ。わたしから見れば、オーシュはあんたにそっくりだったよ。あいつも取り柄らしい取り柄なんて何一つなかったけど、それでもちゃんと父親やってたろ?」
「だからね、オレン。失敗を悔いて、自分を嫌うなんてやめな。顔を上げて、あんたを支えてくれてる人をちゃんと見てごらんよ。」
オレンの知らない、いや正確には、その場にいたはずだが覚えていない物語は、オレンの空になった心を揺さぶる。そして、その心地良くも狂わせるような振動は、空の心に新たなものを芽吹かせようとしていた。
「ねえ、リシャ…。俺が、今から言うことを許してくれる?」
「なんだい?」
「…世界樹の実にはさ、人を生き返らせる力ってあるのかな?」
オレンのその質問に、リシャは深く息をつく。
その答えをリシャは持っていない。しかし、それをそのまま伝えたとして、オレンはどう考えるかを危惧する。オレンが立ち上がる為とはいえ、オーシュと同じ行動をとることは、リシャの本意ではない。だが、この話をした責任を感じる。
そして、それを嘘で汚すのは耐えられなかった。
「ごめんね、オレン。世界樹の実にどれほどの力があったのか、わたしには分からない。」
「でももし、そんな力があったとしたら、あんたはどうするつもりなんだい?」
その問いにオレンは即答できなかった。自分の力でタワーを渡って世界樹に辿り着くなど、不可能に思えた。人の力を借りるにしても、その人が犠牲になるようなことも考えられなかった。余りに非現実的で、八方塞がりの可能性を拾うほどの蛮勇をオレンは持っていなかった。
オレンの沈黙に、銀鎖に繋がれた翡翠の指輪が、オレンの胸元できらきらと光る。その僅かな光は心に芽吹いた新芽を照らす。それは、ヒナとの思い出をとても鮮明に映し出す。そして、その一つ一つが新たな心を飾る。
「いつも唐突に現れて
何考えてるかわからなくて
会話のキャッチボールが出来なくて
結局、訳が分からないままなんだ…。」
光に照らされて、新芽は膨らむ。
「フワフワのピンクの髪が綺麗で
妹を思って笑う顔は可愛くて
俺のことを信じてくれて
あのみかんを美味しいって言ったんだ…。」
新芽は膨らむ。
「だから…、可能性があるなら…、俺はやらなきゃいけない。」
新芽は決意の花を咲かせた。
オレンがみせるその決意の花には、恐れも、疑心も入り混じる。決して力強いとも、美しいとも言えない花だ。これは、物語に魅せられた子供が、自分をその物語の英雄に投影するのと同じに過ぎないのかもしれない。そこには、決意を叶えるための計画も、実行力もない。そんな空っぽの花が、実を結ぶ可能性は極めて低い。
だが、そんな花だからこそ、リシャの心は動かされる。
「まいったね…。あたしは、あんたにそんなこと許したくない。けど…、同じぐらい応援してあげたいと思っちまってるよ。」
「…、あたしは世界樹の実について詳しく知らない。でも、火竜亭のガモットなら何か知ってるかもしれないね。」
リシャはオレンにそう伝える。それを言わない選択もできたが、伝えた。
「ありがとう。俺、行ってくるよ。」
オレンはお礼を言うと、目の前のスープを一気に平らげる。その姿はこれまでのオレンと変わらないように見えた。
「リシャ。凄く美味しかった。また作ってよ。」
そう言ってオレンは、家を飛び出してカカミへと向かった。青天の中をかけていくオレンを、家の中から見送るリシャは微笑ましくも悲し気な表情を浮かべていた。




