第45話 赤子
昨日の雨雲はすっかりどこかへ消え去り、青空が一面に広がっている。朝日が昇り、鳥のさえずりが、いつもと変わらない朝を告げる。しかし、食卓の様子は少し違い、とても静かだった。マジオのスピーカーから流れる音は閉じ、お互いの生活音だけが流れる。
食卓では、オレンは普段通りの振る舞いをしているようにみえるが、ミーヤはそんなオレンに何と声をかけていいのかわからない。オレンも内心では、昨日のことを何と切り出していいか悩んでいた。沈黙に囲まれた食卓からミーヤが先に声をかけた。
「…ねぇ。今日は休まない?」 ミーヤは明らかに普段と違うオレンを気遣う。
「馬鹿言うなよ。そんなことできるわけないだろ。」
それに対して、オレンの態度はそっけない。しかしそれは、表面上は普段と変わらないようにも見えた。
もし仮に、今年の収穫を全て打ち切ったとしても、ブラッドたちが約束を守り、その補償をしてくれるだろう。だから、できるわけはあるのだが、そんな選択肢をオレンが選ぶわけはなかった。来年もその先も今の生活を続けていくオレンには、そんなことをしたら、失うものの方が遥かに大きいことは分かり切っていた。
「でも…、ありがとう、心配してくれて。もう、大丈夫だから…。」
「お兄ちゃん…。」
ミーヤにはオレンの言葉は強がりに映る。しかし、それ以上かける言葉を見つけられなかった。オレンにはむしろそんなミーヤに対して自然と申し訳ない気持ちが生まれ、素直な言葉を口にできた。
「それから…、ゴメンな、昨日は。」
「ミーヤの気持ちをちゃんと、考えてあげられてなくて。もう、間違えないから…。だから、今日は手伝ってくれる?」
「もちろん!」
ミーヤはオレンの強がりを笑顔で受け入れた。オレンがそれでいいなら、それを尊重して支えてあげようと思った。ただ、妹の前でも無理をする兄の姿は、ミーヤを少し寂しくさせた。
二人は果樹園に出て、いつも通りに仕事を始めた。少しのぎこちなさはあったが、滞りなく作業は終わった。普段なら早々に学校に向かうミーヤだが、今日は最後まで手伝ってオレンを見送ってから出発していった。
オレンは普段通りに村を回る日課をこなし、そして最後にリシャの所に立ち寄る。家の前にいたリシャの父親と少し会話して、それから中に入った。家の中では、リシャはいつものように食事の支度をしていた。
「リシャおばさん。おはよう。」
「おはよう、オレン。」 リシャは作業を続けながら挨拶を返す。
「…今日は何か用事ある?」 オレンは普段と変わらない姿を取り繕い、いつものように質問をした。
「あるよ。」
「市場でアーモンドとフェンネルをお願いできる?」
リシャが用事を頼むことは滅多にない。それはリシャの生活は村の中で完結していて、外のものをほとんど必要としないからだ。だから、稀な用事を頼むことにそれ以上の意味などないのだが、今のオレンには普段と違うだけのことが、心に小さな波紋を作る。
「…。わかった。それじゃ、カカミで買ってくるから。」
オレンはそう言ってリシャの家から出て行こうとした。その去り際に、リシャは声を掛けた。
「オレン! 今日は用事が済んだら、すぐ家においで。一緒にご飯食べよう。」
リシャがこんなふうに食事に誘うことは今まで一度もなかった。リシャと一緒に暮らしていた頃や、他の村人たちを交えて一緒に食事をすることなどは何度もあった。しかし、日課のこのやり取りをする中で、こんなことを言われたのは初めてのことだった。そして、ただそれだけの些細な変化が心に生じた波紋を広げる。
「…。うん、わかった。」
ただそうであっても、オレンには断る理由などもちろんなく、その提案を受け入れた。そしてそのままカカミへ向かった。
カカミの市場に着くと、オレンは顔馴染みの商人を相手に仕事をこなす。そのオレンの仕事ぶりは普段と何も変わらない。相手がオレンの抱えている事情を全く知らないせいもあったが、むしろその方がオレンの心は和らいだ。それから村の用事とリシャに言われた物を買い揃え早々と帰路に就いた。オレンにとっては仕事をしている間よりむしろ、行き帰りの馬車に揺られている時間の方が、取り留めのないことを思い浮かばせる。しかし、それからは何も生まれなかった。
ミカビ村に戻ったオレンはそのままリシャの家へ向かった。リシャの家の扉を開けると、リンゴの甘く爽やかな香りが広がる。オレンが日常的に感じているよりそれは、火を入れられた強い甘みを感じる香りだった。オレンに気づいたリシャは声をかける。
「ようこそ、オレン。どうぞ、あちらにかけてお待ちください。」
リシャは必要以上に丁寧な言葉を使ってオレンをもてなす。その意図をオレンは図りかねたが、食卓に座る前にリシャに頼まれた食材を渡した。リシャはお礼を言って受け取ると、すぐに処理を始め、オレンはその間に食卓に着いた。オレンもよく知るその食卓は丁寧な言葉ほどの飾り気はなく、簡素なものだった。
そうしていると、間を置かずに料理が運ばれてきた。その料理は野ウサギとリンゴと幾つかの野菜を煮込んで、仕上げに砕いたアーモンドとフェンネルの葉が添えてあるスープだった。先ほどまで漂っていたリンゴの甘い香りに、アーモンドとフェンネルの香りが複雑に絡み合って食欲を刺激する。普段食べている料理とは明らかに違うこの料理は、リシャが手間と吟味を重ねて作ったものであることが見て取れた。
準備が整うと、オレンとリシャとリシャの父親の三人で食卓を囲み食事を始めた。オレンはこの野ウサギとリンゴのスープを口に運ぶ。その様子を見てリシャが尋ねた。
「どうだい? 美味しいかい?」
このスープの一口一口が今のオレンにはとてもしみる。この優しい味は、昨日からほぼ丸一日、まともな食事をしていなかったことをオレンに気付かせた。
「うん、とってもおいしい。」
このスープはとても不思議な味がした。特別な食材を一切使っていないのに、一つ一つの複雑な旨味が調和して、とても美味しい。不思議に感じたのは、どうやってこんな味を出しているのかということ。それと、リシャと生活を共にした時もあったのに、今までこの料理を食べたことが無かったことだった。
そんなオレンを見て、リシャも食べ始める。
「…、うん。久しぶりに作ったから不安だったけど、上手くできてるじゃないか。」
リシャは自分の作ったスープを笑って自画自賛する。そしてそのまま、笑顔をオレンに向けて、こう付け加えた。
「気に入ってくれたかい?」
「…、この料理はね、オーシュもマリアも好きだったんだ。」
そのリシャの言葉と、この一皿のスープがオレンの心を満たし、そして溶かす。
満たされた器の内側から湧き出てくるものによって溶けて溢れた心を、ゆっくりと少しずつ、オレンは吐露し始めた。
「…、俺は自分が許せない…。
気付いたんだ、自分の心の奥にあるものに…。
…、俺は嫉妬した。
この村から離れて、自由に生きているシュレやショーゴに。
そして…、魔法の才能がある自分の妹にすら。
だから…、突然今まで知りもしなかった勇者達に認められて、
いい気になって…、調子に乗って…、
でも結局、そのせいで、取り返しのつかないことになって…。
どう償っていいのかわからない…。
どうしたらいいんだろう…。」
その声はスープの湯気にかき消されそうなほど弱弱しくたどたどしい。
そんなオレンにリシャは優しく、赤子をあやすかのように尋ねる。
「オレンは今の仕事が嫌いかい?」
「嫌いじゃない。そんなことない。
ただ…、少し夢を見たんだ…。
とても楽しくて、嬉しい夢だった。
でも、もう終わってしまった…。俺のせいで…。
それが、寂しくて、悲しい。」
オレンは嘘偽りの無い言葉を紡ぐ。リシャはそんなオレンの為に、最後にもう一歩踏み込んで吐き出させる。
「愛していたのかい?」
「…。うん、大好きだった。こんな俺を、特別だって言ってくれた。
だから…、その気持ちに応えたかったんだ。
でも…、なのに…、でも。
…今はただ、もう一度だけ声が聴きたい。」
リシャはただ、オレンの心から溢れるのを促し、その声を聴いている。ただ、そうしている。
魔子を持たない一般人でしかないリシャは、塩の天秤のアンシアのような傷を癒す能力を持っていない。けれど、野ウサギとリンゴのスープを作れるリシャにしか、オレンの心を癒すことはできなかった。
オレンの言葉を聞いていたのは、ここにもう一人いた。同じ食卓を囲むリシャの父親ムグロは、ずっと黙って食事をしてる。ムグロは年老いて、記憶と思考が曖昧でオレンを父親のオーシュとすら勘違いしていた。そんなムグロは静かに食事をしていたが、オレンの言葉を聞いて一言呟いた。
「…、その言葉を聞いたのは、二度目じゃの。」
「マリアちゃんがまた悪くなってしまったのかの?」
その場の空気も分からず、合わないことを言うムグロをリシャはなだめる。ムグロがこういう状態なのはオレンも知っている。オレンも穏やかに接するが、そのオレンを見てムグロは本当に心配する様子で尋ねた。
「オーシュ君はもう一度、世界樹の実を取りに行くつもりなのかの?」
その不可解なムグロの態度と支離滅裂な質問にオレンは戸惑う。しかし、戸惑いが薄れていくにつれて、それと引き換えに言われた言葉の意味に気が向く。そして、そこに生まれた疑問を口にした。
「…、世界樹の実、って?」
しかし、それを言ったムグロ本人は曖昧で、その問いに答えられる口を持たない。その代わりにリシャが口を開いた。
「…。オレン、少し昔の話をしようか。」
そう話すリシャはどこか寂しげだった。




