第44話 空白
とても心地良い…。暖かい…。ずっとこのままでいたい…。
俺、何してたんだっけ…。…今日はなんかとても、嫌なことがあった気がする…。
……。
なんだったっけ…。思い出せない……。
オレンは目を開けた。そのオレンの右目に入ってきた光景は全く知らない場所だった。ふかふかのベッドと豪華な調度品に囲まれ、夢から覚めたのか、未だ夢の中なのか上手く定まらない。だが今のオレンには、右目に映るものよりも見えない左目のほうが気になった。オレンの顔の左側は、誰かの手によって覆われていた。
「あら、目覚めたの。」 その手の持ち主は、目覚めたオレンに気づき声をかけた。
「もう少し待ちなさい。」
見える右目がその声の先を捉える。そこにいたのは塩の天秤のアンシアだった。それは、オレンにはとても不思議な事だった。しかし、今は何も考える気が起きなかった。ただ、雪のように白い左手から感じる心地よい温もりに、全てを委ねていたかった。
アンシアはそんなオレンの意を汲むように、それ以上二人は一言も発しなかった。その一室にはとても緩やかな静寂が流れていた。
しかし、その心地良い無音は長くは続かなかった。間もなくすると、重い足音と共にブラッドがオレンの前に現れた。ブラッドは先ほどと違い、身なりを整えオレンに対して緊張した面持ちで立っている。
「出て行きましょうか?」 アンシアは、ブラッドに提案する。
「いや、そのまま続けてくれ。」
「…オレン君。私は君に許されないことをした。本当に、すまない。」
そう言ってブラッドは深々と頭を下げた。だが、オレンはその謝罪に対して反応しなかった。それは謝罪を受け入れないのではなく、頭の中にある空白が理解を妨げていた。そのせいでオレンには何のことを言っているのかすら分からない。そしてそれは、理解しようとする意欲すら奪っていた。
沈黙を続けるオレンを前に、ブラッドは頭を上げ、続けた。
「…当然のことだが、君が受けた被害は全て弁償する、君の仕事に関わる間接的な損害も全て含めて。だから、安心して最高の治療を受けて身体を治して欲しい。」
「それから…、君に対してのけじめとして、我々メティスの大盾は金輪際、もう二度と君とは一切関わらない。」
「それを以て、どうか私を許して欲しい。」
そう言ってブラッドは、再び頭を深く下げた。だが、オレンの頭の中には空白がある。何のことを言っているのか分からないオレンには、何故なのかを考えることすらできず、かえって素直にその言葉を受け入れることができた。
(…もう関わらない。…そうか、もう終わりなのか…。…終わり? そっか…。)
そのオレンの沈黙と表情は、ブラッドに肯定として伝わる。ブラッドはそれを受け、口を堅く閉じ出口へと向かった。
ブラッドが最後にもう一度頭を深く下げると、オレンには再び、心地良い静寂が訪れた。
静寂の中で、オレンはただ不思議だった。アンシアが自分の顔に手を当てていることもだが、今はそれよりも、カラダリン邸で感じた自分へ向けられた忌避が、一切無くなっていることが不思議だった。今のオレンにそう考えさせるほどに、アンシアの左手の温かみからは、愛情のようなものすら感じられた。しかし、アンシアはそんなオレンの意に反するように、オレンの顔に添えていた左手を離した。
「どう? まだ痛む?」 アンシアはオレンに尋ねた。
オレンはこの時初めて左目を開けた。左右に全く差異を感じなかったオレンはこの時初めて口を開いた。
「…いえ、全く。」
「そう。」 それまでオレンの頭の方を向いていたアンシアは、正面に向きなおす。
アンシアの治療魔法によって、ブラッドに殴られたオレンの顔は、痣一つ残らず完璧に治っていた。頭部への打撃などには、表面だけでは分からない異常もあるが、アンシアの魔法の処置は顔の表面だけに留まらず、その内部にも及ぶ。しかし、現在の勇者たちの中で随一の治療魔法師であるアンシアの能力を以てしても、オレンの頭の中に残る空白を消すことまでは出来なかった。
アンシアは、オレンの傷の状態を確認し終えると最後に言った。
「こちらで馬車を出すから、すぐに会いに行きなさい。これで、最後なのだから。」
そう告げると、アンシアはオレンに起き上がるように促した。
何のことを言っているのか分からないオレンには、何故なのかを考えることすらできず、かえって素直にその言葉を受け入れることができた。
オレンは起き上がり出口へ歩く。アンシアはその所作をオレンの背後から注意深く見守っていた。オレンが何の異常もなく部屋の出口まで辿り着いたのを見て、その後を追うようにアンシアも部屋を後にした。
オレンは部屋から出ると、今まで自分が寝ていた場所がルガーツホテルの一等室の寝室であったことを知る。そしてすぐに、部屋の外で待機していた塩の天秤のフィクロと鉢合わせした。フィクロはオレンを前に会釈し、すぐ後ろのアンシアに目配せすると、そのままオレンを外の馬車まで案内した。
外は大雨になっていた。オレンは、いつからこんなに降っているのか気になったが、頭の中にある空白が妨げる。オレンが思い出せるもっとも最近の事は、今朝何かとても嫌なことがあった、というあやふやな事だけだった。
大雨の中、フィクロはオレンを馬車に乗せ、ユーザにある教会へと向かう。二日ぶりに乗る馬車の中で、オレンはふと思い浮かんだ。
(チュノー孤児院の子供たちマオレさんと元気にしてるかな。)
オレンの頭の中の空白は今日の一日を覆い、それ以外の記憶ははっきりとしていた。特に最近の楽しかった思い出などは鮮やかだった。それは、嫌なことを覆い隠そうとする防衛本能だったのかもしれない。
そんな思案も束の間、馬車は直ぐにユーザの中心地にある大きな教会に到着した。
オレンはその教会の一角にある小さな礼拝堂の一つへ案内された。幾つかある礼拝堂は大聖堂に比べとても小さく、重々しい静寂に包まれていた。
そして、その礼拝堂の中央にはヒナが安置されていた。
オレンは静寂の中、一人きりでヒナと対面する。その体は清められ、組んだ手には六色ワンドが握られていた。暗がりの中、蝋燭の明かりがヒナの顔に揺れる。その顔はオレンの瞳に映し出されていたが、心が揺さぶられることはなかった。
オレンの頭の中には空白がある。今日とても嫌なことがあったという曖昧な記憶が、それはこれじゃないと告げる。その声はオレンを強烈に強制し、目の前の出来事を否定させた。目の前の事実を拒否するオレンは、ただ黙って礼拝堂から立ち去るしかできなかった。
「どうされますか? 部屋に戻られますか?」 礼拝堂の外でフィクロは話しかける。
それはつまり、あのルガーツホテルの一等室を自由に使ってよい、という旨だったが、オレンは迷わず言った。
「家に、帰ります。」
大雨の中、フィクロはミカビ村まで馬車を走らせた。
家ではミーヤが心配して待っていた。ミーヤは朝のことなど忘れたかのようにオレンを気遣ったが、ミーヤを前にオレンはどうしたらいいのか分からなかった。オレンの馬車は、塩の天秤のもう一人の家令が家まで運んでくれていた。激しい雨の中、馬車を出してくれた天秤の二人の家令に、オレンに代わりミーヤが礼を言う。オレンはただそれを眺めているだけしかできなかった。
その真夜中、オレンは自分の部屋でただ座っていた。何をするでもなく、眠くもならず、ただ普段そうしているように、作業机の前に座っていた。
オレンの頭の中にはまだ空白がある。普段の生活をなぞることが、空白を埋める作業療法だと考えたわけではないが、そうしていると何となく落ち着いた。そしてしばらくすると、ふと思い立った。
オレンは、母の日記を取り出し広げた。
これまで何度も読み返している父の農業日誌と比べ、母の日記はまだ一部を読んだだけだった。母の日記を読み始めたのは、そこに書かれていたことが大事な人の役に立つと思ったからだった。でももう、これで終わりにしようとオレンは決めた。そうするべきだと考えた。
だから最後に一つだけ、今まで見ることができなかった、意図的に読むのを避けていた日付を開けた。
それは、あの六年前の日の前日の記録。
”今年も果樹園のリンゴとみかんはたわわに実る。とても甘い香りがあたりに漂う。今日は朝からオレンとミーヤは仲良くオーシュのお手伝いをしてる。オレンとミーヤは家の事もちゃんとして、本当にいい子たち。
二人とオーシュには本当に感謝している。六年前、病気になって倒れた時、オーシュは私を救ってくれた。
私はオーシュが私の為に背負ったものを、少しでも軽くしてあげたい。
ミーヤとはもっと色んなところに行ってあげたい。
オレンにはもっと色んなことを教えてあげたい。
でも、オーシュのみかんのおかげでここまで頑張ってこれたけど、私はもうそれほど長く生きられないかもしれない。
オレンとミーヤが大きくなって、相手を見つけて結婚して、子供を持って。そんな姿は見られないかもしれない。
これはお母さんに同じことをした私への罰なのかもしれない。
それなら私はそれでいいです。
だからどうか、三人にはいつまでも仲良く、そして幸せでいて欲しい。”
日記に続く空白のページを、大粒の涙が滲ませた。




