第42話 勇者様、死す
ヒナの魔法が生み出した夕立がやむと、残った巨大な岩塊の外殻には衝撃による亀裂が走った。無数の亀裂は岩塊内部に空気を送り、中心部は急速に冷却される。そして、急激な温度変化と、物理的な衝撃の相乗効果によって、岩塊は見事に真ん中で裂けた。割れた岩塊は崩れ落ち、再び水を噴き上げる。それは青天に降る小さな二度目の夕立となった。
下りたはずの幕に降り注ぐ二度目の雨は、起こるはずの無いアンコールを沸かす。
その目を疑う光景は、ゆっくりと大盾の一同に戦闘体勢を整えさせた。彼らが構えるその矛先は、岩塊に潰されたはずの金色のルピアに向けられた。
ルピアは割れた岩塊の中心に立っていた。息は荒く、美しかった黄金の姿は煤け、特に右腕は赤く染まっている。その血塗れの右腕は、ブラッドたちにある間違いを改めさせた。あの重い破裂音は、岩塊が地面と衝突した音ではなく、ルピアが岩塊を殴り砕いて発生した音だったのだ。
それでも、その姿を見たブラッドたちは、自分たちから攻撃をしようとは考えなかった。それは臆したからではなく、これで退いてくれるのならば、それでよかったからだ。規格外の手負いの獣をこれ以上追い詰める危険を負う理由を、ブラッドたちは持っていなかった。
ウィーナに至っては、ルピアの姿を目にして同情的な表情すら見せていた。
「「ウォオォォォ!!」」
しかし、突如発せられた雄叫びは、同情を跳ね返す。その人とも狼とも区別がつかない雄叫びは空気を揺らし、痺れるほどに鳴り響いた。満身創痍となってもルピアは意地を押し通す。その場の誰もが、言葉ですらないその声を理解した。
「水風光の精霊よ。瓢蛟龍を淵より呼び出せ、岩戸を放て、雷光閃け。」
誰よりも早く、ヒナはまるでルピアの声に応えるように呪文を唱えた。
そしてルピアもそれに応えるように、即座に反応して動き出す。
自分を殺すかもしれない好敵手を前に、ルピアの顔には無邪気な笑みが宿っている。この二人の間には、戦いの因果を超えた奇妙な絆が生まれていた。
ヒナの魔法は、割られた岩塊の内部エネルギーを解き放つ。膨大な熱エネルギーと引き換えに、岩塊はさらに細かく砕け散る。熱は瞬時に電気へと置き換わり、誘発された電子の奔流が雷電となって、のたうつ龍のように解き放たれた。光り輝く命を宿した稲妻は、轟音と共にルピアに襲い掛かった。
ルピアが逃げるより速く稲妻は襲い掛かる。蛇が獲物を締め上げるように雷電は執拗に絡みつく。ルピアの身体の堅牢さを無視して、電撃は体の動きを麻痺させた。
「ガァッ、グァッ、グッ、ガッ!」
連続する電撃は、望まぬルピアに無理やり悲鳴を絞り出させた。
ヒナの魔法は一切容赦なく確実にルピアを追い詰めていった。
もし、このまま魔法を維持したのなら、ルピアにとどめを刺せていたかもしれない。しかし、ヒナにたった一つの迷いが生まれる。
この魔法の性質上、水場での影響範囲は広くなる。それでもブラッドたちなら耐えられると信じられた。しかしここには、ウィーナがいた。その想いが迷いを生み、迷いが魔法に隙を生んだ。
ルピアは恥辱と痛みに耐えながら、その機会を待っていた。もはや敵意すら湧かぬ敵を殺す為、敵の攻撃に耐えていた。血濡れた右手にただ意地だけを赤子のように握りしめ、虎視眈々とその時を待っていた。
そして、ヒナの魔法が緩む瞬間が訪れる。その一瞬をルピアが見逃すはずなどなかった。残った己の全てを僅かに生じた刹那に賭して、雷電の蛇沼からの脱出に成功する。
もはやその姿からは金色の輝きは消え失せ、強かで泥臭い獣の姿を晒していた。もし、このまま逃げていたのなら、ヒナはとどめを刺そうとはしなかったかもしれない。しかし、ルピアにはたった一つの意地しか残っていなかった。ルピアはその全てをヒナにぶつける。
ルピアは凄まじい速さでヒナとの間合いを詰める。しかし、この状況に備えていたブラッドたちもその速さに対応し、ルピアとヒナの間に割って入った。
だが、ルピアはブラッドたちを歯牙にもかけず、彼らの繰り出す攻撃をことごとくすり抜ける。もし、ルピアにほんの僅かでも敵意が残っていたのなら、彼らは盾の役割を果たせたかもしれない。しかし今、狼の瞳は暗黒に染まり、その中に映るのは唯一ヒナだけだった。
ルピアはヒナに迫る。ヒナは身体を浮かせ、ルピアの右手の一撃を紙一重でかわす。しかしこの時、ヒナの首に下げた翡翠の指輪がルピアの砕けた爪痕に引っかかり、宙を舞った。
その翠緑の光を目で追う一瞬、ヒナの動きが止まる。
そしてその刹那、ルピアの左手の二撃目がヒナの体を刺し貫いた。
翡翠の指輪は河原に転がり、ヒナはその場に力なく崩れ落ちる。
しかし、寸前のところでルーナがヒナを抱きかかえた。ヒナの状態を確かめ、歯を噛み顔を上げる。
「ブラッド!!」 ルーナの悲痛な叫びが響く。
その声に、ブラッドは選択を迫られる。最悪の事態を前に、過去の記憶がよみがえる。自分が盾となると宣言したにもかかわらず、果たせなかった罪業に縛られる。だが、それでも残ったものの為、噴き上がる後悔と懺悔を抑え込み、全てを覚悟で塗り替えた。
しかしここには、そのブラッドよりも僅かに早く覚悟を決めた者がいた。その想いが言葉を紡ぎ、言葉が魔法を生んだ。
「ᚦᛏᚨ ᛗᚠᚢ ᛏᛉᛟ ᛗᛏᚢ ᚦᛏ(ソティア マフウ ティアルオ マティウ ソティ)」
その呪文は古代の言葉を紡ぐ。それはエルフのルーナですら聞いたことのない言葉だった。
その呪文の文字はぼんやりと光りながら、ゴーレムのラカタンに浮かび上がり刻まれる。刻まれた文字は、歯車が回る様に機械的に動き始める。それによってラカタンの体に変化が現れた。ずんぐりむっくりとした愛らしい体形はそのままに、大きさが何十倍にも膨れ上がった。巨人のような大きさにまで成長したラカタンは、ルピアの前に立つ。
空白の中に静かに佇むルピアの心情は、全く読み取ることはできない。狩りではない戦いで獲物をしとめた狼の感情を、人は推し量る術を持たない。
狼なのか、人なのか、あやふやな存在は、ただそのままに、新たな敵を迎え撃つ。もし、思考を巡らせたのなら、ラカタンを相手にせず術者を標的にすれば決着は早い、と容易に辿り着いただろう。しかし、ルピアはラカタンの巨腕の攻撃を真っ向から受けて立った。
その巨体から、ラカタンはルピアに殴りかかった。その巨体ゆえ、ラカタンの一撃は重く、そして遅い。たとえ今の満身創痍のルピアでも、避けることなど容易に出来るはずだった。しかしルピアは、巨腕の右の一撃に尖鋭な左の一撃をぶつける。力と力の衝突は衝撃を生み、周囲の空気と共に双方の攻撃を弾いた。
「みんな、逃げて!」 その乾いた空気に声が響く。
その声に、ブラッドは選択を迫られる。自己犠牲の覚悟を前に、他者の犠牲を差し出される。自分が盾となると誓約したにもかかわらず、果たそうとしない罪業に縛られる。だが、それでも残ったものの為、噴き上がる後悔と懺悔を抑え込み、覚悟を屈辱で塗り替えた。
ブラッドたちは最も大事なものの為に、全てを捨てる決断をした。僅かな逡巡すら惜しみ、ヒナを抱えて敗走する。己の無力感と罪悪感に押し潰されそうになりながら、来た道を急ぎ戻る。
手持ちの薬で応急措置を施すが、ヒナの傷は深く、手の施しようがなかった。ブラッドたちの中に治癒魔法に長けた者はいない。だからこそ、彼らはヒナを引き入れたのだが、だからこそ、皮肉屋の女神はいつも必ず裏目を選ぶ。ならばこそ、賽の動きが完全に停止するまでの僅かな望みに賭け、一刻も早い人の世界への帰還を目指した。
彼らの手の中には勇者の誇りもなく、戦士としての矜持もなく、なんの栄誉もない。ただ、魔法使いの消えかけの命があるだけだった。




