第36話 勇者様、自分の妹自慢をする
暫くの静寂を破り、コートランドは率先してこの場を進ませる。
「さて、オレン君。」
「我々はこのまま勇者への教導を続けても構わないけれど、君はどうしたいですか?」
その問いはオレンを悩ませた。まず、自分にそれを受ける資格が本当にあるのか疑問だったが、構わないと言われたのは意外だった。それは、まだ知らない勇者の知識を得られるよいチャンスでもあるように思われたが、実戦訓練などと言われたら、そんなものに自分が耐えられる自信もなかった。
どっちも決められないオレンは素直に聞いてみた。
「…あの、この後はどんなことをするんですか?」
オレンの質問に、コートランドはレシアに視線を送る。レシアは間を置かずアイコンタクトで返した。それだけのやり取りでコートランドは理解し、提案する。
「そうですね。それでは、ケルナーに会って頂くのは如何でしょう。」
「ケルナー…さん、ですか。その方は一体?」
「それは、会ってからのお楽しみということで…。」
コートランドの見せるそのらしくない思わせぶりな言葉からは、何かの思惑を感じさせるが、ケルナーという人物について何も知らないオレンには、それが何なのか皆目見当がつかない。
「…、わかりました。では、そうします。」
だがオレンには、この提案を断る理由も見つからず、安易に了承した。ケルナーとはどんな人物なのか、今ここで聞いてもよかったが、まさか取って食われるわけでもないし、どうせ会うならその時でいいと思った。
「レシア。オレン君をケルナーのところへ。」 コートランドは再びレシアに預ける。
「はい。勇者コートランド。お任せください。」
レシアは落ち着きを取り戻した様子でコートランドに応えた。オレンは二人に頭を下げると、レシアに案内され聖堂を後にした。
レシアはオレンを教会塔の上層へ連れて行く。
塔は相変わらず複雑な構造をしており、上層に上がる為には他の塔を経由したり、一度下りる必要があった。覚えきれない複雑な道順を辿り、苦労してやっと塔の頂上に辿り着くと、そこには空中庭園が広がっていた。
人がやってきて慌てて飛翔する鳥の視界には、遠くには山々が連なり、足元にはキンプーサの街並みが広がる。残された太陽の光を燦燦と浴びた花壇と、心地良い爽やかな風が吹く高所から眺める景色は、まるで絵画のように美しかった。しかしそこには、肝心のケルナーなる人物どころか、ひと一人いなかった。
オレンがその景色に気を奪われていると、レシアは空中庭園の中心に立ち、細長い笛を取り出して演奏を始めた。その調べは清らかで、木製楽器の持つ伸びやかな音色を響かせた。その旋律と景色のハーモニーは、音楽の素養など無いオレンの心にも十分に美しいと響かせる力があった。
しばらく鑑賞していたオレンは、ふと気づく。その音は同じ旋律の繰り返しで、音楽というより何かの合図のようだった。
その瞬間、空中庭園を大きな影が過った。遮るものなどある筈のない天空を、更にその上から何度も太陽の光を遮る奇妙な影が走る。それは、徐々にこちらに近づいてきたかと思うと、嵐のような風と共に急速にこちらに飛来して来た。
その姿は、紛れもなく竜だった。
空をざわつかせ、まるで星が落ちてくるような巨大な影に覆い尽くされる寸前で、竜は翼を一振りすると、その羽ばたきは気流を乱し、笛の音をかき消して、堂々とレシアの傍に降り立った。
その皮膚は鉄鉱石のような暗い艶を持ち、大きな翼は巨大な蝙蝠を連想させる。鋭い牙や爪は人間など容易に引き裂けるだろう。獰猛そうな黒竜を前にして、レシアは冷静に演奏をやめ、そっと竜の頭に手を当てた。呆気にとられるオレンを前に、レシアが挨拶する。
「初めまして。彼がケルナーです。」
「…。」 余りの事にオレンは言葉を失う。
「…あ、オレンです。…言葉、分かるの?」
気を取り直したオレンは反射的に応えるが、同時に湧いた疑問も投げかける。
「ええ、真心と敬意をもって話せば伝わります。」 レシアはそれまで見せなかった笑顔で応えた。
「ケルナーは、太古の六竜の眷属、ただでさえ希少な竜の生き残り。」
「この姿は人から見れば恐ろしい竜ですが、それでも六竜に比べれば身体は小さく、力も弱いです。」
「過去には、狩りの対象とされたり、戦いの道具とされることもありました。ケルナーもそのような運命を辿ってもおかしくありませんでしたが、当時の教団の勇者クトーが庇護を与え、それ以来歴代の勇者の翼として、この教団と共生してきたのです。」
レシアがケルナーを語る姿は、先ほどオレンに語った勇者の説明と違い、どこか温かみがあった。それはケルナーに対する愛情のようなものだった。
太古の六竜とは、この世界を司る六属性精霊の頂点に立つ六匹の竜である。その存在は魔王と同様に恐れられ、そして神格化されている。その眷属である黒竜ケルナーが人と心を通わせているのは、一つの奇跡といえるだろう。
「…すごい。本物の竜なんて…。あの、触ってみてもいいですか?」
オレンにとってケルナーの姿は確かに恐ろしかったが、それ以上に驚きと興奮が勝る。レシアのお陰で大人しくしているせいもあったが、それ以上に伝説の生き物を前にして血が騒ぐのは、男の子の性なのかもしれない。
「では、こちらにどうぞ。」
レシアはそう言ってオレンを側に招く。まず自分がケルナーの鼻と目の間を優しく触り、オレンに真似するようにみせた。オレンは恐る恐るゆっくりと触れる。その皮膚は思った以上に熱く、息遣いの熱量を感じる。三度も撫でると、オレンに笑みが自然と漏れ出した。その間、ケルナーは大人しく触られていた。
「勇者教団で私はケルナーの世話役を任されています。大空を自由に飛ぶ姿を見守り、時折こうして語り掛けているのです。」
「けれど…、勇者クレメンタインは一度もケルナーに乗っては下さいません。」
「確かに、勇者クレメンタインには黒竜の翼など必要ないのかもしれませんが、少し寂しいですね。」
話をしているレシアの表情がわずかに暗くなる。オレンは、どう声をかけたらいいか戸惑っていたが、次の瞬間、レシアの言葉が彼を驚かせた。
「それでは、今日の締めくくりとして、ケルナーに乗ってオレンさんをお送りします。」
「…えっ?! 乗るの? 竜に?」
「はい、準備を整えますので、少々お待ちください。」
驚くオレンをよそに、レシアは少し離れた所にある保管庫に入って行った。そこから大きな鞍を運び出し、ケルナーに取り付け始める。オレンも好奇心から手伝ったが、ケルナーは嫌がる様子もなく、動かずにじっとしていた。
「はい。それでは、オレンさんは後ろに乗ってください。」
準備が終わると、レシアは大きな鞍の後ろへオレンを誘導する。オレンは初めての体験にドキドキしながらも、ケルナーの後ろから、尾を踏まないように背中の鞍に飛び乗った。レシアはそれを見届けてから、軽やかに跳躍して鞍に飛び移ってみせた。互いに鞍に付けられたベルトで固定して、準備が整ったのを確認するとレシアはケルナーに呼びかける。
「ケルナー、行くよ!」
レシアが合図を送ると、ケルナーが羽ばたきその大きな身体が少しずつ浮き始める。そしてある程度の高さまで上がると、今度は塔からの自由落下を利用して加速し、そして翼を目一杯広げて風を捉えると、見事に大空を舞った。
オレンは振り落とされないように必死に鞍にしがみ付いていたが、次第に風に慣れてくる。竜の背に乗って空を飛ぶ体験は、これまでの飛行魔法とはまた違った空の景色を見せてくれた。竜が飛ぶ高度からは、雲が横に膨らみ、地上が霞んで見える。オレンが目にしている景色は、この世界ではまだ極めて限られた人間だけに許されたものだった。
ケルナーは風を切り裂いて進む。その力強い羽ばたきは空気を圧縮し、推進力へと変える。加速して雲の中を突き抜けると、地上に見えた街並みはもう別の街へ移っている。
オレンはこの感動的な時間が永遠に続いて欲しいと願うが、そんな時間に限って過ぎ去るのは早く、やがて景色は見覚えのある場所に移り変わっていった。
レシアが合図すると、ケルナーは大きく旋回をしながらゆっくりと下降を始めた。それは同時に、この刺激的な空の旅の終わりをオレンに告げる合図だった。
レシアは、人けの少ないミカビ村の中でも、更に目立たない場所を選んでケルナーを降ろした。オレンはケルナーから降り、地に足を付けると自分でも抑えられない情熱が噴き出した。
「ありがとう! こんな、最高の体験だったよ! ありがとう、レシア! ケルナー!」
続いて降りてきたレシアの両手を掴んで、オレンは絶叫に近い声で叫び感情を爆発させた。そんなオレンに驚くレシアの顔を見て、自分がやっている事を理解したオレンは慌てて手を離した。
「…。こちらこそ、こんなに喜んでもらえて…。私も、ケルナーも嬉しい。」
レシアは少し照れながらそう言うと、その笑みを隠すようにケルナーに飛び乗った。
「それから! ありがとう、あの時庇ってくれて!」
「さあ、ケルナー!」
レシアの合図で再びケルナーの体は上昇を始める。ケルナーの体が邪魔をして、レシアがどんな顔で今の言葉を言ったのか、オレンからは全く見えなかった。見送るオレンを残して、レシアは振り返ることもなくケルナーと共に去っていった。




